献金で苦しんでいる方々へ 

文字数 1,553文字

 皆様、今日は。あるいはおはようございます。もしくは今晩は。

 今日は献金についてのお話をしようと思います。今、献金で生活が苦しい方々が見て下されれば尚幸いです。

 十分の一献金の話をします。

 これは確かに旧約聖書に根拠があります。又、新約聖書にも主イエス・キリストが十分の一をおろそかにしてはならないと言った箇所が存在します。

 これだけ見ると「やっぱり払うものなのだ」と思いますが、主イエス・キリストは同時にこの様なことを言っています。

 「神の神殿に献金(正確には供え物)するのと父母を養うのはどちらが神の御心に適うか?」の問題であります。

 この答えは父母を養うことに導かれます。これは十戒を典拠にしています。

 と同時に主イエス・キリストは民衆の心によりそって語っている場面でもあります。

 つまり、ここから導き出される答えは安息日に行うことは善なのか悪なのかの問題にも繋がります。

 さて、皆様に問いたいことがあります。

 もし、教会生活において献金で苦しんでいる方々がいらっしゃるとしたら、その苦しみは神が望むものであるか?

 確かに献金は教会の土台を支える重要なものであります。

 しかし、主イエス・キリストは常に貧しい人々と共にありました。主イエス・キリストはこの方々に憐みをおぼえられておりました。

 憐みと言う言葉は原語に翻訳すると「はらわたが千切れそうなおもい」です。

 このことから主イエス・キリストは当時の貧しい人々に心を痛めていたことが判ります。

 もう一度問います。貧しい方々が無理してまで献金することは主イエス・キリストが望まれることでしょうか?

 私自身の話をしたいと思います。私も以前は十分の一献金を払っていた者です。何か悪いことをすれば悪いこととして返ってくると言う想いもありました。

 しかし、聖書を読み進める内に神は試練をお与えもするが、誘惑をされる方ではないと言うことが判りました。
 つまり、私達は生まれながらに罪人ではありますが、神のご計算はそれを遥かに上回るのです。

 もし、疑問を感じたのでしたらコロサイの信徒への手紙を読んで見て下さい。そこには大胆にも恩寵のことが書きしるされてあります。

 恩寵とはいかなる対価もなしに赦されていることを意味します。どれ程、私達が理屈をこねても聖書のみは覆しようがありません。全てのキリスト教会は聖書を土台に立っているからであります。

 よって私達は生まれながらに罪人でありながら神の恩寵により赦されてもいるのです。

 よって、献金をしないからと言って神が罰を下すのはありえない話であります。

 むしろ、教理に乗っ取れば「悪は悪魔の妬みより来た」と説明するのがしっくり来ます。つまり、我々が苦しむのは悪魔の嫉妬によるものだと解釈した方が良いと思われます。

 又、ヨハネの手紙にも「神は愛である」と記されております。

 これは原語から翻訳すると「神はアガペーである」となります。アガペーは多くの方々がお聴きになったことがあると思います。

 一言で言えば、無償の愛です。無償と言うことは神が基本的に私達に見返りを求めていないことであります。

 では、十分の一献金とは何たるか? これは神に真の心で感謝を捧げる時に用いられます。

 しかし、先述した様に神は貧しい人々に憐みをおぼえられたのです。

 よって苦しんでまで献金なされることが神の御心に適うかどうか今一度考えて頂きたいのです。

 偉い人が言っているから献金するのだとかではなく、全てのキリスト者の師匠は神御自身です。そのことは聖書にも書いてあります。

 良心と啓示に基づき、聖霊によって聖書を解釈するのがキリスト者の本分であります。

 そのことを踏まえて今一度ご再考願いたいです。

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