第1話
文字数 1,913文字
意のままにならぬ小国ワラキアの王、ドラキュラ公ことヴラド・ツェペシュを討伐すべし。オスマン・トルコのスルタン、メフメト2世は自ら指揮を執り、重装兵に加え、優秀な機動力を持つ騎兵隊を率いて遠征に立つ。兵の数6万。対するヴラドの軍はわずか1万。その中には戦に慣れた者たちばかりではなく、祖国の危機を救うべく立ち上がった一般市民も含まれていた。
ワラキアの民はよく戦った。しかし、軍事訓練を受けたトルコ兵の猛攻は凄まじく、情勢は極めて悲観的だった。ヴラドは圧倒的勢力を誇るトルコ軍を前に不退転の決意をした。
女子供をブラショフの山岳地帯へ避難させた。そしてトルコ軍の進路にある井戸には毒を投げ、村という村を焼き払った。大軍で進軍を続けるトルコ軍は、占領地での調達を頼りにしていた。それを悉くくじいたのだ。
真夏の太陽が照りつける焦土をトルコ軍は進んだ。飢餓と疲労により、トルコ兵達は次々に倒れていった。日中でも暗い森の中を通ると、ワラキアの軽騎兵が幾度となくゲリラ戦を仕掛けてきた。仲間を殺され、激高したトルコ兵が彼らの消えた森の中へ分け入ると、戻っては来なかった。
あるとき、負傷したワラキア兵が捕らえられた。トルコ軍の高官が彼にヴラドはどこにいるのかと尋ねた。ヴラドを恐れて男は何も語ることは無かった。
「この男は死を覚悟できている」
高官は男を称え、首を刎ねた。メフメトはワラキア軍の抵抗に苛立っていた。
月も見えない夜。ブナ林の中で野営していたトルコ軍をワラキアの軽騎兵が急襲した。その日は昼間に何度もワラキアの奇襲があった。何人も斬り殺した。夜まで襲ってくる気力は無いだろうとたかを括っていたのが間違いだった。酒を飲み、踊り、燃える薪の前で笑い声を上げていたトルコ兵達は戦慄した。
「串刺し公だ!」
「悪魔がやってきた!」
兵を率いていたのはヴラドだった。自ら先陣を切り、トルコ軍の野営地を駆け抜けた。油断しきってただ狼狽えるトルコ兵の首を馬上から刎ねる。血しぶきが上がり、ヴラドの漆黒の鎧を赤く染めた。ヴラドの咆哮がこだました。それに呼応するようにワラキアの兵たちも雄叫びを上げる。鋭い一本の槍のように隊列は乱れることなく、スルタンの天幕目指して突き進む。
体勢を立て直したトルコの重装兵の反撃が始まった。馬を攻撃され、地上に落ちたワラキア兵を非情な刃が襲う。大地は血の海と化した。絶叫があちこちで聞こえた。それでもヴラドを先頭にした精鋭は止まることなく駆ける。
スルタン・メフメトは騒ぎに目を覚ました。将兵が慌てて天幕に駆け込んできた。
「ヴラドの夜襲です!お逃げください」
スルタンは全身から血の気が引くのを感じた。怒号がすぐ近くまで迫っていた。怒りか、恐れか、全身が震えた。
横に眠っていた美しい巻き毛の少年を起こし、自らの身支度を手伝わせる。彼の手を取り、天幕を出た。その瞬間、闇の中、燃える炎の中を血に濡れた鎧に身を包み、豊かな黒髪をなびかせた悪魔が真っ直ぐにこちらを目指して駆けてくるのを見た。その目は怒りに見開かれ、白い歯をむき出して獣のような雄叫びを上げている。手にした剣は血で真っ赤に染まっていた。
「あれが悪魔か」
呆然とするメフメトを将兵が抱えるように連れ去る。突進するヴラドの前にトルコの重装兵が立ちはだかった。ヴラドを剣を打ち付けたが、その分厚い鎧に跳ね返された。重装兵による厚い壁は破ることはできなかった。
ワラキアの大地に朝日が射す。昨日の夜の出来事はまるで悪夢のようだった。ヴラド自らが率いた夜襲で多くの兵が命を落とした。それはワラキアの軍も同じだった。
「まだだ、まだ兵力は我が軍が勝っている」
トルコ軍はワラキアの首都、トゥルゴヴィシュテに迫っている。首都を落とされたとなれば、あの憎たらしいヴラド・ツェペシュは逃げ出すしかないだろう。メフメトは力無く笑った。
夜襲に疲弊した兵達に進軍を命じた。トゥルゴヴィシュテ近郊にやってきた彼らが見たものはこの世のものとは思えない、地獄のような光景だった。
最初は森が現れたのかと思った。しかし、違う。それは串刺しの森だった。夜襲で捕らえたトルコ兵を串刺しにし、丘の上に並べ立てたのだ。数百、いや数千か。無残な骸が真夏の日差しに晒され、とてつもない悪臭を放っていた。カラスが死骸に群がり、肉を突いている。
その酸鼻極まる光景を見た兵達は胃の中のものを吐いた。身体を貫かれてもまだ生きているもののうめき声が呪詛のように聞こえてくる。
「このような男を戦って、一体何ができよう」
メフメトは力無く呟いた。しかして、トルコ軍はワラキアの首都を目前に全軍撤退した。
ワラキアの民はよく戦った。しかし、軍事訓練を受けたトルコ兵の猛攻は凄まじく、情勢は極めて悲観的だった。ヴラドは圧倒的勢力を誇るトルコ軍を前に不退転の決意をした。
女子供をブラショフの山岳地帯へ避難させた。そしてトルコ軍の進路にある井戸には毒を投げ、村という村を焼き払った。大軍で進軍を続けるトルコ軍は、占領地での調達を頼りにしていた。それを悉くくじいたのだ。
真夏の太陽が照りつける焦土をトルコ軍は進んだ。飢餓と疲労により、トルコ兵達は次々に倒れていった。日中でも暗い森の中を通ると、ワラキアの軽騎兵が幾度となくゲリラ戦を仕掛けてきた。仲間を殺され、激高したトルコ兵が彼らの消えた森の中へ分け入ると、戻っては来なかった。
あるとき、負傷したワラキア兵が捕らえられた。トルコ軍の高官が彼にヴラドはどこにいるのかと尋ねた。ヴラドを恐れて男は何も語ることは無かった。
「この男は死を覚悟できている」
高官は男を称え、首を刎ねた。メフメトはワラキア軍の抵抗に苛立っていた。
月も見えない夜。ブナ林の中で野営していたトルコ軍をワラキアの軽騎兵が急襲した。その日は昼間に何度もワラキアの奇襲があった。何人も斬り殺した。夜まで襲ってくる気力は無いだろうとたかを括っていたのが間違いだった。酒を飲み、踊り、燃える薪の前で笑い声を上げていたトルコ兵達は戦慄した。
「串刺し公だ!」
「悪魔がやってきた!」
兵を率いていたのはヴラドだった。自ら先陣を切り、トルコ軍の野営地を駆け抜けた。油断しきってただ狼狽えるトルコ兵の首を馬上から刎ねる。血しぶきが上がり、ヴラドの漆黒の鎧を赤く染めた。ヴラドの咆哮がこだました。それに呼応するようにワラキアの兵たちも雄叫びを上げる。鋭い一本の槍のように隊列は乱れることなく、スルタンの天幕目指して突き進む。
体勢を立て直したトルコの重装兵の反撃が始まった。馬を攻撃され、地上に落ちたワラキア兵を非情な刃が襲う。大地は血の海と化した。絶叫があちこちで聞こえた。それでもヴラドを先頭にした精鋭は止まることなく駆ける。
スルタン・メフメトは騒ぎに目を覚ました。将兵が慌てて天幕に駆け込んできた。
「ヴラドの夜襲です!お逃げください」
スルタンは全身から血の気が引くのを感じた。怒号がすぐ近くまで迫っていた。怒りか、恐れか、全身が震えた。
横に眠っていた美しい巻き毛の少年を起こし、自らの身支度を手伝わせる。彼の手を取り、天幕を出た。その瞬間、闇の中、燃える炎の中を血に濡れた鎧に身を包み、豊かな黒髪をなびかせた悪魔が真っ直ぐにこちらを目指して駆けてくるのを見た。その目は怒りに見開かれ、白い歯をむき出して獣のような雄叫びを上げている。手にした剣は血で真っ赤に染まっていた。
「あれが悪魔か」
呆然とするメフメトを将兵が抱えるように連れ去る。突進するヴラドの前にトルコの重装兵が立ちはだかった。ヴラドを剣を打ち付けたが、その分厚い鎧に跳ね返された。重装兵による厚い壁は破ることはできなかった。
ワラキアの大地に朝日が射す。昨日の夜の出来事はまるで悪夢のようだった。ヴラド自らが率いた夜襲で多くの兵が命を落とした。それはワラキアの軍も同じだった。
「まだだ、まだ兵力は我が軍が勝っている」
トルコ軍はワラキアの首都、トゥルゴヴィシュテに迫っている。首都を落とされたとなれば、あの憎たらしいヴラド・ツェペシュは逃げ出すしかないだろう。メフメトは力無く笑った。
夜襲に疲弊した兵達に進軍を命じた。トゥルゴヴィシュテ近郊にやってきた彼らが見たものはこの世のものとは思えない、地獄のような光景だった。
最初は森が現れたのかと思った。しかし、違う。それは串刺しの森だった。夜襲で捕らえたトルコ兵を串刺しにし、丘の上に並べ立てたのだ。数百、いや数千か。無残な骸が真夏の日差しに晒され、とてつもない悪臭を放っていた。カラスが死骸に群がり、肉を突いている。
その酸鼻極まる光景を見た兵達は胃の中のものを吐いた。身体を貫かれてもまだ生きているもののうめき声が呪詛のように聞こえてくる。
「このような男を戦って、一体何ができよう」
メフメトは力無く呟いた。しかして、トルコ軍はワラキアの首都を目前に全軍撤退した。