第5話 問いかけ
文字数 1,745文字
「前から訊いてみたかったことがあるんだ」
大きな事務机の上には大量の資料。その奥にある座り心地のよさそうな椅子に座り、彼は穏やかに問いかけてきた。
「……何でしょうか」
「君は、人を殺したいと思った事はあるかね」
スケジュールが毎秒刻みの多忙な人物だという事に疑いはない。捜査一課の管理官ともなれば致し方のない事だろう。
だが、そんな突拍子の無い質問をする程の余裕はあるのか、と思ってしまう事に罪はないはずだ。
怪訝な表情を向けてやれば、管理官は「はは」と人のよさそうな笑みを零す。
「突拍子のない話ですまないね。……ま、ただの世間話だよ」
「随分穏やかではない世間話ですね」
俺が返せども、表情は崩れない。
捜査一課に所属してから長年の付き合いとなる管理官が、単なる世間話として俺にその話をするとは到底思えなかった。何か裏があるのではと勘繰っていたのがバレたのか、彼は一度目を伏せ、その続きを口にする。
「君は優秀だ。警部への昇進も間もなくだろう。……だが、そんな君にやっかみの声が上がっているのも確かだからね」
「随分あけすけに物を言いますね。普通そういうの、本人に言いますか?」
「隠し事や陰口は、君にとって有効ではないだろう?」
だからといって、と反論する気も失せていた。そういった声が自分に対して向けられている事など百も承知だ。しかし、特段の弊害なく昇進自体は出来ている。目の前の上司の計らいであることは言うまでもない。そして、認めてくれているからこそ、先程の問いが投げられたのだ。
俺は口調を崩すことなく答えた。
「ありませんよ。あの時から、一度も」
「そうか。……ま、捜査一課の警部補殿が『沢山あります』なんて言ったら大問題だわな」
彼はにこりと口元をつり上げると、先程俺が渡したばかりの報告書を軽く掲げて見せた。
「ああ、おかしなことを聞いて悪かった。今日はもう帰りか?」
「いや、別件の書類をまとめる予定なので、今日は泊まります」
「ほどほどにしとけよ」
「管理官に言われたくありません」
今度は声を上げて笑う管理官に一礼して、俺は部屋を出る。外に出ると、通路に立っていた数人の刑事が、こちらを一瞥してすぐさま視線を外した。室内の話が聞こえていたのだろうか。だが、それは決して悪し様な視線ではなかった。
本当に、いつになっても管理官には頭が上がりそうにない。
庁内の廊下を歩き、ふと立ち止まる。
窓を雨粒が打っていた。夜闇から現れては窓に打ち付けられ、そしてひしゃげる水滴を、俺はじっと見つめる。
非難の声には慣れていた。昔から、形を変えつつ俺に降りかかっていたものだ。
だが、あの日から、その声は確かに俺自身へと向いていた。
当然だ。人一人殺しているのだから。
あの日。修学旅行先で、イシイは持ち前の正義感から、一人の人間を助けるために裏組織の人間に喧嘩を売った。結果として妙な薬を打たれ、彼は錯乱して大事故を引き起こした。――それがあの事故に関わった俺が、警察から告げられた真実だ。だが、実際に何が起こっていたのかを知る術などない。
唯一言えることは、事故を引き起こしたイシイは『善人』であった事。彼がコウヘイを意図的に殺すとは思えない。恐らく彼は、半身が千切れたコウヘイを救うために連れていたのだ。そして俺は、そんなイシイを殴り殺した。ただ感情的に。衝動的に。
俺は殺人罪に問われなかった。正当防衛が適用されたからだ。どんなに殺しの事実を訴えても、――或いは訴えたからなのか――『罰しない』という結論は覆らなかった。
だが、刑事となった今でも、俺は周囲から「人を殺した」と認識されている。
そして、俺自身がそう思っている。
法が俺を裁かないのないのなら、俺はどう償えばいいのか。分からないまま、今日まで生きてきた。
――生きている。
それは救いだ。いや、救いだと、思わなければならない。
喉の奥に堰溜まった薄暗い異物。叫び出しそうな、絞り出すしかないそれを。取り除く術を俺は知ってしまった。
けれど、もう二度と取り去る事は許されない。
俺が許さない。
『カズ』
どうして人を救えるアイツが死んで、何もできなかった俺が生きているのか。
『――生きてくれ』
永遠に答えの出ない問いを、投げかけ続けている。
大きな事務机の上には大量の資料。その奥にある座り心地のよさそうな椅子に座り、彼は穏やかに問いかけてきた。
「……何でしょうか」
「君は、人を殺したいと思った事はあるかね」
スケジュールが毎秒刻みの多忙な人物だという事に疑いはない。捜査一課の管理官ともなれば致し方のない事だろう。
だが、そんな突拍子の無い質問をする程の余裕はあるのか、と思ってしまう事に罪はないはずだ。
怪訝な表情を向けてやれば、管理官は「はは」と人のよさそうな笑みを零す。
「突拍子のない話ですまないね。……ま、ただの世間話だよ」
「随分穏やかではない世間話ですね」
俺が返せども、表情は崩れない。
捜査一課に所属してから長年の付き合いとなる管理官が、単なる世間話として俺にその話をするとは到底思えなかった。何か裏があるのではと勘繰っていたのがバレたのか、彼は一度目を伏せ、その続きを口にする。
「君は優秀だ。警部への昇進も間もなくだろう。……だが、そんな君にやっかみの声が上がっているのも確かだからね」
「随分あけすけに物を言いますね。普通そういうの、本人に言いますか?」
「隠し事や陰口は、君にとって有効ではないだろう?」
だからといって、と反論する気も失せていた。そういった声が自分に対して向けられている事など百も承知だ。しかし、特段の弊害なく昇進自体は出来ている。目の前の上司の計らいであることは言うまでもない。そして、認めてくれているからこそ、先程の問いが投げられたのだ。
俺は口調を崩すことなく答えた。
「ありませんよ。あの時から、一度も」
「そうか。……ま、捜査一課の警部補殿が『沢山あります』なんて言ったら大問題だわな」
彼はにこりと口元をつり上げると、先程俺が渡したばかりの報告書を軽く掲げて見せた。
「ああ、おかしなことを聞いて悪かった。今日はもう帰りか?」
「いや、別件の書類をまとめる予定なので、今日は泊まります」
「ほどほどにしとけよ」
「管理官に言われたくありません」
今度は声を上げて笑う管理官に一礼して、俺は部屋を出る。外に出ると、通路に立っていた数人の刑事が、こちらを一瞥してすぐさま視線を外した。室内の話が聞こえていたのだろうか。だが、それは決して悪し様な視線ではなかった。
本当に、いつになっても管理官には頭が上がりそうにない。
庁内の廊下を歩き、ふと立ち止まる。
窓を雨粒が打っていた。夜闇から現れては窓に打ち付けられ、そしてひしゃげる水滴を、俺はじっと見つめる。
非難の声には慣れていた。昔から、形を変えつつ俺に降りかかっていたものだ。
だが、あの日から、その声は確かに俺自身へと向いていた。
当然だ。人一人殺しているのだから。
あの日。修学旅行先で、イシイは持ち前の正義感から、一人の人間を助けるために裏組織の人間に喧嘩を売った。結果として妙な薬を打たれ、彼は錯乱して大事故を引き起こした。――それがあの事故に関わった俺が、警察から告げられた真実だ。だが、実際に何が起こっていたのかを知る術などない。
唯一言えることは、事故を引き起こしたイシイは『善人』であった事。彼がコウヘイを意図的に殺すとは思えない。恐らく彼は、半身が千切れたコウヘイを救うために連れていたのだ。そして俺は、そんなイシイを殴り殺した。ただ感情的に。衝動的に。
俺は殺人罪に問われなかった。正当防衛が適用されたからだ。どんなに殺しの事実を訴えても、――或いは訴えたからなのか――『罰しない』という結論は覆らなかった。
だが、刑事となった今でも、俺は周囲から「人を殺した」と認識されている。
そして、俺自身がそう思っている。
法が俺を裁かないのないのなら、俺はどう償えばいいのか。分からないまま、今日まで生きてきた。
――生きている。
それは救いだ。いや、救いだと、思わなければならない。
喉の奥に堰溜まった薄暗い異物。叫び出しそうな、絞り出すしかないそれを。取り除く術を俺は知ってしまった。
けれど、もう二度と取り去る事は許されない。
俺が許さない。
『カズ』
どうして人を救えるアイツが死んで、何もできなかった俺が生きているのか。
『――生きてくれ』
永遠に答えの出ない問いを、投げかけ続けている。