第3話 たまゆら
文字数 4,900文字
転校生――佐々木幸平と趣味を語り合う仲になった。
お互いを苗字に君付けで呼び合うのは流石によそよそしすぎる、ということで、僕は彼を『コウヘイ』と呼び、幸平は僕の事を『カズ』と呼ぶようになっている。
何故僕だけ略されるのかと言えば、「僕の下の名前を呼び間違えたら流石に申し訳ないから」だとか何とか。
致命的に人の名前を覚えることが苦手なコウヘイは、僕の名前を最初『ユイ』だと思って、名前として憶えていた。会話を交わした後も下の名前がなかなか覚えられず、結果『カズ』呼びが定着したのだ。
今となっては流石に間違えることはないが、当初は『カズヨシ』『カズヒコ』『カズオ』と呼びたい放題だったのだ。本人に一切の悪気がない点が、僕としては面白かった。
ここ最近でわかったのは、佐々木幸平という男はよく喋り、よく動くという事。
感情表現の豊かな彼の言動や行動は、今まで対話をした人間の中でもずば抜けて分かりやすい。僕自身、他人の機微に疎い人間ではあるが、それを加味してもなお、この男の考えている事は面白いほどに筒抜けだ。楽しければよく笑うし、気に入らないことがあればすぐに言葉にする。
「自分といて本当に楽しいのか」「気を使っているのではないか」と罪悪感じみたものを僕が抱えた事もあったが、コウヘイは僕との時間が嫌になったらきっと勝手に離れていくだろう。彼がこうして僕といるのは、あくまでも彼の意志なのだ。
彼といて楽なのは、そう僕自身が思える事でもあった。
僕の机に花瓶が置かれなくなって、半年が経った頃。
帰りのホームルーム前に行われる清掃時の事だ。
その週、僕達は男子トイレが担当だった。
掃除場所の担当は、席の近い者を6人で括って割り振られる。席の近い者ということはつまり、幸平と、そしてイシイもいるという事だ。トイレ掃除ともなると男女が別で、彼が話しかけてくる頻度は格段に上がる。
毎日毎日話しかけてくるイシイがあまりにも煩わしく、僕は学校裏までのゴミ捨てを買って出るのが常だった。
「なあ、どうして君は彼とそんなに仲良くなれたんだ?」
「あ?」
それもあと2日の我慢、と考えながら戻ってきた水曜日。トイレの中から聞こえてきた声に僕ははたと足を止めた。
「彼?」
「カズヨシ君だよ。オレはキミが来る前から、よく彼に話しかけてあげてるんだが……。何故か全く相手にしてくれなくて」
その問いに答えとなる声は無かった。
女子トイレの方聞こえてくる楽しげな話声にまぎれて聞き逃してしまったのだろうかと、僕は少し足を踏み出す。が、
「……イシイってさ、カズの事何だと思ってんの?」
ああ、機嫌を損ねたな。と、声を聞いて分かった。
耳に届いた低い声に、覚えがあるわけではない。普段自分の機嫌を取るのが上手いコウヘイが、僕に怒った事は1度もなかった。
だが、彼ほど感情をストレートに投げる人間もそういない。聴覚でしか状況は探れないが、それはあまりにも分かりやすい空気の変化だ。
「何、とは?」
「お前、よくカズに話しかけてるじゃん。そんとき、アイツはどんな奴だと思って話しかけてんだ?」
「どんな奴……。彼は大変な思いをしてる人だと思ってる。だから少しでも力になれたらと。彼が悪い事をした訳じゃないから……」
「へぇ。そういうくせに、あの花瓶は放置してたんだな」
コウヘイの声が鋭さを増した。その剣呑さにあてられてか、イシイの声が上ずる。
「それは……カズヨシ君がクラスに打ち解けてくれたら、自然となくなると思ったんだ。彼がみんなに理解されればきっと」
「……そうかよ」
カラン、と木が固いものに打ちつけられる音。
続けて聞こえてきたのは、静かな怒号だ。
「俺さ、お前のこと嫌いだわ」
「え……」
「お前が最初にクラスの奴らにカズの家の事情バラしたんだろ?『話しかけて“あげてる”』だ?アイツがハブられる理由作ったくせに、どの面下げてそんな偉そうなこと言えんだよ」
「バラした、って……。だって、彼が悪いことをした訳じゃ無いじゃないか!父親がどうとかは、彼が虐げられる理由にならない!それをみんなにも分かってほしくて……」
不意に、喉の奥に違和感が溜まった。
ああ、まただ。最近はあまり出会わなかったのに。
薄暗い異物。胸と喉の奥から音になって出てきそうになるのを押し止め、僕は学生服の裾を握る。
『カズヨシ君が悪い事をした訳じゃないんだ!皆にもそれを分かって欲しい!』
高校1年生のクラス委員長決めの日。クラス委員長に就任したイシイが言い放った言葉。
一体どこでその話を知ったのかとか、そんな事は最早どうでも良かった。少しでも先延ばししたかったのは確かだが、どうせいつかはバレる話だ。忌避される事に慣れきってしまった僕にとっては些細な問題で。
ただ、それでもイシイは確かに僕の心を蝕んだ。
彼は善意から、良かれと思って僕の事をクラスにバラしたのだ。彼にとっての正義感。呆れるほどに性善説を信じ、彼はクラスの人間へ訴えた。
イシイという人間は恐らく善人だ。誰がどう見ても。そんな彼を僕は嫌いになりたくない。なってはいけない。
だから、無視をしていた。じっと、喉の奥の違和感に耐えながら。
「それをアイツが望んだのかよ」
「それは……でも、彼を虐げるのは間違ってるだろ?それを理解してもらわないと、いつまでも彼は変われないじゃないか!」
「るっせえな!!」
響き渡った大声に、周囲が水を打ったように静まり返った。
女子トイレから恐る恐る顔を覗かせた女子が、立ち尽くす僕の姿を見て慌てて引っ込んでいく。興味本位で近付いてくる人間に僕が視線を送れば、彼らもまたそそくさとその場を離れていった。
コウヘイの低い声は続く。
「お前が言う事も一理はあるぜ。カズが悪い事をした訳じゃねえ。親父のせいでアイツが縮こまって生きるのは違うと俺も思う。けど、その話が先行したらアイツに対する偏見悪化するってなんで考えねえんだよ?俺でも分かるわ。お前がクラスにそれを訴えた結果何が残ったんだ?」
「だから……オレが話しかけて……」
イシイはぼそぼそと歯切れ悪く反論した。
「『あげてる』か?気色悪ィ。誰がンな事頼んだんだよ。カズの態度見てりゃ分かんだろ?
自己満足のヒーローごっこにアイツを付き合わせんな!!」
吐き捨てた声が、こちらへと向かってくる。
今顔を合わせる事に気まずさもあるが、僕の足は動かない。とうとうバチリと視線がぶつかって、僕たちの間に沈黙が訪れた。
「……掃除、終わった」
ただしそれはほんの一瞬で、コウヘイはそんな片言を残して足早に僕の隣を通り過ぎていく。
徐々に喧騒を取り戻し始めたこの場にとどまる意味などない。僕もまた踵を返してそれを追う。
大股でずかずかと進むコウヘイに、事情を知らない学校の人間は何事かと首を傾げて道を開けていた。
やがてたどり着いたのは、立ち入り禁止の貼り紙がされた屋上だ。
扉を開け放ったコウヘイは、そこから数歩立ち入ってから頭を掻きむしってしゃがみ込んだ。
「あーーーー、ムカつく!!!」
頭上の空は透き通った水色をしていたが、フェンスの奥は赤く染まり上がっている夕方。西日に当てられて長く伸びたコウヘイの影が、僕の足元に落ちる。
僕が後ろ手に扉を閉めてもなお、コウヘイはしばらく不満げに喉から絞り出すような息を吐いていた。
「なんで我慢できんだよ、お前」
「……」
その声はつっかえ、揺れている。叫び出しそうな声を必死に取り繕う様に、低い声で彼は呻いた。
「全部聞いてたんだろ」
呆然と立ち尽くす僕を振り返る。だが、コウヘイの背後から当てられた西日のおかげで、彼の顔が上手く見えない。
「まぁ……」
「……嫌じゃねえのかよ。周りの奴らにあんな態度取られてさ。花瓶の件とか、イシイのやり方とか……色々!」
吐き出した言葉に脈絡はなかった。選ぶ余裕が無いほどに感情を高ぶらせて、コウヘイは声を揺らがせる。
彼が僕のために怒ってくれていると分からない程鈍くはない。
そして、その問いかけに「嫌じゃない」と心から答えられるほど僕は善人ではなかった。
けれど
「駄目なんだ」
「……何がだよ」
喉の奥に声が堰溜まる。もういつから感じていたのか分からない、薄暗い違和感だ。
「僕は……皆にとって無害でありたい。だから、ダメなんだ。嫌だって思ったら」
「……」
「皆は僕を怖がるけど、それは当たり前だ。僕自身ですら今後一生父と同じことをしないとは言い切れない。だから、距離を置くのは当然だと思う」
無害でありたい。無害でなければいけない。
叫び出しそうな苦みをかみつぶして、僕はずっとそう思うようにしてきた。
仕方がないんだと。何もかもが僕にはどうしようもないのだと。
クラスの人間の事も理解して、石井零士の行動も理解して、そしてそれを飲み込まなければならないと、ずっと思っていた。
「僕が周りに生きることを許してもらうためには、無害でなければいけないんだ。だから、僕はそうする。それが許されるように」
掌が焼き付くほどに握り込む。
嫌だと、ムカつくと、声をあげられるコウヘイがうらやましかった。
僕が一度でもそんな姿を誰かに見せたらどうなるか。そんな事は想像に難くない。
「……クソみたいだな」
「……」
ゆっくりとコウヘイは立ち上がった。膝に手をついて、そして大きく息を吐く。
「カズが生きる事に、許すも許さねえもねえだろ」
膝から手を離し、日差しを背に僕をじっと見つめた。
冷たく澄んだ風が僕の頬を撫ぜる。
影になって顔なんて見えない。だが顔を背ける事はできなかった。コウヘイは確かに僕の目を覗いている。
「なぁ。お前が何をしたってんだよ?」
「何もしてない。けど」
「俺は!」
自分の想像以上に声を張ったのか、コウヘイは驚いたように肩を震わせトーンを落とした。
「……少なくとも俺は、お前に幸せになってほしいと思うし、お前に笑って生きてくれって思う」
「それも駄目なんだ」
「ダメじゃねえ!!」
影のようだったコウヘイが、徐々に僕に近づく。
その黒い瞳が、僕を捉えた。
「お前が諦めてんじゃねえよ!嫌だって思う事は悪い事じゃねえんだ。嫌なことがあったら、拒否っても怒ってもいいんだ!」
駄目なんだと、口から出かかった。胸の異物がその言葉をわざと押し出そうとする。
しかし、それを彼は許さない。
「いいか!これからお前は俺と一緒に色んな楽しい事沢山やって、嫌いなモン忘れるくらい好きなモンつくんだよ!!ダメじゃねえって、今俺が決めたんだ!分かったか!!」
まくしたてるように。矢継ぎ早に。コウヘイは僕をにらみつけて叫んでいる。顔も目線も逸らす事はできない。
返す言葉は思いつかなかった。本来であれば否定しなければならない言葉も、何故か今はすんなりと自分の中に落ちてくる。
ここで上っ面の返事を返す事だって簡単だ。
「……うん」
――けれど、それをする必要なんてない。
「よし!」
掴みかからんばかりの勢いが、僕の返事で少しだけ収まった。
が、それでもまだ落ち着かないのか頭をガシガシとかいて唸る。
「あーッ、むしゃくしゃする!!とりあえず!今日はめちゃくちゃ美味いモン食って帰るぞ!!」
「……」
拒否する事も、怒る事も、嫌う事も。楽しい事も、好きなものを作る事も、親友がいる今も。
全て『自分がやってはいけない事』だと思っていた。
けれど、目の前で自分の代わりに怒り、全てを許してくれる人間がいる。
怖かった。
あり得ない事だと疑うべきだ。いずれ裏切られるんじゃないかと警戒するべきだ。
けれど、僕のそんな警戒や疑いは飛び越えられてしまった。
「僕、から揚げ食べたい」
「っしゃぁ!!じゃあ岩谷商店いこーぜ!」
これから先、僕はコイツに裏切られたらきっと二度と立ち直れない。自覚ができるその域まで、僕は踏み込まれてしまったのだ。
それがわかっていてなお「それでもいい」と思うなんて、本当にどうかしている。
心を許す事はこんなにも怖い。
怖いけれど、――きっと大丈夫。
あの薄暗い違和感は、胸の奥へと解けていた。
お互いを苗字に君付けで呼び合うのは流石によそよそしすぎる、ということで、僕は彼を『コウヘイ』と呼び、幸平は僕の事を『カズ』と呼ぶようになっている。
何故僕だけ略されるのかと言えば、「僕の下の名前を呼び間違えたら流石に申し訳ないから」だとか何とか。
致命的に人の名前を覚えることが苦手なコウヘイは、僕の名前を最初『ユイ』だと思って、名前として憶えていた。会話を交わした後も下の名前がなかなか覚えられず、結果『カズ』呼びが定着したのだ。
今となっては流石に間違えることはないが、当初は『カズヨシ』『カズヒコ』『カズオ』と呼びたい放題だったのだ。本人に一切の悪気がない点が、僕としては面白かった。
ここ最近でわかったのは、佐々木幸平という男はよく喋り、よく動くという事。
感情表現の豊かな彼の言動や行動は、今まで対話をした人間の中でもずば抜けて分かりやすい。僕自身、他人の機微に疎い人間ではあるが、それを加味してもなお、この男の考えている事は面白いほどに筒抜けだ。楽しければよく笑うし、気に入らないことがあればすぐに言葉にする。
「自分といて本当に楽しいのか」「気を使っているのではないか」と罪悪感じみたものを僕が抱えた事もあったが、コウヘイは僕との時間が嫌になったらきっと勝手に離れていくだろう。彼がこうして僕といるのは、あくまでも彼の意志なのだ。
彼といて楽なのは、そう僕自身が思える事でもあった。
僕の机に花瓶が置かれなくなって、半年が経った頃。
帰りのホームルーム前に行われる清掃時の事だ。
その週、僕達は男子トイレが担当だった。
掃除場所の担当は、席の近い者を6人で括って割り振られる。席の近い者ということはつまり、幸平と、そしてイシイもいるという事だ。トイレ掃除ともなると男女が別で、彼が話しかけてくる頻度は格段に上がる。
毎日毎日話しかけてくるイシイがあまりにも煩わしく、僕は学校裏までのゴミ捨てを買って出るのが常だった。
「なあ、どうして君は彼とそんなに仲良くなれたんだ?」
「あ?」
それもあと2日の我慢、と考えながら戻ってきた水曜日。トイレの中から聞こえてきた声に僕ははたと足を止めた。
「彼?」
「カズヨシ君だよ。オレはキミが来る前から、よく彼に話しかけてあげてるんだが……。何故か全く相手にしてくれなくて」
その問いに答えとなる声は無かった。
女子トイレの方聞こえてくる楽しげな話声にまぎれて聞き逃してしまったのだろうかと、僕は少し足を踏み出す。が、
「……イシイってさ、カズの事何だと思ってんの?」
ああ、機嫌を損ねたな。と、声を聞いて分かった。
耳に届いた低い声に、覚えがあるわけではない。普段自分の機嫌を取るのが上手いコウヘイが、僕に怒った事は1度もなかった。
だが、彼ほど感情をストレートに投げる人間もそういない。聴覚でしか状況は探れないが、それはあまりにも分かりやすい空気の変化だ。
「何、とは?」
「お前、よくカズに話しかけてるじゃん。そんとき、アイツはどんな奴だと思って話しかけてんだ?」
「どんな奴……。彼は大変な思いをしてる人だと思ってる。だから少しでも力になれたらと。彼が悪い事をした訳じゃないから……」
「へぇ。そういうくせに、あの花瓶は放置してたんだな」
コウヘイの声が鋭さを増した。その剣呑さにあてられてか、イシイの声が上ずる。
「それは……カズヨシ君がクラスに打ち解けてくれたら、自然となくなると思ったんだ。彼がみんなに理解されればきっと」
「……そうかよ」
カラン、と木が固いものに打ちつけられる音。
続けて聞こえてきたのは、静かな怒号だ。
「俺さ、お前のこと嫌いだわ」
「え……」
「お前が最初にクラスの奴らにカズの家の事情バラしたんだろ?『話しかけて“あげてる”』だ?アイツがハブられる理由作ったくせに、どの面下げてそんな偉そうなこと言えんだよ」
「バラした、って……。だって、彼が悪いことをした訳じゃ無いじゃないか!父親がどうとかは、彼が虐げられる理由にならない!それをみんなにも分かってほしくて……」
不意に、喉の奥に違和感が溜まった。
ああ、まただ。最近はあまり出会わなかったのに。
薄暗い異物。胸と喉の奥から音になって出てきそうになるのを押し止め、僕は学生服の裾を握る。
『カズヨシ君が悪い事をした訳じゃないんだ!皆にもそれを分かって欲しい!』
高校1年生のクラス委員長決めの日。クラス委員長に就任したイシイが言い放った言葉。
一体どこでその話を知ったのかとか、そんな事は最早どうでも良かった。少しでも先延ばししたかったのは確かだが、どうせいつかはバレる話だ。忌避される事に慣れきってしまった僕にとっては些細な問題で。
ただ、それでもイシイは確かに僕の心を蝕んだ。
彼は善意から、良かれと思って僕の事をクラスにバラしたのだ。彼にとっての正義感。呆れるほどに性善説を信じ、彼はクラスの人間へ訴えた。
イシイという人間は恐らく善人だ。誰がどう見ても。そんな彼を僕は嫌いになりたくない。なってはいけない。
だから、無視をしていた。じっと、喉の奥の違和感に耐えながら。
「それをアイツが望んだのかよ」
「それは……でも、彼を虐げるのは間違ってるだろ?それを理解してもらわないと、いつまでも彼は変われないじゃないか!」
「るっせえな!!」
響き渡った大声に、周囲が水を打ったように静まり返った。
女子トイレから恐る恐る顔を覗かせた女子が、立ち尽くす僕の姿を見て慌てて引っ込んでいく。興味本位で近付いてくる人間に僕が視線を送れば、彼らもまたそそくさとその場を離れていった。
コウヘイの低い声は続く。
「お前が言う事も一理はあるぜ。カズが悪い事をした訳じゃねえ。親父のせいでアイツが縮こまって生きるのは違うと俺も思う。けど、その話が先行したらアイツに対する偏見悪化するってなんで考えねえんだよ?俺でも分かるわ。お前がクラスにそれを訴えた結果何が残ったんだ?」
「だから……オレが話しかけて……」
イシイはぼそぼそと歯切れ悪く反論した。
「『あげてる』か?気色悪ィ。誰がンな事頼んだんだよ。カズの態度見てりゃ分かんだろ?
自己満足のヒーローごっこにアイツを付き合わせんな!!」
吐き捨てた声が、こちらへと向かってくる。
今顔を合わせる事に気まずさもあるが、僕の足は動かない。とうとうバチリと視線がぶつかって、僕たちの間に沈黙が訪れた。
「……掃除、終わった」
ただしそれはほんの一瞬で、コウヘイはそんな片言を残して足早に僕の隣を通り過ぎていく。
徐々に喧騒を取り戻し始めたこの場にとどまる意味などない。僕もまた踵を返してそれを追う。
大股でずかずかと進むコウヘイに、事情を知らない学校の人間は何事かと首を傾げて道を開けていた。
やがてたどり着いたのは、立ち入り禁止の貼り紙がされた屋上だ。
扉を開け放ったコウヘイは、そこから数歩立ち入ってから頭を掻きむしってしゃがみ込んだ。
「あーーーー、ムカつく!!!」
頭上の空は透き通った水色をしていたが、フェンスの奥は赤く染まり上がっている夕方。西日に当てられて長く伸びたコウヘイの影が、僕の足元に落ちる。
僕が後ろ手に扉を閉めてもなお、コウヘイはしばらく不満げに喉から絞り出すような息を吐いていた。
「なんで我慢できんだよ、お前」
「……」
その声はつっかえ、揺れている。叫び出しそうな声を必死に取り繕う様に、低い声で彼は呻いた。
「全部聞いてたんだろ」
呆然と立ち尽くす僕を振り返る。だが、コウヘイの背後から当てられた西日のおかげで、彼の顔が上手く見えない。
「まぁ……」
「……嫌じゃねえのかよ。周りの奴らにあんな態度取られてさ。花瓶の件とか、イシイのやり方とか……色々!」
吐き出した言葉に脈絡はなかった。選ぶ余裕が無いほどに感情を高ぶらせて、コウヘイは声を揺らがせる。
彼が僕のために怒ってくれていると分からない程鈍くはない。
そして、その問いかけに「嫌じゃない」と心から答えられるほど僕は善人ではなかった。
けれど
「駄目なんだ」
「……何がだよ」
喉の奥に声が堰溜まる。もういつから感じていたのか分からない、薄暗い違和感だ。
「僕は……皆にとって無害でありたい。だから、ダメなんだ。嫌だって思ったら」
「……」
「皆は僕を怖がるけど、それは当たり前だ。僕自身ですら今後一生父と同じことをしないとは言い切れない。だから、距離を置くのは当然だと思う」
無害でありたい。無害でなければいけない。
叫び出しそうな苦みをかみつぶして、僕はずっとそう思うようにしてきた。
仕方がないんだと。何もかもが僕にはどうしようもないのだと。
クラスの人間の事も理解して、石井零士の行動も理解して、そしてそれを飲み込まなければならないと、ずっと思っていた。
「僕が周りに生きることを許してもらうためには、無害でなければいけないんだ。だから、僕はそうする。それが許されるように」
掌が焼き付くほどに握り込む。
嫌だと、ムカつくと、声をあげられるコウヘイがうらやましかった。
僕が一度でもそんな姿を誰かに見せたらどうなるか。そんな事は想像に難くない。
「……クソみたいだな」
「……」
ゆっくりとコウヘイは立ち上がった。膝に手をついて、そして大きく息を吐く。
「カズが生きる事に、許すも許さねえもねえだろ」
膝から手を離し、日差しを背に僕をじっと見つめた。
冷たく澄んだ風が僕の頬を撫ぜる。
影になって顔なんて見えない。だが顔を背ける事はできなかった。コウヘイは確かに僕の目を覗いている。
「なぁ。お前が何をしたってんだよ?」
「何もしてない。けど」
「俺は!」
自分の想像以上に声を張ったのか、コウヘイは驚いたように肩を震わせトーンを落とした。
「……少なくとも俺は、お前に幸せになってほしいと思うし、お前に笑って生きてくれって思う」
「それも駄目なんだ」
「ダメじゃねえ!!」
影のようだったコウヘイが、徐々に僕に近づく。
その黒い瞳が、僕を捉えた。
「お前が諦めてんじゃねえよ!嫌だって思う事は悪い事じゃねえんだ。嫌なことがあったら、拒否っても怒ってもいいんだ!」
駄目なんだと、口から出かかった。胸の異物がその言葉をわざと押し出そうとする。
しかし、それを彼は許さない。
「いいか!これからお前は俺と一緒に色んな楽しい事沢山やって、嫌いなモン忘れるくらい好きなモンつくんだよ!!ダメじゃねえって、今俺が決めたんだ!分かったか!!」
まくしたてるように。矢継ぎ早に。コウヘイは僕をにらみつけて叫んでいる。顔も目線も逸らす事はできない。
返す言葉は思いつかなかった。本来であれば否定しなければならない言葉も、何故か今はすんなりと自分の中に落ちてくる。
ここで上っ面の返事を返す事だって簡単だ。
「……うん」
――けれど、それをする必要なんてない。
「よし!」
掴みかからんばかりの勢いが、僕の返事で少しだけ収まった。
が、それでもまだ落ち着かないのか頭をガシガシとかいて唸る。
「あーッ、むしゃくしゃする!!とりあえず!今日はめちゃくちゃ美味いモン食って帰るぞ!!」
「……」
拒否する事も、怒る事も、嫌う事も。楽しい事も、好きなものを作る事も、親友がいる今も。
全て『自分がやってはいけない事』だと思っていた。
けれど、目の前で自分の代わりに怒り、全てを許してくれる人間がいる。
怖かった。
あり得ない事だと疑うべきだ。いずれ裏切られるんじゃないかと警戒するべきだ。
けれど、僕のそんな警戒や疑いは飛び越えられてしまった。
「僕、から揚げ食べたい」
「っしゃぁ!!じゃあ岩谷商店いこーぜ!」
これから先、僕はコイツに裏切られたらきっと二度と立ち直れない。自覚ができるその域まで、僕は踏み込まれてしまったのだ。
それがわかっていてなお「それでもいい」と思うなんて、本当にどうかしている。
心を許す事はこんなにも怖い。
怖いけれど、――きっと大丈夫。
あの薄暗い違和感は、胸の奥へと解けていた。