第2話 2022年秋 - 1

文字数 1,038文字

 待ちに待った学会の前日、百合子はピンク色の小さなキャリーケースをコロコロと言わせながらオルリー空港のターミナル内を闊歩していた。

ちょっと早く着きすぎちゃったかも。

 心配性なきらいのある百合子は、欧州線で1時間前、なんならオンラインチェックインも済んでいて預け荷物もないのだから40分に着けば十分だとわかっていたのに、2時間半も前に空港に着いてしまっていた。
 検疫の前にカフェにでも行ってよう。外にあるカフェの方が安くて美味しいし。そう決めた百合子はターミナルの端の方にあるカフェに向かって歩きだした。あそこなら搭乗口の入り口から少し離れているから空いている。コロナ以前と今も同じであるならば。

 出発する人、到着した人、迎えに来た人と見送りにきた人が忙しなく行き交う廊下を歩いていく。ふと、そんな雑踏の真ん中で、うずくまっている人が目に入った。
あんなところでどうしたんだろう。体調が悪いのかも。

 百合子は小走りでその人にかけより、声をかけた。
「Sir, are you okay? (お兄さん、大丈夫ですか?)」
男性は驚いたように顔をあげ、それからぼさぼさの髪の間から隈の濃い目をおどおどと左右させると言った。
「え・・・えっと・・・あ、アイ キャント スピーク イングリッシュ。」
そこで百合子は気づいた。
「あなた、日本人ですか。」

 そう声をかけた瞬間に、男性は勢いよく百合子の手をとると先程までの力ない様子が嘘のように声を張り上げた。
「えっ!日本人の方?そうです!!そうです!ぼく…困っているんです、助けてください!!!」
百合子はその勢いに思わずのけぞり、目を2,3度瞬くと言った。

「えっと…助けてくださいって?もしかしたら気分が優れないのかと思ったのですがそうではなさそうですね。どうされたのですか?」
「ぼく…ピアニストで、今夜ジュネーヴで大事なリサイタルがあるんですけど。乗る予定の便を逃してしまって…それで、航空券を取り直そうとしたら、財布と携帯をすられていたことに気づいて。パスポートは無事だったんですけどもうどうしていいか分からなくて……フランス語も英語も分からないし。だからぼく絶望しちゃって…」

 百合子は偶然空港で声をかけた人が日本人だったことにもピアニストだったことにも驚いたが、それ以上にもっと驚いたことがあった。

「呆れた!だからって、大の大人が道の真ん中で座り込んで泣いていたの?信じられない!それに、外国でリサイタルをするっていうのに英語もできないの?」
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