第1話 2022年 春

文字数 3,974文字

 2022年に戦争が起ころうなどと誰が想像しただろうか?

 などというのは大変的外れな質問である。戦争はいつの時代にも起こり続けているが、ただ人々は、「危ない国である」シリアやマリやアフガニスタンで市民が爆撃されるよりも、先進国の都会に住む白人が死に追いやられる方が身近に感じるようなのだ。しかしそれよりも何よりも、関心が高まる原因は報道の仕方にある。
 メディアがこんなにも毎日大々的に、マリでの戦争を取り上げたことがあっただろうか?街中にシリア難民への募金を呼びかけるラジオが流れたことはあっただろうか?

と、そんなことを思いながら百合子はため息をついた。
 
 例の感染症の拡大が始まってから、息をつく暇もなくひたすら仕事に追われている。それならせめて気持ちの明るくなるテレビが見たいとわざわざ海外でも見られる日本のチャンネルを契約したのにニュースをつければ戦争、戦争、戦争。それから、芸能人の不倫。
 束の間の休憩を終えて、百合子は診察室へと戻る。
「お次の方、どうぞ」

 紺野百合子がパリの16区の私立病院で内分泌科医として働き出したのはもう7年も前のことになる。ついでにいうなら百合子は二十歳の時に編入したソルボンヌ大学を卒業し、医師免許を取得してこちらで研修医としても働いていたので、パリはもう14年目のベテランだ。
 ベテランというのは語弊のある言い方かもしれない。「海外に住む」ということにおいて、何がベテランで何がベテランでないかの定義をするのは大変難しいからだ。
 パリで働いて10年目でも、日系企業の駐在員でフランス語がひとことも話せなければベテランとは言えないかもしれないし、逆にパリに住んで2年目でも、フランス人と結婚してフランス人の子供がいて、毎日フランス人のママ友や学校と交流があればベテランかもしれない。
何が言いたいのかというと、要するに百合子はパリの仕事と生活にすっかり馴染んでいた。

 海外で生活するために日本を出る人にはどのような動機があるのだろうか。大抵の人は、大きく分ければ3種類いると、想像するだろう。日本が嫌で海外へ飛び出した人、日本が嫌なわけではないがその国が大好きで移住した人、仕事や家族のために移住した人。
 百合子はそのうちのどれでもない4種類目の、「たまたまチャンスがあったので海外で働き出し、その暮らしに慣れたので日本よりも外国の方がかえって暮らしやすくなってしまった人」だ。海外に住む人の意外と多くがこの4種類目に当てはまる。住めば都とはよく言ったものだ。


 百合子が一日のすべての診察を終え、常連患者への薬の指示のメールを書き終えたとき、ドアのノックの音が響いた。
「どうぞ」と百合子が言い終える前にガチャリと乱暴な音を立ててドアが開く。
「おい、紺野、このあとレストランに行かないか」
「伊東先生。本日の手術はもう全て終えられたのですか?」
「ああ。だから誘っているんだ」
 フンと鼻を鳴らして胸を張った伊東・ルメール・彰吾という男は、誰がどこからどう見ても自信に溢れた人生の成功者のように見えた。
 フランス人の父ーパリでは国際離婚に強いと評判の弁護士らしいーと、日本人の母を持つ彰吾は、百合子の目にも美しい見た目をしていると思えた。百合子がたとえ彼を苦手に思っていたとしても。

百合子はため息をついた。
「まだ感染症が完全に終息していないのですから、私達医療従事者はレストランなどは自粛すべきだと思います」
「専門が違うから俺たちには関係ないだろ。コロナ患者の相手なんて下っ端の仕事だ。看護師にでも任せておけばいい」
彰吾は舌打ちをしてそういうと色素の薄い前髪をサラリと掻き上げた。

伊東。嫌な男。心臓外科医だからって、自分が世界で一番賢くて偉いと思ってる。
百合子は心の中で毒づいた。

「お生憎ですが、今夜は予定があるのです。」
百合子はもう一度きっぱりと断ると、パソコンの電源を落とした。
「なんだ、俺とレストランは感染症対策のために行けないのに他の予定の外出ならいいのか?」
痛いところをつかれる。フランスでは既に1年ほど前からレストランでのマスクやソーシャルディスタンスは解除されており、医療関係者であろうと外出は許されている。すなわち、先程の感染症云々というのはもちろん体よく断るための方便だった。

「着席で、口を開かない予定ですので。リスクは格段に低いかと。それではまた明日、さようなら。」
そう言って百合子はそそくさとベージュのトレンチコートを羽織ると、逃げるように診察室を後にした。振り返らない。それが引き止められないための一番のコツだ。百合子はそれを、嫌々ながらに参加する懇親会や、朝方になっても終わらない大晦日のパーティーや、次会うときにもまだ元気かどうか分からない老いた両親を田舎に残してまた空港へと旅立つときなどに学んだ。

 メトロ(パリの市営地下鉄)を乗り継いで百合子はシャンゼリゼ劇場へとたどり着いた。
19時48分。よし、開演12分前。今夜の演目はショパンとリスト。半年も前から楽しみにしていたピアノ公演だ。劇場はいつもどおり賑わっている。

 ニースの生まれだという若いフランス人の新鋭ピアニストが拍手喝さいを浴びながらステージに出てくる。拍手が終わり、音楽が鳴り出す前の数秒の静寂。この緊張感が百合子は好きだった。一度聴いたら忘れられないあの前奏が、寂しく、静かに、そして力強くホールに響き出す。ラ・カンパネラ。百合子は音に全神経を集中すべくそっと目を閉じた。

 コンサートが終わり、劇場から出た百合子は思わず身震いした。もう4月なのにまだ夜は冷える。いい演奏だった。でも、ピアニストの名前は何だったか…。あまり印象に残っていない。自分を薄情なように思う。リストやショパンが好きだと言うくせにそれを弾いているピアニストの名前が覚えられないだなんて。でも、もう30も半ばだし、ちょっと物覚えも悪くなってきた。そんな風に頭の中で演奏の反芻や言い訳などをしているうちに自宅の最寄り駅に着いていた。

 百合子は時々人間にも「自動運転モード」みたいなものがあるのではないかと思っている。他ごと考えていても気づいたらメトロに乗っていて、気づいたら自宅についている。ぼーっとしているように見えても鞄の口のところはしっかり腕で押さえている。パリのメトロにはスリが多いのだ。

 ひと月がふた月に一度のコンサートは、百合子の生きがいと言ってもよかった。翌日からまた診察のルーティンが始まる。フランスには専門医というものが少なく、百合子はいつも忙しかった。


 コンサートの余韻もとっくに薄れた頃の朝、百合子が診察前の日課のメールチェックをしていると一通のメールが目に飛び込んできた。
「国際内分泌学会第40回国際コングレスのお知らせ…。10月22日から23日までジュネーヴで開催。だって。ついに忌々しいリモート学会が終わったんだ!」
 百合子の顔に自然と微笑みが浮かんだ。コロナ渦が始まってからというものリモート学会、リモート会議、リモート診察、全てが遠隔で行われるようになった。

 30分で終わるリモート診察はまだしも、一日中画面の前で講演を聞き続けなければならないリモート学会は、パソコンを使いすぎると頭が痛くなるたちの百合子にとって、苦痛以外の何者でもなかった。百合子はまた、学会の醍醐味は同業者と顔を合わせて交流することや、講演者と講演後に話をすることにあると思っていた。
「誰が来るのかな。久しぶりに教授や同窓生にも会えるかも。」

 ちらりと時計に目をやると、百合子はメールボックスを閉じてその代わりにカルテの管理をするソフトを開き、白衣の襟を正した。楽しみができたにしろ、まだ半年近くも先だ。それまではルーティンを繰り返さなければない。

 診察、診察、診察、その合間に、秘書がやる気がないせいで結局自分でやらざるを得なくなる書類仕事。診察しきれないからとメールのみで対処している患者とのやりとりも、診察がみっちりと詰まっているせいで早朝と夜にやるはめになる。

 それでも当直がある医師よりはましかな、とため息をつきながら山積みになった他院からの紹介状を整理する。忙しいのは百合子が患者を取りすぎるからだというのも分かっている。新規患者を断る医者や、メール対応などはしない医者もたくさんいるのは知っている。

 お人好しかもしれないが、一生の付き合いの病気を抱えて定期的に薬の量を調節せねばならない患者や、一周期も無駄にしたくないホルモン治療中の不妊治療患者に、診察の予約は半年後まで埋まっているからそれまでは諦めろ、などということは出来なかった。たとえそれがフランスのほとんどの専門医の返答であったとしても。


 それから秋までの間、百合子はコンサートに2度、オペラに1度に行った。19区にあるフィルハーモニー・ド・パリでワーグナー。それから、年上の友人の息子がヴィオラを弾いているからと誘われてコンセルバトワールの学生オーケストラの演奏を聞きに。
 どちらもなかなか良い演奏だったが、やはり百合子がピアニストの名前を覚えることはなかった。そうして百合子は思った。自動運転モード。私は自分の人生の全部を自動運転で生きてる気がする。

 夏に行ったオペラは彰吾に誘われたものだった。毎回言い訳を見つけては彼の誘いは断っていたが、発売すぐに売り切れになってしまったオペラのチケットを差し出されて、観劇したい気持ちに負けたのだった。
 パリのオペラ座の、シャガールの絵が一面に描かれた丸い天井を見ると、ここは世界で一番美しい場所だと百合子は思う。天井に目をやることもなくさっさと席についた伊東を見ると、百合子はやはりこの男とは付き合えないなと再確認してため息をついた。

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