第2話

文字数 3,458文字


 彼が二度目に来たのは、僕が五年生になって、ちょうど運動会が終わったばかりの頃だった。僕の学校では五月に運動会があるのだが、ものすごく張り切ってそれに(のぞ)んだにもかかわらず、僕は徒競争で――ああ、徒競争・・・――五人中三番だった(そのうち一人はものすごく太っている子。もう一人はふくらはぎを痛めて途中棄権)。それに組体操で上に乗っていた子の手が鼻に当たって、ひどい鼻血が出た(両方から)。お母さんが作ってきてくれたお弁当はおいしかったけれど、午後は熱中症でふらふらして、しばらく保健室で休んでいた(そのせいでクラスの集合写真に映り(そこ)ねた)。振り返ってみて思うのだけど、まあ散々な運動会だった。

 いずれにせよ僕としてはあのおじさんのことを忘れたわけではなかった。よく犬の散歩をしているときに、例の斜面を見ては彼のことを思い出したものだ。あの人は一体どこに行っちゃったんだろうな、と。車を持っているようでもなかったし、かといってタクシーを呼んだわけでもなかった。あの人が住んでいる場所にはここから歩いてどれくらいかかるのだろう? それにあんな細い脚で?

 でもまあそんなことは心配したところで仕方がなかった。まああの人はあの人できっとしっかりやっているはずだ、と思った。たぶんお金持ちではないのだろうけれど――そのことはなんとなく想像できた――おそらく詩人としての誇りを持って自らの仕事をきちんとこなしているはずだ。そこでふと思ったのだが、彼はたとえば詩集とかを出版しているのだろうか? 本人が「詩人」といっている以上、常識的に考えれば出版しているはずだったが、あの人に限ってはそんなことはあり得ないような気がした。きっと自分のための詩を細々(ほそぼそ)と書いているのではないだろうか。

 とにかく、ときどきそんな風に疑問に思うことはあったけれど、とりあえず僕には僕の生活があった。毎日学校に行き、放課後と土曜日には野球の練習をする。相変わらずレギュラーは取れないけれど、まあ友達とふざけまわっている分には結構楽しい(コーチが来たらちゃんと練習する)。「君はほかの子たちとは違っているんだ」という彼の言葉も、始めのうちはちゃんと覚えていたのだけれど、しばらくするとだんだん頭からかすれて消えてしまった。

、というのが僕の正直な感想だった。


 彼がそのときやって来たのは、夜中の僕の部屋だった。運動会の嫌な記憶を払い除けようと、ひたすらゲームをして、そして眠りに就いたあとだった。あまりにも深く眠っていたので、最初のうちしばらく自分は夢を見ているんだと思っていた。

「なあ、おい」という声がして僕は目を覚ました。

「なに?」と僕は暗闇に向けて言った。

「『なに?』じゃない。ほら、私だ。詩人だよ」

 それを聞いて僕の意識は急速に覚醒した。眠りの気配など完全にどこかに吹き飛んでしまった。まったく。どうしてそんなことが起こるのだろう?

「おじさん?」と僕は言った。「久しぶりじゃない」

「おじさんじゃない」とおじさんは言った。「詩人だ。詩人のおじさんだ。まあいいや、なんでも」

「でももうちょっと声を低くした方がいいよ」と僕は言った。「なにしろすぐそこで弟が眠っているから」

「君の弟のことは考えなくてもいい」と彼は言った。「この子はものすごく深く眠っているから。たとえ原子爆弾が落ちてきたとしても目を覚ますまい」

「原爆が落ちてくるの?」と僕は不安になって言った。

「いや、ありがたいことに原爆は今のところは落ちてこない。さあ、ちょっと庭に出てきてくれないか?」

 僕はいわれるままに布団を出て、彼のあとに付いて玄関を出た。時刻はもう何時だかも分からないくらい深い夜だった。お父さんとお母さんもとっくにぐっすりと眠っている。僕が外に出ていくと、犬小屋の方から犬が起きたような気配が感じ取れた。でもまったく吠える様子はない。やっぱりこのおじさんは特別なんだ、と僕は思った。

 おじさんは前のときとまったく同じ格好をしていた。テカテカした黒のスーツに、黒いシルクハット。丸眼鏡。そしてステッキ。彼は空を見上げ、そこにあるまんまるの月を指差した。

「あれだ」と彼は言った。

「あれって何さ」と僕は言った。「ただの月でしょう?」

「ただの月か」と彼は言った。「それは将来の詩人にしては少々月並みないい方だな。古今東西の詩人たちがさまざまな言葉を駆使して月の美しさを表現してきたというのに」

「でもさ」と僕はちょっと(あせ)って言った。「僕はまだ詩人になるって決めたわけじゃないからね。まず第一の目標はプロ野球選手で・・・」

「まあそのことはいいさ」と彼はすかさず(さえぎ)った。「とにかく今大事なのは、君にあるものを見てほしいということなんだ」

「あるもの?」と僕は言った。「それはなに?」

「あれさ」と言って彼はまた空を指差した。「あの辺を見てごらん」

 僕はいわれた通りその辺を見てみたのだが、どうしてもただの夜空にしか見えなかった。月があって、いくつかの星が散らばっている。薄い雲がかかっている。まあそれだけだ。「それだけじゃん」と僕は言った。

 でも次の瞬間、彼がステッキを上に向けて一振りすると、そこにあった光景が一変した。うっすらとかかっていた(もや)のようなものが晴れ、完全にクリアに星の姿が見えるようになったのだ。星と星の間の黒いスペースに、さっきまでは何もないと思っていたにもかかわらず、また別の星が現れていた。月に関しては、その表面に(さわ)れそうなくらい細部まで見渡すことができた。

「すごい」と僕は言った。

「なあ、すごいだろう」と彼はまんざらでもなさそうに言った。「いいかい、これが詩人が見ているものの一部だ。もちろんいつもいつも見られるというわけじゃない。きちんと意識を集中したときだけだ」

 彼はそう言うと、今度もまたステッキを一振りした。すると大きな流れ星が現れて、ものすごい勢いでこちらに向けて落っこちてきた。僕は思わず両手で頭を抱え、そして目をつぶった。正直おしっこをちびりそうなくらいビビった。

「目を開けるんだ!」という声がそのとき突然聞こえた。僕ははっと目を開け、そして落ちてくるそれを直視した。どうやら大気に入り込むところで燃え尽きたらしく、赤い残像のようなものだけが近い空に残っていた。僕には星が焼ける焦げ(くさ)い匂いすら嗅ぎ取ることができた。

「あれもおじさんが出したの?」と少しして僕は訊いた。

「いや、私が出したわけじゃない」と彼は言った。「私がしたのは、あくまで(もや)を払い去ることだ。こんなものはこのステッキの力を借りずとも、よく目を凝らせば誰にでも見えるものなんだよ。でも普通の人はそんなことはしない。君だってほら、綺麗な星が見えている間は目を開けていたのに、流れ星が落ちそうになると目を閉じたじゃないか。みんな似たようなことをしているのさ。自分に都合の悪いことは見ないようにする。あとのことはしーらないってね」

「でもおっかなかったぜ」と僕は言った。たぶんちびってはいないと思う。

「世界はおっかないものなのさ」と彼は言った。「いいかい? 詩人たるもの、いつだってきちんと目を開けていなくてはならないんだ。それが今日の教訓。たとえ眠っているときでもね。

。分かったかい?」

「分かったよ」と僕は実はよく分からないままに言った。

「いや、全然分かってないね」と彼は真実を見通したように言った。「きちんと声に出して言ってごらん」

「オーケー」と僕は言った。「



「それでいい」と彼は言った。


 実はそのあとのことはあまり覚えていない。一体どうやって自分が布団に戻ったのかも。その言葉を暗唱したにもかかわらず、どうやら僕はその夜夢を見なかったみたいだ。残っている記憶といえば、あのものすごく綺麗な星空と、ものすごくおっかない流れ星の光景だけ。もしかしてあれが全部夢だったのかな、と思ったのは、お母さんに叩き起こされて野球の練習に行ったあとのことだった。



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