文字数 3,357文字

「発車、オーライ」
 バスの中に快活な女性の声が響く。そのバスの一席に腰かけていたサツキは、耳によくとおる涼やかな車掌の声を聞きながら、どうして、これほどまでに自分の心は沈んでいるのかと憂鬱になった。
 あたりはすでに仄暗くなっている。家に着く頃にはもう陽は沈んでいるだろうと彼女は思った。近頃帰りが遅いことを父と母は気に病んでいるだろうとも。しかし、この鬱屈とした胸の内にひそんでいるものは、それだけではない。
 一九六三年四月、埼玉県所沢市。彼女の名前は草壁サツキ、五月生まれのサツキはまもなく二二歳になろうとしていた。

「おかえり。お夕飯は?」
 サツキが帰宅すると母のヤスコが笑顔で訊ねてくる。
「大学の側の洋食屋さんでいただいたから」
「熱心だね。同好会の集いかい?」
 新聞を眺める父のタツオが目を上げた。
「はい。友達と」
「素晴らしいじゃないか。志を共にできる仲間がいて」
 タツオは屈託ない笑顔を向けてくる。サツキはその言葉に照れるように笑った。タツオは満足そうにしていたが、ヤスコは口元に笑みを浮かべながらも、わずかな疑念に眉を潜めている。サツキは罪悪感に胸が締めつけられ、ヤスコの目を避けるるように自室へと急いだ。

「ただいま」
 襖を静かに開けると、やっつ離れた妹のメイコが畳に寝転び貸本漫画を読みふけっていた。サツキとメイコは幼少期から変わらず相部屋だった。
 メイコは視線も合わさず、それに対して「うん」と短く応える。
 サツキと同じ五月生まれで十四歳を迎えたメイコは、小さい頃から絵を描くことが好きだった。父親からスケッチブックを買い与えられたら、飽きることも知らずに絵を描き続け、よくそれを持ち歩いていた。
 学校でも図工や美術を得意とし、それは教師たちも目を見張るもので、小さな展覧会では賞を取るほどの腕前だった。
 大きくなるにつれ、当然のように漫画に傾倒するようになる。有名な作家の模写から始まり、自然と自分の思い描いたものを形にするようにまでなった。
 それを端から見たサツキが「すごいじゃない」と褒めてみても、メイコは「うん」とわずらわしそうに応えるのであった。そんなやり取りすら、この頃ではなくなっていた。
 いつも自分のあとにべったりとくっついて来たはずの妹に、これほど疎まれるようになったのはいつからだろうか。
「手塚治虫?」
 それでも、そう思われるのが恐くて声をかけてしまう。そういうところがまたそれを助長させてしまうとわかっているのに。
「まあ」とメイコは気だるそうに答える。合っているのかどうかもわからない。そもそも、メイコは真剣に答える気などないのだ。サツキにはそれを追求する勇気はなかった。
「そう」と言ったきり、そのあと二人のあいだに会話はなかった。
 メイコは小さい頃からわがままばかりだったが、中学に上がると同じ頃に、近所に住む大垣のお婆さんが亡くなり、更に酷くなった。わがままに反抗期が重なり、次第と父と母に心を開かなくなり、それまではいくらか会話もあったはずのサツキにも関心を示さなくなっていった。
 広くはない部屋の中で、隣にいるメイコが何を思っているか、サツキには見当もつかなくなっていた。

 風呂を済ませて寝床に入る。明日も大学に通うため、早くに起きなければならないというのに、サツキはなかなか寝つけない。別れ際の接吻が思い出され、動悸が邪魔をしていたからだ。
 隣で眠るメイコの寝息がサツキを焦らす。「早く寝なくちゃ」そう思うのに、今度は彼の笑顔が邪魔をする。先程まで一緒にいたというのに、もう会いたくなっている。同好会の友人たちとの会食なんて嘘だった。とても御子柴と一緒にいたとは言えない。特に父のタツオには。

 サツキの父、タツオは東京で人に考古学を教える仕事をしている、大学の教授である。当時、教授という役職は家柄、人脈など、その人となりが大きく作用され選ばれるのが通例だった。タツオにはそれに見合ったものはなく、褒められるのは研究への熱意と温厚な人柄くらいだった。
 しかし、教授選の折に、候補者たちが互いを激しく潰し合った結果、めぼしい候補者がいなくなり、勤勉であったタツオに白羽の矢が刺さった。一度は分不相応だと断ったのだが、大学から熱心に頼まれ、タツオは仕方なくそれを承諾した。
 タツオはその人柄から、学生に慕われた。狭山の家にもタツオを慕う学生たちが多く集まった。サツキがちょうど二十歳になる夏に、学生たちは狭山の家に会食に訪れた。庭に大きなテーブルを出し、そこから見える大きな楠を見ながら昼食を取った。その中に御子柴もいた。御子柴はタツオが教えている大学に助教授として赴任したばかりだった。
「小説、お好きなんですか」
 唐突に話しかけられたサツキは驚いて手を止めた。
 タツオが大学の教え子たちを家に招く時、もっぱらサツキは給仕役だった。メイコは決まって「友達と用がある」などと口実を作っては逃げてしまうため、サツキは酒や食事の給仕に二人分働く必要があった。
 サツキと同世代であるタツオの教え子たちから声をかけられることはあったが、教えを乞う教授の娘を口説こうなんて気概のある者はおらず、いつもからかわれる程度で、それを愛想良くかわすのもサツキには慣れっこだった。
 しかし、御子柴があまりに真摯にこちらを見つめながら訊ねてくるものだから、サツキは面食らってしまった。
「あの……」そんなサツキを見兼ねて、御子柴が声をかける。
「はい。好きです」
 向き直ってそう言ってしまったことに、あとから恥ずかしさが込み上げてくる。
「そうですか。教授から本がお好きだと聞いたことがありまして。僕も本の虫なんですが、どういったものを読まれるんですか」
 よくタツオから御子柴の名前は聞いていた。とても優秀であるとタツオはいつも彼を褒めていた。
「お父さんより、よっぽど教授に向いているんだ」
 そんなことあるはずもないが、そう言ってタツオは家族の笑いを誘っていた。だから、サツキは目の前の男が御子柴であるのだと、すぐに察した。切れ長の目と鼻筋の通った大きな鼻に面長ですっきりとした精悍な顔つき、彼はなかなかのハンサムであった。
 そこからサツキは本の話で延々と御子柴と語り合った。互いの好きな作家、作品、作風など、見兼ねたタツオに促されるまで給仕役も放ったらかしてしまっていた。
 サツキはその整った顔よりも、物腰が柔らかく落ち着いた彼の話し方が気に入った。
 これほど、本の話で夢中に語り合えるなんて、文学を専攻している大学の友人ですらいない。そもそも大学で、そんな風に話す友人をサツキは持っていなかった。
 幼い頃、快活でお転婆だったサツキは、段々とおしとやかになり、内向的になり、大人で、女性になっていた。結核で入退院を繰り返していた母の代わりを務めていたのも、早熟の一端かもしれない。
 だから、帰りが遅くなることを心配した両親に「文学同好会」に入ったという嘘をついた。中学で小説の魅力に目覚め、高校に上がる頃には自身でも執筆するようになっていた。
 しかし、頬を赤らめてしまうほど稚拙だと感じる文を誰かに見せようだなんて、とても思えなかったし、「女伊達らに物書きなんて」と馬鹿にされてしまいそうで恐かった。
「とても面白かった」
 東京の喫茶店で、サツキの書いた小説を御子柴はそう言って返した。
 たまたま会話の流れで、「私にはとてもこんな風に書けない」と口を滑らせてしまい、「もしかして、サツキさんは書いているのかい?」という問いをサツキはすぐに誤魔化すことができなかった。
「是非、読ませてもらいたいな」
 サツキは「とても見せられるような物じゃない」と断り続けたが、謙虚な御子柴がいつになく頑なで、サツキはとうとう根負けし、それを承諾した。
 御子柴は「面白い」というだけで終わりにはしなかった。直した方が良い箇所、伝わりにくかった表現をこと細かく教えてくれた。
 自分の未熟さに恥ずかしくて堪らなかったが、嫌ではなかった。御子柴が真剣に自分のためを思って助言してくれたように感じたからだ。
 二人きりで会うたびに、サツキの御子柴に対する想いは増していった。

「早く寝なくちゃ」
 サツキは自分に言い聞かせるように呟いた。
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