第1話

文字数 1,061文字

「っ、蒸すな」

 いつも利用する地下鉄の駅への階段を降りながら、俺は思わず愚痴ともつかない呟きをもらした。

 今日は久しぶりの出社だ。新型コロナの影響でリモートワークが推奨されて久しい。ここ最近は、通勤電車の混雑もかなり緩和されていた。それでも梅雨の時期の地下鉄構内は、やはりむわっとするような空気に満ちている。

 すぐに電車がやって来た。前の人間の頭を見つめて並んでいたが、ふっと視線をホームに入ってくる電車へと移した。

なんだ?今日はやけに混んでるな。

 入ってきた電車は、コロナ禍以前のようなすし詰め状態だった。窓やドアに手をついて体を支える人、必死につり革につかまり体勢を整えようとする人、ポールに押し付けられて痛そうに顔をしかめる人。

おいおい、こんなに混んでて大丈夫なのかよ。

 心の中で動揺しつつも、到着した電車の扉が開くのを待つ。異常な混み具合とは対照的に、電車は静かに止まった。中からたくさんの人が降りてくる。ひと通り降りる人の波が過ぎると、前の人たちに続いて乗り込んだ。降りた人が多かったせいか、先ほどまでとは車内の混雑ぶりがかなり違った。俺はつり革につかまり、先程まで自分が立っていたホームを眺めた。

え?

ホームには全くひと気が無かった。

異様だ。ここは複数の路線の乗り換え駅なのだ。いくらこちら側の電車に人が乗り込んだとはいえ、先ほど降りた人たちや反対側のホームにいたはずの人たちも見当たらない。

まわりの乗客はホームの異常さに気づいているのだろうか?と、車内を見回して愕然とした。

誰もいない。

さっきまで感じられたざわつきも無く、静まり返った車内に俺ひとりだけが立っている。

それでようやく思い出したのだ。

もう、通勤電車は走っていないことを。

 コロナの第五波と呼ばれる感染爆発は、それまでとは比べられないほどの大きな被害をもたらした。特に第四波を乗り越えて活気を取り戻しつつあった都心の企業への通勤電車で、大規模なクラスターが発生したのだ。ひとつの沿線で起こったクラスターは、瞬く間に乗り継ぎの主要駅を介して広がり、感染者数の把握が追い付かなくなるほどだった。俺が前回の出社で乗ったあの電車。コロナ禍以前のように混んだあの車内に、複数の無症状感染者がいたのではないか?というのが後々の調査で明らかになった。

いや、もうどうでも良いことだが。


どうでも良いことのはずなのに。


 また駅にいる。
いつも乗る通勤電車を待っている。乗らなければ良かったと、死ぬ前に数えきれないほど後悔した、コロナ禍以前のように混んだ電車が、やって来た。
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