第1話 水道場

文字数 7,385文字

 うだるような暑い夏の夕方。体育館の中にいるとわかりづらいが、外ではセミがうるさいんだろうなと想像できるミーンミンという鳴き声が聞こえてくる。セミの鳴き声に耳を傾けたのも束の間で、キュキュッというシューズが床を滑る音で意識を目の前に向けた。そのときにはもうバスケットボールは敵のゴールに吸い込まれた後のようで、味方たちが「うぇーい!」と言いながら喜んでいた。
 (やべぇゴールの瞬間見てなくて素直に喜べない)と思ったその瞬間、
 「休憩―!!」
 という顧問の声と笛の音が聞こえてきて、ほっと胸を撫でおろした。バスケのゲームに参加せず壁際で何かやっていた生徒も、皆そこらへんに適当にボールを置いて休憩に入っていく。ぞろぞろと歩く部員に倣って自身も歩いていると、突然後ろから誰かに名前を呼ばれる。
 「錦―!」
 それと同時に誰かがぶつかりながら肩を組んできた。思わず前のめりにつんのめって、「うぉ?!」という声を上げてしまう。誰だと思い肩を組んできた人物を見ると、バスケ部の一員であり同学年の友達の笹山であった。
 「誰かと思った」
 「お前さっきゴールの瞬間見てなかっただろ?」
 「・・・あー、バレてました?」
 「お前そのうち顧問に怒られるぞ」
 笹山はいたずらっぽい笑顔をしてゆっくりと錦の肩を掴んでいた手を離した。そういえば、と錦はひらめいて、笹山の方を見ながら尋ねた。
 「お前高校どこ行くっけ?」
 笹山は体操服の裾で額の汗をふきながら、「うーん」と言っている。錦の質問が聞こえなかったわけではなさそうだからもう一度聞く必要はないだろうと思い少し待つ。見るつもりはなかったが笹山のズボンからパンツが少し見えてしまった。ピンクだった。
 「お前ピンクはねーわ」
 「やべぇ。忘れてた。だから今日体操服で汗拭かないって決めてたのにガチで忘れてたやばい」
 「・・・。ごめん自分から話逸らしといてアレだけど進学先教えてくれね?」
 改めてそう促すと、笹山はズボンを上げながら答えてくれた。
「〇〇だよ」
「え?私立行くの?お前」
「うーん、バスケ強いからあそこ。あと大学にエスカレーターで行けるのも結構有利かなーと」
 あぁ、と錦は納得した。笹山は試合のスタメンにいつも選ばれる我が中学バスケ部最強メンバーの一員である。一方、錦は練習試合などにはたまに出させてもらえるが、基本的にベンチを温めている。
 「そういう錦はどこ行くんだ?」
 「俺は第一志望は△△だけど・・・もうちょい頑張らないと厳しいかもって担任に言われた」
 「なにそれやべぇじゃん。引退したらめっちゃ勉強しないと」
 錦の目指す高校は、今所属している中学の大半の生徒が進学する高校である。錦は勉強が特段できる方ではないので、偏差値もまぁまぁな志望校に入るためにももう少し頑張る必要があった。ちなみにその高校のバスケ部は特に強豪というわけではない。ふと錦は思い出して、笹山に声をかける。
 「そういやお前水道行かなくていいの?」
 「あ、うわっ、やべぇ忘れてた!」
 水道というのは、バスケ部御用達の手洗い場のことである。バスケ部が使っている体育館の外、すぐ傍に設置されているものだ。部員は各自家から部活のために巨大な水筒を持ってきているが、基本的に日中にすべて飲み切ってしまう者がほとんどであった。しかし部活中に校外へ出て自販機などで飲み物を買うことはできないし、最近設置されたウォータークーラーも故障中で使えない。そのため部員は体育館外の手洗い場の水道水を飲むのである。
 良いことなのか悪いことなのかわからないがバスケ部は飲料水の質などにまるで無頓着で、全員がこぞって休憩時間にその「水道」に集まる。4つほどしかない蛇口に数十人と集まるものだから、列ができてしまう。そうなると数分待たなければいけなくなるため、休憩開始と共に蛇口の争奪戦が始まるのである。
 「俺は今から並んでくるけど、錦はいつものあそこまで行くのか?」
 「あー、うん。行ってくる」
 「そんじゃまた休憩後になー」
 そう言って笹山は小走りで外へ向かって行った。錦の水筒も、日中に飲み切ってしまい空である。しかし、皆がこぞって集中する水道へは行かない。錦はいつも、バスケ部が使用している第一体育館から少し離れた第二体育館の水道へ水を汲みに行く。錦も最初は第一体育館の水道を使っていたが、そのうちに人ごみにイライラするようになった。また、水を汲むために並ぶ数分間も嫌になったし、だからといって一番乗りをするために休憩の合図と共にダッシュするのも疲れるなぁという結論に至った。
 第二体育館の外の水道は、ちょうどどの部活の休憩時間とも被っておらず無人なのである。しかも、第一体育館の方の水道は夕陽に照らされて夏はとても暑い。ただでさえ体を動かして暑いのに、その後また日光に照らされて、しかもじっと並ばなければいけないことは錦には地獄であった。第二体育館の水道は、体育館に日光が遮られて完全な日陰になっていて、涼しいのだ。
 並んで数分待つよりも歩く数分の方が好きだと気づいてからは、毎回休憩時間は第二体育館へ行くようになった。これを発見した当初はバスケ部の友人に広めようと数人に「第二体育館の水道行こうぜ」と話を持ち掛けたが、全員に「そこまで歩くなら普通に並んで待つわ。ちょっとめんどい」と断られてしまった。
 確かに、休憩時間全体のことを考えると第一体育館の水道を使う方が自由な時間は多い。並ぶといっても数分で自分の番は回ってくるし、その後体育館の中で座って10分は休める。しかし第二体育館まで行くと、休憩時間のほとんどが徒歩の時間にとられてしまい、水道で水を汲んで1~2分休んだらまたすぐに歩き出して第一体育館へ向かわなければならない。腰を下ろして落ち着ける時間などほぼないのである。
 けれども錦は第二体育館へ向かう。無人の水道と日陰というコンディション、そしてバスケ部の中で自分だけがここを知っているという少しの優越感が好きだった。鋭い陽射しを感じながら歩いて第一体育館の喧騒からだいぶ離れ、第二体育館の水道が見えてきた。第二体育館の中ではなんの部活が活動しているんだろうなぁと疑問に思ったことはあるが、決して覗くことはしなかった。なぜなら第二体育館の中からは女子の掛け声しか聞こえてこないからである。夏だから体育館の入り口以外の体育館側面にある扉もすべて開けられているから様子を伺おうと思えばできるのだが、覗くなんてことをしようものならば変態として後世まで語り継がれてしまうとしか考えられなかった。
 (あれ?)
 錦が異変に気付いたのは、第二体育館の水道が視界に入ってすぐのことであった。手洗い場に遮られていてよく見えないが、手洗い場のすぐ横に影が見えた。
 (誰かいる)
 自分でも気づかないうちに歩くスピードが落ちていく。この水道には何十回と来ているが、バスケ部が休憩の時間帯に人がいたことは皆無である。水道から距離を取って、影の正体が見えるように回り込んでいく。水道が近づくにつれて、ジャバジャバという激しい水の音が耳に入ってきた。
 影の正体は、手洗い場の横の膝などを洗ったりバケツの水を捨てたりするために一段下がった、手洗い場よりも一回り大きい蛇口が設置されているところに見えた。そこには、大きい蛇口のすぐ真下に頭を垂れて地面にペタンと座り込み、ジャバジャバと頭に水をかぶせ続ける女子生徒の姿があった。
 部活が終わった後や試合に負けた後に男子部員が同じことをしている光景はよく見るが、女子生徒でそれをしている姿は見たことがない。しかも第二体育館によって日光が遮られた薄暗めの空間でその光景を見て、異様だということはすぐに感じ取った。女子生徒の姿をよく見ると、体操着を着ている。そして膝にサポーターをつけているから、何かしらの運動部の部員なのだろうということはわかった。蛇口の激しい水に打たれ続けている頭はショートヘアーで、俯いていて表情を窺い知ることはできない。
 (やべぇ場面に遭遇しちまった。どうしたんだろ)
 思わずごくりと喉を鳴らした。錦は女子生徒を刺激しないように、ゆっくり、ゆっくりと水道へ近づく。そして女子部員から一番離れた手洗い場の蛇口に手をかけた。また恐る恐る視線を斜め下に向けて女子部員の様子を一瞥してみると、こちらに気づいているのかよくわからないが、同じ姿勢で頭を水に打たれ続けている。
 なるべく音を立てないように、蛇口を捻る。すぐその真下に水筒を持ってきて、水を入れていく。水筒に視線を集中しているつもりではあったがどうしても気になって女子部員の姿も視界に入れてしまう。ふとした瞬間、女子部員がピクリと少し体を動かした。錦はそれに少し驚いて、体をびくつかせてしまった。
ようやくそのとき女子部員は錦の存在に気づいたようで、回しまくったであろう水道の蛇口を急ぐ様子で何回も捻って閉め、小さく震える声で「ごめんなさい」と呟いてからその場を立ち去った。突然声をかけられて無視もできず、反射的に「あっ、いや、別に・・・」と声を出した。立ち去るその後ろ姿を無意識のうちに目線で追うと、水道からすぐのところにある体育館の側面の扉の階段に腰を下ろしたのが目に見えた。
立ち去るとは言っても、錦が水を汲んでいる水道と女子部員が腰を下ろした階段は距離が近い。数メートル先には女子部員がまたうなだれるようにして座っている。しばらく沈黙が流れる。第二体育館の中からは女子の掛け声などが聞こえてくるから、部活の真っ最中なのであろう。
 (なんか邪魔したなコレ・・・。めっちゃごめん)
そう思いながらふと水筒に視線を戻すと、水筒から水が溢れそうになっていて慌てて蛇口を閉めた。きっと第二体育館の中で活動している部員なのだろうが、体育館の中に戻らない様子を見ると、何か部活内であって戻りづらいんだろうなぁということは予想がついた。まったく頭を上げる様子がないから、思わずじっと女子部員の方を見つめてしまった。
 (さっき立ち上がったとき結構身長高かったんだよな。女バスか女バレかな)
 そう思案しながら水筒の蓋を閉めて、その場でグイと水を飲む。ふとそのとき、うなだれている女子部員の右手の指が真っ青に腫れていることに気づいた。
「えっ!?」
普段目にすることのない重めのケガの具合に驚き、思わず声を上げてしまった。沈黙の中で突然大きい声を出したせいで、女子部員もまたビクリと体を震わせて驚いているようだった。やばいと思ってすぐに口をつぐむ。その指の腫れ具合は、病院に行ってきましたとも治療中ですとも言えない「今さっきケガしました」と言わんばかりのものである。声を上げてしまったり、女子部員が保健室に行く様子も見受けられなくてなんとなく居心地が悪く、声をかけてみることにした。
「・・・あの、保健室行った方がいいんじゃないの」
女子部員は水が滴る髪を腫れた指の方でかき上げようとして躊躇して、左手で髪をゆっくりとかき上げた。今まで地面に垂れていた雫が体操着に少ししみ込んでいる。そのとき初めて女子部員の顔を見ることができた。水に濡れていてよくわからないが、少し目が赤いように見える。
(もしかして泣いてたの・・・。俺めっちゃ空気読めないじゃんマジでごめん)
気まずくて錦はふいと顔を横に逸らした。いたたまれなくて、もう第一体育館へ戻ろうと足を動かしたそのとき、女子部員が言葉を発した。
「あの、うん・・・。ありがとう」
か細い、今にも消え入りそうな声だった。思わず立ち止まった。そろそろ練習に戻らないと、とか、このまま第一体育館に戻った方が楽だ、とかいろんな考えが錦の頭の中を巡ったが、やはり放っておけなかった。ゆっくりと振り返って、また女子部員の方を見る。女子部員は変わらず俯いていて、階段から動こうとはしていないようである。
「・・・保健室の場所わかんないとか?」
「大丈夫・・・わかる」
「立ち上がるの怖い?」
「・・・」
「絶対そのケガやばいやつだよ」
 「・・・うん」
最初は薄暗いこの場所で頭から水を浴び続けている彼女に恐怖心を抱いていたし、あまり関わらない方がいいと本能が告げていた。しかし今となっては恐怖心などは消え去り、まったく動こうとしない彼女に少し苛立ちを覚えつつある。会話を終えて数秒待ったが、保健室に向かうなり、体育館に戻るなりはせず、やはり俯いたままである。錦は痺れを切らして、ハァーと小さめのため息をついた。そしてズンズンと女子部員の方へ近づいていく。女子部員は近づいてくる錦に気づいて顔を上げ、驚いた表情をしたのも束の間、痛めていない方の手を錦が掴んだ。
「保健室行こう!」
「えっ、あの、えっ」
グイと立ち上がらせ、手を引っ張った。女子部員は最初は驚きと状況に頭がついていってないことも相まって体を強張らせていたが、そのうちすんなりと錦に手を引かれるようになった。第二体育館から保健室は結構な距離がある。頭の中で
(あー休憩絶対終わってるわコレ。顧問にどやされるかなー)
などの考えが浮かんでは消えた。しかし手をケガした女子部員をそのまま放っておけなかった。ケガをした者が女子であれ男子であれ、きっと錦は同じように行動をしたであろう。なるべく今の時間帯部活で人が溢れている校庭などは避ける様にして、すぐに校舎に入った。
「靴、持つよ。保健室の滞在長いかもしれねぇし、昇降口置いとくと多分どっかいっちまうと思うし」
錦がそう言い女子部員が履いてた靴を持つと、女子部員は声が出しづらいのか、ペコリと頭を下げた。錦自身の靴は昇降口に適当に脱ぎっぱなしにしてある。どうせ彼女を保健室に送り届けたらすぐに履きに戻ってくるから問題ないと考えたのだ。
授業も終わり、沈黙に包まれる校舎内を歩く。外とは打って変わって誰の声も喧騒も耳に入らない。錦が先導して歩き、その少し後ろを女子部員は歩いている。握っている手が、とても熱い。この熱さは自身のものなのか、女子部員のものなのかはよくわからなかった。女子の手を握る機会など生まれてこのかた経験したことのない錦は、冷静に歩いているように見えて内心まったく落ち着けていなかった。手汗やばいかも、とか、熱いの俺の手の方なんじゃない?とか、もしかして迷惑なことしてる?とか、そういう考えが浮かんでは消えていく。しっかりと彼女の手を握っているはずなのに、緊張しすぎてまるで手の感覚がなくなったようだった。
ペタペタという靴下を履いた足音が不規則に耳に入る。しばらくすると、手を引いている彼女の方からヒックヒックと泣き声が聞こえてきた。
(いやー・・・、もう早く保健室に送り届けよう。もう俺はよくわからん)
自分が泣かせているわけでもないが少し罪悪感に包まれながら、彼女を気遣って少し歩くスピードを緩めた。すると、後ろから女子部員は泣きながら喋りにくそうにして錦に話しかけてきた。
「あの、本当に、ごめん、ね」
「・・・いや、別に。心配だったし・・・」
(指すごいことになってるのに動こうとしないからイラついたのもちょっとあるけどね)など正直なことは言えるはずもなく、保健室に向かって進んで行く。曲がり角を曲がると保健室と書かれた看板が遠くに見えたので、もうすぐだと思った。すると、またぽつりぽつりと彼女は話し始めた。
「大会が近いのに、スランプで、しかも、指までケガして、こんな・・・」
その語り口から、この女子部員はエースかスタメンか、そういった重要な役割を担っているということはすぐにわかった。その背負わされている責任、期待はとてつもなく重いものなのであろう。彼女自身がそれを自覚しているからこその涙なのだろうと、錦は少し俯きつつ考えた。しかし、彼女の語り口に錦は疑問を抱かざるを得なかった。保健室の前に着いたのと同時に、錦は振り返って彼女に声をかけた。
「だったら尚更、まず指を治さないとダメじゃね?スランプも大会も、指治してからじゃないと万全で挑めねぇと思う」
彼女はハッとしたように顔を上げた。その女子部員と錦はほぼ同じ身長だったから、彼女が顔を上げたらすぐに目が合った。濡れて顔を覆うショートヘアーの隙間から、赤く潤んだ瞳が見える。普段見ることのないその濡れた瞳を見て、錦は胸がズクンと重くなった感覚に襲われる。その瞳に吸い込まれるようにしばらく見つめ続けていた。しばらくしていろんな想いが錦の胸の中で渦巻いて、やがて眼を逸らした。
「多分君はエース?とかなんだろうけど、これからもその競技続けるつもりならさ、長い目で見たら絶対スランプどうこうよりその指治すことが大事なんじゃないかな」
錦は彼女の手を掴んでいない靴を持っている方の手で器用に保健室のドアを開ける。すると保健室の先生がすぐに気づいてくれて、こちらの方に歩いてきた。それから彼女にしか聞こえないように小さな声で
「まぁ俺は万年ベンチ温めてるんでよくわかんないけどさ」
と言った。それから保健室に入って半ば押し付けるように「先生よろしく!」と彼女と靴を預けた。保健室の扉を閉める間際に彼女が何かを言わんばかりにこちらを見つめていたが、見えていないフリをして保健室から立ち去った。なんとなく気持ちが急かして、昇降口まで全力で走る。さきほどまで彼女の手を握っていた手はまだ熱い。何かを振り払うように手首をぶらぶらと宙で振る。そして辿り着いた昇降口で靴を履きながら
(そういえばあの女子部員、同学年だったのかな、後輩だったのかな。まぁ俺最高学年だし敬語いらないよな。おっけ)
と謎の自己完結をして、第一体育館へ戻った。顧問に「3年にもなって休憩時間中に戻って来ないなんて後輩に示しがつかんだろ!」などとどやされると思っていたが案外ゆるゆるで、特に何も言われることはなかった。しかし顧問ではなく笹山には絡まれた。
「おい遅ぇぞ!うんこでもしとったんか!」
「うるせぇぞピンクパンツ野郎」
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