十八

文字数 2,509文字


 サロン・ド・室橋事件があってからというもの、ただの一日として妻と一緒にいない夜はなかった。どこかに宿泊しようにも、行き先はおろか、経費そのものが用意できなかったのである。
 妻の顔を見ず、声を聞かない日など想像できなかった。
 身勝手極まりない言い方だが、ひかりと別れた日からの歳月は、妻あっての自分だった。まるでコバンザメのように、彼女のおこぼれに与って生きていた……。
 わたしは妻が、無性に恋しくなっていた。
 ホームレスのいた公園から、田んぼを割って例の土手へと続く農道まで走った。途中の道端でバイクを停め、例の棟をバイクのシートに跨って眺めた。
 最上階に眼をやると、昨夜、わたしがつかまっていた防護柵が眼に入った。夜ではそうでもなかったが、こうして日の高いときに見ると、殺風景すぎる上に、いかにもみすぼらしい風景だった。
 あんなところから、飛び降りようとしていたのだ。
 ここからでも、こんなによく見えるのだから、あの自動販売機のある位置からは、もっとよく見えただろう。ただ、近くに光源がないだけに、シルエットになった顔の表情まで読み取ることは不可能だったろうけれど……。
 わたしは胸ポケットから、携帯電話を取り出した。
 取り出して手に取ったものの、どうしようかと迷った。
 怒られるにせよ、蔑まれるにせよ、せめて声だけでも聞いてからにしたい。そしてできれば、最後の別れのことばと感謝のことばくらいは言ってみたい。昨日の朝にかぎらず、彼女には、なにも特別なことを言わずにきてしまっているのだから……。
 彼女が電話に出てくれないなら、出てくれなくてもいい。
 それが、ある意味、彼女が出した結論なのだ。
 わたしは、勇を鼓して自宅の登録先をプッシュした。
「もしもし、あなた」
 間髪入れず、彼女の発する声が聴こえた。わたしの大好きな、あの声であった。
 初めて会ったとき、彼女独特の微かな地方靴りを含んだこの声が、わたしを虜にしたのだった。この二十数年間、この声に幾度慰められ、元気をもらい、勇気百倍になったことだろう。
「あなたなんでしょ。どこにいるの。ずっと心配しているのよ。早く帰ってきて」
 わたしは何も答えず、必死になって繰り返されるその声とことばに耳を澄ませた。こんなとき、必ずくしゃくしゃになる彼女の顔の表情を想い浮かべ、その奥にある優しさを耳で掬った。
 責めることばなど一切発しようとせず、ただただ帰ってきてと叫び続ける彼女が愛おしかった。
 その心を感じると、思わず胸の奥から涙がほとばしり出た。
「すまん、美貴。死ねへんのや。どうしても死なれへんのや」
 ついに声を発して、私は言った。
「そんなことはいいから。早く帰ってきて――」
「そやけど、苦しさは変わらへん。ぼくが戻っても、生活は変わらへんのやで」
「いいから。いまはとにかく、帰ってきなさい」
 命令口調であった。優柔不断なわたしに言うことを聞かせようとするとき、決まって彼女が口にしてきた言い方であった。
 わたしは、泣きながら妻の待つ家に戻った……。
 彼女は、開口一番、いま食事をつくるから、その間、風呂に入りなさいと言った。一夜を外で明かしたわたしが臭うというのだった。
 洗面所で見ると、確かに髪の毛も汗で蒸れたようになり、薄い髪の下で地肌が透けて見えるほどになっていた。脱いだ上着やズボンを嗅いでみた。確かに臭った。あの雪の日、彼女と初めて嗅いだ公園のホームレスの臭いだった……。
「ほらね。気分もさっぱりしたでしょ」
 風呂から上がると、彼女はその細くなった顔に、ありったけの笑みを湛え、食卓についたわたしに言った。
「戻ってきたときは、ほんと、ホームレスみたいだったわよ。髭は伸びてるし、顔は油でてかてか。髪の毛ときたら、汗でこてこてで、頭頂部の禿げは目立つは、服は泥で汚れて異臭を放っているはで、見られたものじゃなかったわ……」
「すまん。美貴には、ほんまに……」
「なにも言わなくていいわ。一睡もしてないでしょうから、そのご飯を食べたら、今日のところはゆっくりお寝すみなさい」
 夢のようだった。ひょっとして自分は首を吊るのに失敗して、病院かどこかに担ぎ込まれ、一種の願望ともいうべき、こんな夢を見ているのではないかと疑った。
「すまん」
「明日から、またお掃除と塾の仕事よ。塾とバイト先には、わたしが昨日の夕方、急用ができて行けないって、丁重にお詫びの連絡を入れておいたから。どっちも出勤したら、必ず『昨日は勝手してすみませんでした』と謝っておくのよ。どんな用事かなんて、プライベートなことまで言う必要はないからね」
「すまん。なにから、なにまで……」
 ことばこそは偉そうに亭主面した『すまん』であったが、内心は申し訳なさでいっぱいだった。
 生来が、ひとに頭を下げることのできない男だった。
 感謝の表し方がわからなかった。
 すまなさだけが、頭の中をぐるぐると駆け巡った。
 それにしても、これほど気の回せる女が、他にいるだろうか――。
 わがごとながら、彼女のあまりの早や手回しにテレビドラマの一シーンかなにかを観ているような気がした。
 本当に、これは夢を視ているのではないのか……。
 眠が醒めたら、人工呼吸器を取り付けられた臓器供給用の植物人間になっているのではないか。それとも意識はしっかりとあるが、声も出なければ、身体も動かせないままベッドに横たわっているのではないかと恐れた。
 若いころに観た、外国映画のエンディングシーンが蘇った。
 しかし、現実は、それより悪かった。
 それから三日もしないうちに、妻のほうが倒れた。彼女を支えていた、最後の糸がふっつりと切れたのだ。台所で料理を作っている最中、折れ曲がるように胸を押さえて床に伏したのだった。
 気丈で病いを寄せ付けないほど頑健だった彼女が床に倒れ込むなど、わたしには想像の埒外だった。わたしはおろおろと妻の名を呼び、救急車を呼んだ。
 ただし、マンションの近くではサイレンを消してきてくれというのだけは忘れずに。
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