第4話 高校

文字数 13,011文字

 錦渉にとって、記念すべき高校入学式の日がやってきた。春とは言えどまだ肌寒く、学ランに袖を通して家を出た。雲一つない青空で太陽が燦燦と輝いているが、吹いてくる風は刺すように冷たく、玄関を出てぶるりと身を震わせた。通学路は中学のときと途中までは同じで、今までと代わり映えのない景色のみが視界に入る。
(学ランも通学路も中学のときとあんまり変わんねーし、実感湧かないな)
高校が近づくにつれて同じ学ランを着た男子生徒やブレザーに身を包む女子生徒が通学路に多く見られるようになってきた。同じ中学出身同士なのか、すでに仲の良いグループを作って楽しそうに登校している生徒の姿も見受けられる。それを見て錦は居心地の悪さを感じたが、よく見渡すと大半の生徒が錦と同様に一人で歩いていたので、ほっとした。
 『入学おめでとう!』と飾り付けられている高校の正門をくぐり、目の前に広い校庭と大きい校舎が目に入る。受験日や合格発表のときはこの広い校庭も大きい校舎もまるでRPGのラスボスが住んでいる魔の巣窟のように恐ろしく、そしてそびえ立っているように見えたが、改めて見てみると何の変哲もない建物にしか見えなくて思わず首をかしげた。
校庭の方を見ると、多くの生徒が何か白い板のようなところに一点に集まって騒いでいたから、あそこにクラス表があるのだなとすぐにわかった。ふと、何人か同じ中学から同じ高校へ進学する友人を知っていたので、立ち止まって辺りをぐるりと見まわしてみたが誰一人として見当たらない。錦は小さくため息をついてから、ゆっくりとした足取りでクラス表を見に歩き出した。
 集団に近づくと先ほどよりも黄色い声が大きく聞こえる。
(まだ入学式前だよな?なんでこんなに仲いいの?コミュ強か?)
騒ぐ生徒を後目に、クラス名簿が貼ってある掲示板へと近づいた。そこには錦が在学していた中学の倍くらいのクラス数があって、思わず尻込みしてしまう。かなり小さい文字で書かれた名前を一つ一つ追うのはとても骨が折れそうな作業であった。掲示板の上の方に書いてあるものは見ることは容易いが、下の方に書かれているものは人に埋もれてまったく見えない状態であった。最前列まで行って名前を探したかったがそういうわけにもいかず、人ごみの間に見える隙間から文字を追った。
4クラス分の名簿を見終わり、5組目の名簿を見る。かなり時間をかけてじっくりと4クラス分の名簿を確認したが、どこにも自分の名前がない。そのことに少し不安を感じつつあって、ドキドキと心臓がうるさかった。じらされているようでとてももどかしい。
(俺の名前ほんとにある?俺が入学する高校ここだよな)
錦が掲示板前に滞在しているうちに、段々と教室へと移動していく生徒が増えて、気づくと錦は最前列に出ていた。5組にもなかったら・・・と思ったそのときだった。
「あ」
思わず口を開けたまま止まった。やっと、自分の名前を見つけられたのだ。間違いではないかとクラス名と自分の名前を何度も往復して見る。5組の名簿には、きちんとそこに『錦渉』の文字があった。クラスと出席番号を間違えないようにサッと携帯で写真を撮り、掲示板の前に群がる人ごみから抜け出した。携帯の画面を見てもう一度クラスを確認する。
後は教室に向かうだけ、というこのタイミングで、また少しの不安が錦の中に生まれた。知り合いが誰もいない空間に一人で向かうことはとても心細い。誰か中学の知り合いで同じクラスの人がいたら・・・と、正門をくぐったときと同じようにキョロキョロと見渡してみる。しかし、やはり知っている顔が一人もいない。登校時間がずれているのだろうと自己完結し、不安と緊張に苛まれながら携帯をギュッと握りしめて、錦は5組へと向かった。
5組の自分の出席番号が書かれた下駄箱に靴をしまい、上履きを履く。ふと中学の入学式の頃を思い出した。小学校の卒業生全員が同じ中学に行くことになっていたので、中学の入学式はそれほど緊張しなかった。しかし、今はどうであろうか。先ほどの掲示板に知っている名前が何名か書かれていたが、知り合いはたったそれだけであるし、全員が他クラスだった。陽の光が遮られた校舎内に入ると、中学でバカ騒ぎしていた友達たちが急に恋しくなった。今からでも戻れるなら中学の頃に戻りたい・・・と胸の内に思いながら階段を上っていく。
 (今この完全アウェーな状況から、卒業のときには『高校生活楽しかった~』とか言ってんのかな・・・。そんな予感全然しねぇんだけど・・・)
 階段をのぼりきって、錦は2階へと足を踏み入れた。顔を上げると、『1-4』と書かれた掲示が目に入る。錦のクラスは1-4の奥にあるようで、手前にある4組のクラス内の様子を見つつゆっくりと廊下を歩いて5組の方へと進んで行く。4組内はいたって静かで、何人かは教室の後ろの方で仲良さそうに喋っていたが、一人で座っている生徒もたくさん見受けられた。そのことに少し安心しつつ、4組を通り過ぎる。
(あぁ~もうすぐ5組に着いちまう~)
心臓がバクバクとかなりうるさい。もうすぐで5組、というところで気づかぬうちに歩くスピードが落ちていく。これから開ける5組の扉の先にある光景、クラスメイトと1年間付き合っていくのだ。自宅の布団が突然恋しくなって、前を向くことができずに俯いた。しかし、現実逃避をしていたって仕方がないと気合を入れて勢いよく顔を上げると、5組にちょうど入室しようとしている生徒だろうか、次に入室しようとしている錦のために扉を開けたまま待ってくれているクラスメイトらしき男子生徒が目に入った。ちょうど錦の少し前を歩いていたようで、入室するタイミングがほぼ一緒だったようだ。申し訳なさで小走りになり、5組の入り口の扉を持つ。
 「あ、ありがとう」
 ぎこちなくそう言うと、男子生徒は小さく会釈をして中へと入っていった。
 (ええ奴がおるやんけ・・・!!)
 と、謎のテンションで心の中でガッツポーズをしてその男子生徒の優しさに感動しつつ、クラス内へと足を踏み入れた。どうやら教卓側の前の扉から入ったらしく、クラス内にいた生徒の視線がバッと一気に錦とその男子生徒に集まる。少し気圧されて思わずたじろいだが、すぐに生徒たちの視線は散っていった。そのことにほっとしつつ、早く腰を落ち着けたくて、机の上に置かれた出席番号の書かれた紙を見て自分の番号を探す。
 (えーと、この列のもう一つ横か?って・・・嘘だろ)
 入室してすぐにあった机から順番に番号を追っていって、錦は自分の出席番号が置かれた机を見つけることができた。しかし、その机はなんと最前列に置かれていたのだ。しかも教卓からの距離もそう遠くない。今まで窓際で平和に授業を受けていた環境から一転、目の前には黒板、横と後ろには多数の生徒に囲まれる席になってしまった。最前列というのは何かと決め事をするときに立たされてじゃんけんをしたり、列の代表として動くことが多くてかなり面倒である。錦はそれに加えて、全生徒から視線が集まりやすい位置ということも嫌に感じていた。
 (最後列からのんびりクラスの様子を眺めていたかった・・・)
 その思いも虚しく、何回も番号を確認したが、やはり錦の席は最前列にある。諦めて鞄を机の上に置き、ゆっくりと椅子を引く。席に着く前になんとなくクラスを見渡しておきたくて、顔を上げてクラスを見渡した。そのとき、目が合った。
 (え、なんで)
 最後列、錦の列のすぐ横だろうか。何度も頭の中でふと思い出しては切なくなり、忘れようとした。もう会うこともないから、覚えていても意味はないと思った。ただ風化するのを待つだけの思い出だった。
 自分は今どんな表情をしているのだろうか。椅子を引いていた手が止まる。ただ一点から目が離せない。『彼女』も、同じように錦から視線が外せないでいた。音も何も聞こえない、『彼女』以外何も目に入らない。ただ時間が止まったようで、一瞬がとても長く感じられた。
 最後列のそこには、『彼女』がいた。あの、忘れたくても忘れられなかったバレー部の女子部員が、口を開けて驚いた顔をしてこちらを見つめていた。なんとなく雰囲気が変わったと感じるのは、セーラーからブレザーになったからだろうか。髪も以前会ったときよりも少し長く伸びていて、ベリーショートだった髪型は肩につくくらいの長さになっている。あぁ、何度目の偶然の出会いだろうか。
 今まであっけにとられた顔をしていた彼女は、やがてふにゃりと表情を緩ませて、頬を桃色に染めながら安心したような笑顔で小さく手を振ってきた。
 (俺のこと、覚えてくれてるのか)
 思わず『自分の後ろに誰か彼女の知り合いがいたりするんじゃ?』と不安になって、一度後ろを振り向いてみるがそこには誰もいない。やはり彼女は錦に手を振っている。
 最後に会話を交わしたのは、約1年前の部活引退直前の夏の日。冬にも錦が英語の教科書を他クラスに借りに行ったときにお互いに姿を見ているが、あれは一瞬のことだった。夏に水道場で数分会っただけの錦のことなど、例え顔を覚えてくれていたとしてもほぼ赤の他人のような存在になっていると思っていた。しかし、彼女は今錦を見つけて笑顔で手を振ってくれている。そのことが嬉しくてたまらなくて、しかし大きく手を振り返すのはとても恥ずかしかったので、ぎこちなく笑顔を作って会釈をして返した。すると彼女はまた一段と明るい笑顔を見せて、会釈をし返してきた。
 その瞬間に羞恥が自分の中に溢れかえってきて、もうこれ以上彼女にどう返したらいいかわからなくなって視線を逸らして自分の席に大人しく座った。笑顔がきちんと作れていたかな、とそわそわとしてしまう。頬のゆるみが止まらなくて、はやる気持ちを抑えて落ち着いたフリをして鞄をゆっくりと床におろす。しばらく何も考えられなくて、ただひたすら目の前にある黒板を見つめ続けた。そのうちにチャイムが鳴り、担任と思しき人がクラスに入ってきた。教卓まで来ると、ゆっくりと教室を見渡し、そして喋り始めた。
 「えー、まずみなさん。入学おめでとうございます。そして・・・」
 つらつらと、担任の名前だったり勉学に励むようにとかそういった話がされていく。語り口はとても真面目そうだが時折見せる笑顔などを見ると、悪い先生じゃなさそうだなとほっとする。ちらりと目を動かせる範囲で左右を見てみると、皆とても真剣に担任の話を聞いている。錦は飽き始めていたが、皆と同じように担任をじっと見つめて話を聞き続けた。
 「それで、入学式なんだけど。終わったらそのまま帰ってもらうから鞄も持って行くように。体育館はブルーシート敷いてあるから土足で上がっていいよ」
 錦は話を聞きながら黒板の横にかけてある時計を見る。入学式がだいたい1時間くらいで終わるとして・・・と逆算していって、午前中には帰れると確信して密かにテンションを上げた。
 「えーと・・・うちのクラスの移動開始まで時間がすごくあるんだよね。とりあえず全員自己紹介しとこうか」
 高校初日に自己紹介ということで、教室内が少しざわついた。錦も少し驚いて、担任を見上げた後に後ろを少し振り向いて教室の様子を見てみると、恥ずかしそうにはにかんでいる生徒もいれば、特にリアクションのない真顔の生徒もいたり、心底嫌そうにしている生徒もいる。入学して数日経ったらそのうち1人ずつ自己紹介もするんだろうな、と予感はしていたが、まさか初日に行うとはまったく思っていなかった。錦もそわそわしつつ、頭の中でどんな風に自己紹介しようかとシミュレーションをする。
 「それじゃあ1番の人から、どうぞ」
 担任にそう促されて、廊下側の前の扉に一番近い生徒が照れくさそうにゆっくりと腰を上げた。全員がそちらを向いて発言を聞いている。当たり障りのない挨拶をし終え、クラス全員で拍手をする。そして滞りなくどんどんと自己紹介は進み、遂に錦の横の列まで順番がやってきた。もうすぐで自分の番だ・・・ということに胸を高鳴らせつつ、ハッとあることに気づいた。
 (あの女バレ部員の出席番号、俺の一つ前?)
 彼女は、錦の一つ右側の列の最後尾に座っている。そして折り返して錦が最前列にいて・・・という形になっている。すなわち、錦の出席番号の一つ前が彼女なのである。
 (ってことは苗字はナ行?いやどうせ自己紹介するんだし考えるだけ無駄か)
 一人で悶々と考えを巡らせているうちに、彼女の番がやってきた。担任に促され、ゆっくりと席を立つ。教室の前の方に座る生徒たちは自然と横座りになって首を教室の後ろへ向ける形になる。錦も同じような姿勢をとって、彼女が言葉を発するのを待った。
 やはり彼女は背が大きい。水道場で横並びになったあのときも、保健室の前で目が合ったときも、顔の距離が近かったのを覚えている。ブレザーは彼女を少し大人っぽく見せる。以前よりも長く伸びた髪もそれを助長しているようだった。彼女は俯いていた顔を上げ、頬にあたる髪を耳かけてから明るい笑顔を見せた。
 「西浦千佳です」
 錦は反復するように、心の中で彼女の名前を唱えた。自身が「ニシキ」であるから、「ニシウラ」が出席番号の一つ前になるのも納得である。
 「えっと、〇〇中学出身です。バレー部に入る予定です」
 その言葉を聞いて、ハッとするように目を見開いた。
(バレー、続けるんだ)
一時はひどく彼女を傷つけた要因のスポーツだったが、彼女は変わらずバレーを愛しているのだろう。その競技を続けるとわかって、嬉しくてたまらないのだ。それはきっと、同じスポーツマンとして互いに励んでいく源にもなるし、彼女がケガなどを乗り越えて、好きなスポーツを高校でもプレイできることに感動を覚えたからだろうと思った。はっと我に返って、(俺はあの子の親か?)と自分にツッコミを入れた。
「よろしくお願いします」
いろいろと思考を巡らせているうちに彼女の自己紹介が終わったようで、教室内で拍手が鳴り響いていた。錦も弾かれるようにして拍手をした。そして、いよいよ自分の番だ、と意識して胸の鼓動が突然うるさくなったのを感じる。
「じゃあ、次の人―」
担任が気だるげにそう言う声が耳に入り、錦は心の中で気合を入れた。大勢の前で何かを発表したりするのは苦手で、視線を自身に集中させるのはあまり好きではない。あがってしまって頭が真っ白になり、何を言おうとしたのか忘れてしまうし、注目されるのは居心地が悪く感じる。しかしそうこう言っていられるわけはなく、自己紹介をするために席を立った。そして黒板に背を向け、クラスメイトの方を向く。全体を見渡しても、ほとんど知ってる顔はない。中学の教室とも景色が違い、改めて「新しい生活が始まった」ことを意識した。
「錦渉です。〇〇中学出身です」
この短い文章の羅列はすんなりと言えて、錦自身ほっと胸をなでおろしていた。しかし、問題はここからである。出席番号のどこからだったか、途中から生徒が出身中学を言った後に一言を付け加え始めたのである。それに倣って、続く生徒は皆何かしら一言を添えて自己紹介を終えていた。錦もそうしようと思って頭の中で何を言おうか散々考えを巡らせていたのだが、結局何を言えばいいか決まらず自分の番まで回ってきてしまった。このまま「よろしくお願いします」だけ言って座っても特に問題はない。しかし、今の段階で少しでもクラスのみんなに自分のことを知っておいてほしいという想いはあった。
出身中学を言い終えてから体感時間10分、現実では1~2秒経過した頃だろうか。ふと視界の隅に、とても真剣な顔でこちらを見つめているバレー部の彼女、『西浦』の姿が入った。
(・・・彼女はバレーを続けると言った。俺の部活事情なんて、言ったところで何の意味もないけど、でも、)
中学の時、水道場で2度目の出会いをしたときに錦は彼女に『バスケを続ける』とは一応言った。それを覚えていてほしいとかそういった考えはまったくないし、バスケを続けることを知っておいてほしいということもない。そもそも錦に関することを彼女の頭の中に留めておいてほしいなどという考えはまったくなかった。ただ、クラスのみんなと彼女に対して、宣言して知らせておきたいという気持ちがあった。
「えー・・・バスケ部に入ろうと思ってます。よろ・・・」
そこで言葉が止まってしまったのは、ふと目が合った彼女が、錦が「バスケ部に入る」と言った途端に真剣だった表情を一変させて、目を輝かせるようにパァッと笑顔になったからだ。あっけにとられたのも一瞬で、すぐに
「よろしくお願いします」
と言い直して、クラス内で拍手が起こってなんとか無事に自己紹介を終えることができた。お辞儀をしてから椅子を引き、ぎこちない動きで席に着いた。
(なんで俺がバスケ続けるって言ったら彼女が笑顔になるんだ・・・?)
錦の次に自己紹介をしている生徒の話はまったく耳に入らず、上の空であった。
(彼女も俺みたく、バスケ続けることを嬉しく思ったのかな)
彼女の明るい笑顔が頭から離れない。水道場のあのときの光景がフラッシュバックするように頭に浮かんでは消えていく。頭を少し振りかぶって、きちんと自己紹介に耳を傾けなければと思い、意識を生徒の自己紹介に集中させた。
そして無事にクラス全員分の自己紹介が終わった。顔と名前の一致はまだ難しそうだが、それぞれが趣味や部活のことなどを喋ってくれたので、頭の中にぼんやりとそれぞれの生徒の印象が残った。
「よし、いいくらいの時間だね。そろそろ移動しようか。番号順とかないから適当に廊下に出て2列で並んでー」
壁に掛けてある時計を見た担任がそう言い、生徒たちはおもむろに立ち上がり始めた。先ほどまで1人の声しか聞こえなかったクラス内が、椅子を引く音、話し声、雑音に包まれて一気に騒がしくなった。
「あ、さっきも言ったけど入学式終わったらそのまま帰宅だから鞄忘れないでね」
その言葉でハッと思い出して、錦は鞄を手に取って立ち上がろうとした。そのときだった。
「錦くん」
斜め後ろから、錦を呼ぶ声が聞こえた。座ったままの体制でゆっくりと後ろを振り向く。そこには、西浦が立っていた。相変わらずの優しい笑顔でこちらを向いている。
「錦くんって言うんだね。名前。あのとき聞くの忘れちゃったからさ」
錦はおもむろに立ち上がって西浦の横に並んだ。近くにいると、より一層彼女の高い身長を実感してすぐそこにある顔の近さにドギマギとしてしまう。制服姿の彼女をきちんと見るのは初めてだった。
「俺も。ええと、西浦さん」
「呼び捨てでいいよ。なんか変な感じするから」
「俺も『くん』付けなくていいよ」
なんとなく彼女を直視するのが恥ずかしくなって、少し俯いた。けれど様子がすぐに気になり一瞥するように彼女の方を見てみると、彼女も伏し目がちになって少し下を向いていた。顔の横に落ちてきた髪を、右側だけすくって耳にかけている。黒い髪と彼女の肌がまるでコントラストのようで、思わずドキドキとして見つめてしまった。
「錦、やっぱりバスケ続けるんだね」
伏し目のままそう言う彼女の声で我に返って、心の中で(俺は最低変態野郎だアホカスゴミクズ)と自身を罵倒した。そして何か言葉を返さなければ、と口を開く。
「バスケ、好きだから。・・・西浦からもらった粉末のスポドリ、使わせてもらうな」
いたずらっぽくそう言うと、彼女は弾かれたように顔を上げた。その表情は笑顔でもなく、しかし無表情というわけでもない。何か眉をひそめて思い悩むような、しかしネガティブな感情ではないということはわかる。そして、少しだけ顔が赤いように見えた。その表情を見せたのも一瞬で、気づくといつもの笑顔になっていた。
「うん。せっかくあげたんだから、ぜひ活用してよね」
彼女の笑顔を見ていると、段々と緊張などがなくなってきて口が回るようになってきた。話しかけられてばかりで、こちらからも何か言いたいと思って笑顔を見つめ返しながら言葉を投げかけた。
「西浦もバレー続けるんだな」
「うん。私も、バレー好きだからさ」
「はは、お互い様だな」
そう言って小さく笑い合った。交わし合った言葉数はとても多いものではない。実際このやりとりも数十秒程度の短いものである。しかし錦にとってはとても長く、そして特別なものに感じられた。しばらくすると、遠くから西浦を呼ぶ女子生徒の声が聞こえてきた。西浦はそちらの方をちらりと見てから、
「それじゃあ、1年間よろしくね!また明日!」
と錦に明るい笑顔で言ってから、鞄を持ち直して廊下の方へと向かって行った。錦も笑顔で「じゃあな」と言ってその場で別れた。生徒の大半が廊下に出ていることに今更ながら気づいて、錦も慌てて廊下の方へと向かう。適当に並んで列を成していたので、錦もおもむろに混ざって適当な位置に立った。他のクラスの生徒も廊下に出て並んでいるようで、校舎全体がざわざわと騒がしく感じる。ぼーっと突っ立って出発を待っていると、横に並んでいた男子生徒に話しかけられた。
「なぁ、バスケ部入るの?」
錦はいきなりのことで驚いたが、話しかけられたことが嬉しくて少し笑顔で返事をした。
「ああ。そのつもり」
「俺もバスケ部入るんだ。えぇと・・・すまん、バスケ部入るって自己紹介は覚えてるんだけど、名前忘れちった」
「・・・それは俺もだな」
そう言い合って、「なんじゃそりゃ」と二人で笑った。改めて名前を伝えあってから、バスケ部の見学一緒に行こうとかそういう話になって、結局入学式が始まるまで雑談をし合った。
静まり返る体育館の中、教室に入ってからの数時間を思い出す。
(西浦にもまた会えて、バスケ部入部予定のやつとも会えて・・・)
不安で怖くてしょうがなかった朝のことなど嘘のようだ。楽しい生活になりそうだなという予感に包まれて、満ち足りた気分で入学式を終えた。


それからの学校生活は、とてもうまくいっている。日が経つにつれてクラス内での交流も増え、皆がよく喋るようになった。顔と名前も一致できるようになり、入学初日のときはまるで異質な空間に入り込んだような居心地の悪さを感じていたが、今となっては馴染み深い教室の風景に見えるようになった。バスケ部にも無事に入部することができ、同学年のバスケ部員や先輩たちとも仲良くなり始めている。勉強に関しては不安な要素が盛りだくさんだったが、今の時期に気にすることじゃないなと割り切った。
例の女子バレー部員の西浦とも、クラス内で唯一同じ中学出身で入学前からお互いに知り合いだったこと、出席番号が連番になっていることから関わることも増えた。先生がクラス内で何かの班分けやペアを作るときは、大抵は出席番号を基に振り分けることが多いので、よくペアになったり一緒のグループになって作業したりなどしていた。初めのうちはやはり話すと緊張してしまっていたが、今では気軽に軽口をたたき合うくらいの仲にはなっている。
錦は、いつか自分の気持ちを西浦に伝えるつもりではあった。しかし今まで告白などしたこともされたこともない錦にとって、それは未知と恐怖が入り混じったとても手を出しがたいことであった。告白とはどのようにすればよいのかてんで分からないし、振られた後に彼女と気軽に話せなくなるのが何よりも怖かった。いつか、いつか・・・と先延ばしにすることはよくないことだと理解していたが、踏ん切りがつけられずにいる。頭の片隅に告白のことを残しつつ、日々を過ごしていた。


とある日の放課後。この日は出席番号の順番で、錦と西浦が日直当番であった。「またペアだね」と言い合って、提出物を集めたりなど日直の役割を果たしていた。特に問題なく一日が過ぎているように思えたが、放課後になって一つ大きな課題を忘れていた。2人とも日誌の存在を忘れていて、放課後になるまで何も記入していなかったのである。ホームルームが終わって日誌を提出してすぐにお互いに部活に向かうはずだったが、日誌を書くのと黒板をきれいにするため少し教室に居残ることになった。
そもそも日誌を取りに行くこと自体を忘れていたので、ホームルームが終わってから職員室に日誌を取りに行き、教室に戻ってくる頃には生徒はみんな教室を去った後のようでクラスには誰もいなかった。
「錦、黒板頼んでいい?私は日誌書くから」
「おう。中学時代は黒板消しの達人って呼ばれてたから任せろ」
「なにそれ・・・?」
西浦は頭の上にはてなを浮かべつつ笑っていた。錦が黒板の方へ向かい、教壇に立った後になんとなく振り返って彼女の方を見てみると、西浦は自分の席に座って日誌を書いていた。それから2つある黒板消しを両方持ち、文字を消していく。
キュキュという黒板消しの音と、たまに紙をめくるパラッという音が耳に入る。無言の空間で、やがて吹奏楽部の楽器や運動部の掛け声が開いた窓から聞こえてくるようになった。大きな風が吹いて、カーテンが大きくはためく。陽の光が一気に教室に入ってきて、宙に舞うチョークの粉が光に照らされてはっきりと目に見えた。
黒板の掃除をし終え、西浦の方を見る。彼女はじっと日誌に向き合って記入し続けている。
「なんか他にすることある?」
教壇の上に立ったまま少し遠くにいる彼女に尋ねると、西浦は日誌を見つめたまま首を横に振った。ひとまずやることがなくなったので、日誌を書く彼女を手伝おうと思い西浦の一つ前の席を借りて、彼女の机を挟んで向かい合うようにして座った。逆様になった日誌をなんとなく目で上から順番に追っていく。今日は晴れ、日直は西浦と錦、1限目は古典・・・。晴れと書いてある横にかわいらしく太陽の絵が描いてあって、微笑ましくて少し笑ってしまった。
「今日男子の体育なんだった?」
「えーと・・・バドミントン」
走らせていたペンが止まったその先を見てみると、3限目の体育の欄にペン先が置かれている。女子はどうやらハードルをやったらしい。さらさらと記入していくペンから視線を移して、ふと彼女を見てみる。まぶたを伏せて、ひたすら日誌に視線を落とし続ける彼女は他に目移りすることもなくじっと紙を見つめて書き続けている。錦はしばらく彼女を見つけ続けてみたが、それにも気づいていないようだ。それをいいことに、錦は彼女を凝視してしまった。
(やっぱり、髪伸びたよなぁ)
入学式の日に気づいたことだったが、西浦は中学時代よりも髪が長くなった。うなだれて水道の水に打たれ続けていたあのときは彼女はベリーショートで、俯いていても鼻の先は見えるくらいの髪の短さだった。少年にも見えたあの頃とは一変して、彼女のきれいなまっすぐと伸びた髪は肩くらいまでの長さになった。俯いて日誌を書いている今は、顔全体を包み隠すように髪が垂れ下がっている。
ふと彼女が右側の髪をかきあげて、耳に掛けた。その仕草を見て思わずドキリとしてしまう。窓から入ってくる夕陽が彼女の白い頬を差す。伏せられたまぶた、長く伸びたまつげ、つぐんだ唇、髪がかかった耳・・・。ハッと我に返って、目をつむりながらぐりんと首を思いきり横に向けた。
(仕事してくれてる西浦を凝視するとか俺は一体なにしてるんだ??しっかりしろ俺。最低だぞ)
このまま無言が続くのもなんとなく居心地が悪くて、気を紛らわすためにも声をかけてみることにした。
「髪、高校入ってから伸ばした?中学のときはもっと短かったと思ったけど・・・。願掛け?とか?」
そう尋ねると、日誌を書く手が急に止まった。彼女から、スゥと息をのむ音が聞こえてきた。まぶたが、まつげが少し震えただろうか。しばらく沈黙が流れた後にまた強い風が入ってきて、カーテンが大きくはためいていた。日誌を書く手が進む気配は一向に感じられないず、西浦は同じ体勢のまま動かない。
「・・・・・・」
「・・・・・・・・」
(い、いかん。傷つけたかも。聞いちゃいけないことだったかもしれない)
体中から嫌な汗がぶわぁっとふき出すのがわかる。体温が数度低くなったような気がして、体が固まってしまった。しかしとにかく不快にさせたのならまず謝らなければと思い、「ご」と言いかけたところで西浦が口を開いた。
「・・・好きな人が、ロングが好きって言ってたから」
「・・・へ、へぇ」
か細い声しか出てこなかった。あまりのショックの大きさに、まるで頭を突然殴られたかのような錯覚に陥った。彼女が今こちらを向いていなくてよかったと思う。どんな情けない表情をしているか自分でもわからないからだ。
ただひたすら、この場から消えてしまいたかった。すぐにでも自分の存在を消し去りたかった。いつか、彼女に告白しようとは思っていた。その上で、受け入れてくれる可能性もあるし、受け入れてくれないこともあるとは頭では理解していた。錦のことを恋愛目線で見られないとか、部活に集中したいとかそういう理由で断られることもあるだろうなぁ、と想定はしていた。しかし、彼女に好きな人がいるだとか、彼氏がいるだとか、そういう理由で振られることはまったく考えていなかった。
西浦も一人の人間で、誰かを好きになることもあるだろう。その好きな人が自分であるという確率の方が低いし、そんなことは奇跡と言っても過言ではないかもしれない。相違相愛など、夢物語である。
聞かなきゃよかった、という後悔と、告白する前に諦めがついたという少しの安心感と、好きな人とは誰だろうという嫉妬と好奇心が複雑に絡み合って錦を支配する。諦めをつけきりたくて、好奇心もあって、思わず尋ねてしまった。
「ちなみに・・・好きな人って、誰?」
彼女は相変わらずペンを止めたまま、体のどこも動かさずに静止している。俯いているから、はっきりとした表情はわからない。錦も、自分で自分がデリカシーのない奴というのはわかっていた。好きな人は誰だと聞かれて、よっぽど信頼している人でもない限りはこんなことを聞いてくるのはかなり気持ちの悪い質問だろうなぁと。しかし、きっぱりと彼女を諦めるためにも、聞いておきたかった。デリカシーのない奴だと、気持ち悪いことを聞いてくる男だと思われて、彼女に嫌われた方が今後楽かもしれないと思った。
(もう明日は学校休も)
あまりの傷心具合に突然にそんなことが閃いてしまった。そんなことを考えている場合ではないのだが、脳みそがこの状況から逃げようとしているのか、余計なことばかりが浮かんでは消えていく。
「ひ、冷やかしとかじゃなくて・・・単純な興味もあるけど、その・・・。誰かに言ったりなんかしない。だから・・・教えてほしい」
自暴自棄になっていると自分でもわかっていた。彼女の好きな人が誰か気になるという気持ちと、彼女に嫌われてしまいたいという気持ちが錦の中で共存していた。
西浦を直視できなくて、ひたすらに日誌に視線を落とし続けた。すると、彼女が握っていたシャーペンがころりと日誌の上に転がった。それと同時に錦は固唾を呑んで、ゆっくりと西浦の方を見る。彼女はゆっくりと顔を上げたかと思うと、両手で顔の下半分を覆うようにして隠していた。
「ねぇ」
小さく、両手の間から彼女の声が聞こえてきた。返事もできずに、彼女の目を見るのは怖くてじっと顔を覆う両手を見続けた。すると、またか細い声が紡ぎだされる。
「・・・さっきからそれ、わざとなの?」
彼女の顔を勢いよく見た。両手で顔の下半分を隠していてもわかるくらいに、鼻も、おでこも、耳も、なんなら両手もすべてが真っ赤っかだった。困ったようにハの字になった眉と、潤んだ瞳がこちらを見つめ続けている。
そこでやっと錦は気づいた。自分は本当に、なんてデリカシーのない奴だったんだと。
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