永遠のカンバス
文字数 1,997文字
あなたは、白いカンバスに繰り返し、繰り返し空白を描いていましたね。
幼なじみであるあなたの、和室の自室には、新築の家のような独特の、地塗り材の匂いが立ち込めていました。
開け放たれた明障子、窓の外からは温い風が吹いて、あなたの着ていた半袖の国民服はじっとりと汗を吸い、背中に濃い茶褐色のシミを幾つか作っていました。
あなたは椅子に座ったまま、床の上の缶の中に刷毛を入れ、くるくると攪拌してはカンバスに刷毛を滑らせました。それは、永遠にも思える反復作業でした。
ー何を描いているの?全然、完成しないのね。
あなたは私の方に振り向かず、刷毛を動かしながら答えました。
ー地塗り材だよ。白いベースを塗っているんだ。
ー地塗り材?
ーこの缶の中にある。カンバスは元々白いんだけど、布目を無くしたい時に使うんだ。油絵を描くとき発色も良くなるし、色に深みが出る。筆ののびも良いし作品も割れにくくなるんだ。
ー知らなかった。
あなたは近くにあるまっさらなカンバスと、既に二回目の下地を塗っているカンバスを私に見せてくれました。
ーどう?
ー同じカンバスなのに、二回塗った方は光沢も、布目もなくて深い白色だわ。
あなたはそれからも、静かに丁寧に刷毛で下地を幾層にも塗り重ねていました。夕方に近づき、風は涼しくなりました。
ーねえ、こっちを向いて。
私はあなたの背中に縋りたくて、指を伸ばしたけれど引っ込めました。ぼろぼろのモンペをぎゅっと握って。声をかけることもできませんでした。
私はあなたに、うつくしい姿を見せたかったです。私の娘時代のきれいなうちに。
その二週間後には、貴重な祭がありました。
戦局は悪化の一途、しかし「銃後の士気を高揚し決戦生活の明朗化を図るため」、祭が数年ぶりに開催されました。
私はあなたと祭に行きたくて、浴衣姿を見せたいと思いました。空襲警報が発令されたら、勿論祭は中止です。私はあなたの家に走っていき、部屋の襖を勢いよく開けて、息を切らして話しました。
ーお祖母様の浴衣を借りられそうなの。祭は華美ではない浴衣で参加できるそうよ。一緒に行ってくださらない?
いつもの休日のように、カンバスの前の椅子に座っていたあなたは、最後の下地を塗っていました。そして、ちら、と私を見ました。
ー祭へ行く時間を絵を描くことに充てたいんだ。あと、…きみに頼みがあるんだけど、…
あなたは少し言い淀むと、
ーその、浴衣を着たらその姿を、僕に描かせてくれないか?きみが祭に行った後でもかまわない。僕は下地を完成させるから…
そのときの私は、嬉しいような悲しいような気持ちが溢れて、どうしようもないのでした。まだ若かったのです。
手を震わせて言いました。
ー数年ぶりのお祭よ、貴重なお祭よ。あなたとどうしても行きたいの。なぜカンバスばかりにかじりついているの?
私は目の前にいるじゃない。目の前の私を見て!
あなたは黙って背中を向けたまま、刷毛でまた下地を塗り始めました。
ーどうして、どうしてわかってくださらないの?私はこんなにあなたをー
私は悲しい気持ちを残したまま、彼の部屋を去りました。
ー私は、こんなにあなたを愛しているのに。
あれは昭和19年の夏のことでした。私もあなたも20歳を過ぎていました。
まもなくあなたの元には一銭五厘の、召集令状がやってきました。
そして、あなたは徴兵されていきました。あなたは
あなたは南方で帰らぬ人となりました。
あなたは私に絵を遺したかったのだと私は愚かにも思いました。
遺品も遺骨もなく、私はあなたへの想いを胸に秘めました。
終戦後のある日、あなたのお母さんが、私を訪ねてきてくれました。
終戦してから10年、既に結婚をし、里帰り中で赤ん坊をあやしていた時です。玄関で、抱えていた風呂敷を目の前で解き言いました。
ー忙しいときにごめんなさいね。でも、どうしても見てもらいたいものがあるの。
お母さんは、あなたが描いていたカンバスを私に見せてくれました。
ーあの子が亡くなってから、つらくて部屋はそのままにしていたの。それで、やっと最近整理をするようになったのだけど…
あなたが幾重にも塗り固めたカンバス。深い白いカンバスの上に、薄い、鉛筆の跡が見えました。
ーごめんね。今頃ごめんなさい。でも、あなたにこれを持っていてほしくて…あの子の絵の、最後の足跡 よ。
白いカンバスの上の鉛筆の跡。
それは、浴衣姿で笑う私の下絵でした。
どうして、私はあの時あなたに絵を描いてもらわなかったのでしょう。素直になれなかったのでしょう。
あなたには私のきれいな、娘姿が見えていたというのに。
私は、家族に内緒でそのカンバスを大事に仕舞ってきました。夏になると、あなたを偲んでこの絵を見てきました。
今は、病床で眺めています。
長生きな私ももうすぐ、あなたの元に行けます。
そうしたら浴衣でお祭に、きっと行きましょうね。きっとよ。
幼なじみであるあなたの、和室の自室には、新築の家のような独特の、地塗り材の匂いが立ち込めていました。
開け放たれた明障子、窓の外からは温い風が吹いて、あなたの着ていた半袖の国民服はじっとりと汗を吸い、背中に濃い茶褐色のシミを幾つか作っていました。
あなたは椅子に座ったまま、床の上の缶の中に刷毛を入れ、くるくると攪拌してはカンバスに刷毛を滑らせました。それは、永遠にも思える反復作業でした。
ー何を描いているの?全然、完成しないのね。
あなたは私の方に振り向かず、刷毛を動かしながら答えました。
ー地塗り材だよ。白いベースを塗っているんだ。
ー地塗り材?
ーこの缶の中にある。カンバスは元々白いんだけど、布目を無くしたい時に使うんだ。油絵を描くとき発色も良くなるし、色に深みが出る。筆ののびも良いし作品も割れにくくなるんだ。
ー知らなかった。
あなたは近くにあるまっさらなカンバスと、既に二回目の下地を塗っているカンバスを私に見せてくれました。
ーどう?
ー同じカンバスなのに、二回塗った方は光沢も、布目もなくて深い白色だわ。
あなたはそれからも、静かに丁寧に刷毛で下地を幾層にも塗り重ねていました。夕方に近づき、風は涼しくなりました。
ーねえ、こっちを向いて。
私はあなたの背中に縋りたくて、指を伸ばしたけれど引っ込めました。ぼろぼろのモンペをぎゅっと握って。声をかけることもできませんでした。
私はあなたに、うつくしい姿を見せたかったです。私の娘時代のきれいなうちに。
その二週間後には、貴重な祭がありました。
戦局は悪化の一途、しかし「銃後の士気を高揚し決戦生活の明朗化を図るため」、祭が数年ぶりに開催されました。
私はあなたと祭に行きたくて、浴衣姿を見せたいと思いました。空襲警報が発令されたら、勿論祭は中止です。私はあなたの家に走っていき、部屋の襖を勢いよく開けて、息を切らして話しました。
ーお祖母様の浴衣を借りられそうなの。祭は華美ではない浴衣で参加できるそうよ。一緒に行ってくださらない?
いつもの休日のように、カンバスの前の椅子に座っていたあなたは、最後の下地を塗っていました。そして、ちら、と私を見ました。
ー祭へ行く時間を絵を描くことに充てたいんだ。あと、…きみに頼みがあるんだけど、…
あなたは少し言い淀むと、
ーその、浴衣を着たらその姿を、僕に描かせてくれないか?きみが祭に行った後でもかまわない。僕は下地を完成させるから…
そのときの私は、嬉しいような悲しいような気持ちが溢れて、どうしようもないのでした。まだ若かったのです。
手を震わせて言いました。
ー数年ぶりのお祭よ、貴重なお祭よ。あなたとどうしても行きたいの。なぜカンバスばかりにかじりついているの?
私は目の前にいるじゃない。目の前の私を見て!
あなたは黙って背中を向けたまま、刷毛でまた下地を塗り始めました。
ーどうして、どうしてわかってくださらないの?私はこんなにあなたをー
私は悲しい気持ちを残したまま、彼の部屋を去りました。
ー私は、こんなにあなたを愛しているのに。
あれは昭和19年の夏のことでした。私もあなたも20歳を過ぎていました。
まもなくあなたの元には一銭五厘の、召集令状がやってきました。
そして、あなたは徴兵されていきました。あなたは
それ
が来ることを予感していたのでしょうか?あなたは南方で帰らぬ人となりました。
あなたは私に絵を遺したかったのだと私は愚かにも思いました。
遺品も遺骨もなく、私はあなたへの想いを胸に秘めました。
終戦後のある日、あなたのお母さんが、私を訪ねてきてくれました。
終戦してから10年、既に結婚をし、里帰り中で赤ん坊をあやしていた時です。玄関で、抱えていた風呂敷を目の前で解き言いました。
ー忙しいときにごめんなさいね。でも、どうしても見てもらいたいものがあるの。
お母さんは、あなたが描いていたカンバスを私に見せてくれました。
ーあの子が亡くなってから、つらくて部屋はそのままにしていたの。それで、やっと最近整理をするようになったのだけど…
あなたが幾重にも塗り固めたカンバス。深い白いカンバスの上に、薄い、鉛筆の跡が見えました。
ーごめんね。今頃ごめんなさい。でも、あなたにこれを持っていてほしくて…あの子の絵の、最後の
白いカンバスの上の鉛筆の跡。
それは、浴衣姿で笑う私の下絵でした。
どうして、私はあの時あなたに絵を描いてもらわなかったのでしょう。素直になれなかったのでしょう。
あなたには私のきれいな、娘姿が見えていたというのに。
私は、家族に内緒でそのカンバスを大事に仕舞ってきました。夏になると、あなたを偲んでこの絵を見てきました。
今は、病床で眺めています。
長生きな私ももうすぐ、あなたの元に行けます。
そうしたら浴衣でお祭に、きっと行きましょうね。きっとよ。
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