前編

文字数 3,443文字

 その庭はバス停の近くにある大きな家のものだった。
 普段は人の気配もなく、雑草こそはびこっていないものの、整えられたものではなかった。
 通学の行き帰り、バスを待つ間に何気なく視線を向ける。春には桜が、夏にはラベンダーが、秋にはコスモスが揺れ、冬には山茶花が季節を告げてくれた。

 高校生初の文化祭準備に浮かれて、いつもより遅くなったある日、コスモスの揺れる庭に男性が立っていた。
 スーツの上着を脱いで、袖をまくった、そんな出で立ちだった。
 誰か新しい人が入るのかな、と、横目に通り過ぎ、家でご飯支度をしている母の後ろ姿にイカフライをつまみながら、何気なく報告する。

「バス停の前の豪邸、誰か入るのかな?」
「え? 何? あそこは誰だかお金持ちの別荘だって話よ?」
「そうだっけ。さっき、人がいたから。初めて見た」
「ふぅん。珍しいわね。ほとんど使われていなかったのに……って! こら! 手も洗わないで!」

 えへへ、と笑いながら逃げるように部屋に向かう。
 うちだって、家で母が趣味で料理教室を開けるくらいには裕福だし、周囲の家もそこそこ大きい。その界隈で「お金持ち」と言われるのだから、あの家はとんでもない資産家の持ち物なんだろう。表札が出ていないのは、そういうのを知られるのが嫌なのかもしれない。
 どうりで人がいないのに小綺麗にされてるはずだ。
 近所の噂話はそれで終わった。
 文化祭準備のために朝は早く、帰りは暗くなってから。時々帰りにその家に明かりが灯っていると、少しだけ安心できた。



 だから、変化に気付いたのは冬の気配を感じ始める頃だった。
 自由に伸びていた枝や茎が切りそろえられ、庭全体がさっぱりとした雰囲気になっていた。
 奥に池があるのか、水がちらりと見え、ふちに水仙が咲いている。
 そうか、庭師を雇ったんだ!
 住み込みか、通いかはわからないけれど、きっと近いうちに太鼓腹のおじさんでもやってくるのだろう。いや、もしかしたらご令嬢のお見合いでもあるのかもしれない。綺麗な振袖を着て、こちらから見えない小さな池にかかる橋の上で、コイなど見ながら話すのだ。
 自分の勝手な妄想をふふと笑いながら膨らませていく。

 冬が過ぎ、春が来ると、庭でつなぎを着て作業する人影を見ることが増えた。
 ある時期は小さな東屋を造るのに重機が入ったり、せわしなく人が出入りしてたけど、それが終わるとまた静かな庭が返ってきた。
 いいよね。東屋。ご令嬢はあの場所で庭を眺めながらティータイムを過ごすのだ。何かのきっかけでお友達になって、誘われたりしないかなぁ。
 見たこともないたおやかな令嬢の姿を想像して、私の顔は勝手ににやけたものだ。

 雨が多くなり、うつむいて傘をさすことが増え、少しの間庭から気が逸れていた。
 久しぶりの晴れ間、夜更かしが祟って寝坊して、慌てて母に送ってもらった。帰りのバスの中、雨が窓を叩き始めて、そこで初めて傘を忘れたことに気付く。
 走って帰ろうか、母に連絡して傘を持ってきてもらおうか……悩むくらいの降り方だった。
 いざバス停に着いてみると少し小降りになっていて、これならと足を速める。豪邸に差し掛かると、低い塀の向こうから鮮やかな色が目に飛び込んできた。
 青から赤へ、そこからまた青へ。いつの間にか紫陽花が綺麗に咲いている。

 去年までは青一色の紫陽花だったのに。
 思わず足を止めて見入ってしまう。間の、青も紫もピンクも混じったひと房が雨粒に濡れてなんとも(なま)めかしい。
 どうして急に色を変えたんだろう?

「……あの、お嬢さん?」
「……っひゃっ……!」

 少し低めの落ち着いた声がして、肩が跳ね上がった。

「ああ、ごめんなさい。脅かすつもりはなかったのですが……風邪をひきますよ?」

 気付くと、雨足はまた強くなっていた。
 振り返った先にはスーツ姿の男の人がいて、空を見上げている。その頃の私には結構なおじさんに見えたのだけど、思えばまだ三十代だったろう。

「お家は近所ですか? 雨宿りしていきますか……って、こういうの通報案件か。えっと、傘でも貸しましょう。ちょうど、雨をしのげる場所があるので、よかったら、ですが……」

 男の人の指先に東屋を見て、私はうっかり頷いた。
 軽率だったんだろう。でも、好奇心の方が勝っていた。
 小走りで庭に踏み込み、私は東屋へ、彼は玄関へと向かう。
 憧れの東屋からの景色。家の裏側へと回り込むような小さな池には橋はかかってなかったけれど、緑の楓が枝を下ろしていたり、ハスの葉が浮かんでいたり、雨粒でできる波紋は絵画のようだった。
 いつも外から眺めていた庭は、内側から眺めるとまた違った印象になる。家の近所だとはとても思えない。刈り込まれた木立が上手く家々をぼかしてくれるからだろうか。
 私がいっとき異空間を堪能していると、男の人が微妙な顔をしながら戻ってきた。手には傘ではなく小さなタオル。

「ごめんなさい。この家には傘は置いてなかった。せめて、これで拭いて……困ったな。うちに上げてあげてもいいけど、嫌だろう?」

 自分もまだ濡れているのに、私へとタオルを差し出す。

「あ……大丈夫です。すぐ近所ですから。母に連絡して……」
「そうだ! これで少しは……!」

 彼はいいことを思いついたという風に満面の笑顔で上着を脱ぎだし、私の頭にそれを被せた。
 ほんのりと煙草の臭いがする。いつもは煙草を吸うおじさんに眉をしかめるのだけど、その時はどうしてか大人の香りだと思えたのが不思議だ。おじさんなのに、汗臭い臭いがしなかったからかもしれない。

 母に連絡して傘を届けてもらえばいいだけの話。だけど、すでに頭に乗ってしまった上着と、にこにこと無邪気な笑顔になんだか断りにくくなってしまう。
 もう少し庭を見ていたい気もしたけど、晴れた日に上着を口実にまた訪れるのも悪くない。
 私は計算高く口をつぐんで、ありがとうございますと笑った。



 家に帰ると、玄関でスーツの上着の雨粒をはらっている私を見て母はぎょっとした。

「ちょっと、どうしたのそれ?」
「うん。豪邸の人が貸してくれたの。本当は傘を貸してくれるって言ったんだけど、なんか、なかったんだって」
「ええ? すぐそばなんだから、走って帰ってくればよかったのに」
「うん……なんか、なりゆきで」

 もう、と手を差し出す母に上着を預けて、着替えに向かう。

「先にシャワー入っちゃいなさい」
「はぁい」

 部屋に入ると、虫でもついていたのか、階下から母の小さな悲鳴が聞こえてきた。
 シャワーを済ませたところで、どういうわけか母が待ち構えていて私の後をついてくる。

「あんた、あのスーツどこのか見た?」
「え? 知らない」
「アルマーニよ! アルマーニ!」
「えっと……聞いたことある。高そう?」
「高いのよ! ウン十万よ! クリーニングだけじゃなく、菓子折りも付けて返さなくちゃ……」
「でも、あの人庭師さんじゃないのかな? あんまり家のことに詳しくなさそうだったよ?」
「庭師がなんでアルマーニ着てるのよ」

 着ちゃダメと言う法律もないと思うけど。

「知らないわよ。一張羅なんじゃない? 庭で作業着着て作業してるの見たことあるよ」

 母はものすごく難しい顔をして悩んでいたけれど、よし、と気合を入れたようだった。
 クリーニングが出来上がってきて、母の渾身のブランデーケーキをお供に一緒に豪邸を訪ねる。何度も行くのも嫌なので、明かりがついているのを見計らって突撃した。
 ほんの玄関先だったけど、床は大理石で、靴箱の上には結構な大きさのアメジストの原石が乗っている。壁にはモノトーンの絵画がかかっていて、成金とは違う高級感が漂っていた。
 ……勝手な思い込みかもしれないけど。

 大人同士の会話を盗み聞いて「正確には私の家ではないのですが」というセリフに、やっぱり庭師じゃん、と心の中で勝利宣言する。鍵を預かって、中の掃除なんかもするのかもしれない。
 家に帰るまで黙っていた母が、玄関に入った途端、怒涛のように庭と家について話し始めたので、私は半分呆れながら付き合ったのだった。

 彼とはその後、紫陽花の垣根越しにちょくちょく会話することとなる。挨拶から始まって、天気の話、花の話。たわいもないこと。
 ちょくちょくなのは、私が彼のいる時間帯を目指して行くからだ。ほとんどが夕方。たまに休日に朝から。散歩や買い物を装い、彼に挨拶する。
 恋心というよりは下心。また、庭に入らせてもらえるのではないかと。
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