僕はいつもここにいます(上) ――勢津とユストの物語

文字数 5,433文字

 アラベスクのエンボスが浮きだす象牙色のつややかな包装紙。
 金色のモワレが美しいリボンとヒイラギ飾り。
 そしてそのリボンの下に挟み込まれた手書きのメッセージカード。

 届いたばかりの空輸便のコンテナボックスの中には大小とりどりのギフトボックスがぎっしりと詰まっている。勢津はそれをひとつひとつ丁寧にクリスマスツリーの下に並べていた。
 今年のカードは薄紅色なんだなと思いながら、彼は微かに残る主人の匂いを懐かしく、……懐古という意味ではなく、ただ久しく会わなかったボスの匂いを嗅ぐオオカミの心持ちで、目元を和らげた。


 勢津は真っ黒い尖った耳と太く頑丈な尾を持った人狼で、二十七歳という若さにもかかわらず、このキュール村の北西、イルディーズという典雅な名を与えられた邸を管理する執事だった。
 大柄で均整のとれた体躯にはしっかりと筋肉がつき、礼儀正しげな温和な表情や物腰には大型の獣の優雅さが、そして鉛色の瞳には他人の干渉を好まぬ硬質な光があった。

 細い声帯から出る小鳥めいた声で誰宛ての贈り物か読み上げながら、地元から雇われたメイドがコンテナから取り出した箱を勢津に次々と手渡す。

「ことしの霧歌さんへのは大きいですねえ」

 彼女が感心したように言う。
 勢津は一抱えあるその箱をゆっくり揺すってみた。鼻を近づけると、嗅いだことのある匂いがする。他の箱からは真新しい革や金属や天然香料の匂いがするが、この箱の中からは贈り主が表向きに本籍を置いているはるか遠くの大陸にある別邸の、重たげな蘭麝の香りがした。

「中身、知りたいですか」

 箱の中に詰められているものに大体の見当をつけてそう問うと、若い娘は自分の体格をはるかに凌ぐ上司に対しちょっと眉間に皺を寄せた。

「きりかさんがクリスマスのあさあけるまで、しっちゃだめだとおもいます」

 この島の地元民は、あまり進学などに興味がなく、この地域で生まれ、育ち、一生を終える。それだけ暮らしやすいところだというしるしなのだろう。皆が顔見知りのせいか、犯罪率も異様に低く、無邪気で素直で勤勉だ。都会から来た者が雇用するときも、合理的に物事を理解させるまでが大変だが、その分納得して覚えてしまうと一生懸命にやる。そして他者を裏切るということを知らない。

 この島の外でのぎすぎすとした生活に倦み疲れたこの邸の主人は、彼らの気質を気に入っていた。だから、ユストはこの別邸に自分が信頼を置ける者だけを集めている。この勢津も、愛玩用人狼の霧歌も、病的なほど人見知りの侍従グウィンも然りだ。
 だから、世界中に点在する自分の地所の雑事は各執事に任せつつ、このイルディーズコートにいるものに対しては執事から一番下っ端のメイドにいたるまでユスト自身がクリスマスの贈り物を選び、自筆でカードをつける。カードの文字が変に歪んでいるのは、きっと何らかのヴィークルで移動中に書いたからだろう。

「そうでしたね、お行儀が悪いことを言いました」


 勢津はこの村からはるか遠い国の、山間で半自給自足の生活をする人嫌いな両親の間に生まれた。

 もともと天狼族というのは人狼の一部族で、いくつかの部族と袂を分かつような形で昔からヒトの間で暮らしている。優れた嗅覚や聴覚、さらに動物的直感で簡単な天気予報ができた彼らを、天変地異を占う星だった天狼星(シリウス)にちなんだ名で呼んだのは彼ら自身ではなくヒトだった。他の人狼部族から蔑みの目で見られながら、彼らは人間たちを愛し、人間と共に極寒の氷海から灼熱の砂漠まで散らばっていった。
 そうしてヒトと共に暮らしていくうちに天狼族の純粋な血統は失われた。
 時代は下り、当然のように何もかもが忘れられてしまった。たまにオオカミの耳と尾がついた子どもが生まれて「そう言えばうちの先祖に天狼族とかなんとかいうのがいたらしい」と思い出される程度で、もう尊崇の念などなく当然のようにけだものの子として嫌われる。
 ただ存在している他の獣人族の権利やら何やらをとやかく言う気はない。
 それなりの覚悟があり設けられた混血の子も特に気にはならない。
 だが自分の血筋に、もう消え去ってしまった種族の人外とのあいの子が隔世遺伝で何の予告もなくぽんと現れることが許せないのだ。例えるなら、ハンディキャップを持っている者を激励し「みんな生きているだけで尊い」などといいながら、自分の子がハンディキャップを持って生まれると打ちひしがれ涙ながらに世間を呪う、そういうものだ。

 兎にも角にも、勢津の両親はそういう「獣の子」として育ったという。二人とも比較的天狼族の特徴が色濃く、コスチュームプレイのように耳と尾がついて生まれただけの人間のような人狼とは違い完全なオオカミの姿になれた。当然、その分世間からの風当たりは強い。
 二人は出会ってすぐに、自分を理解してくれるものはこの世には他にいないと結婚を決め、ささやかな家庭を設けた。
 ヒトの社会で小さな摩擦や軋轢に囲まれて育った両親は山奥に小さな家を建てた。山水を引き、手作りの発電装置を使って林に囲まれた僅かばかりの日照で電力を賄った。山菜を採っては近くの村の産直販売所の小さなブースで売り、狼の姿でシカやイノシシを狩って丁寧に処理しては知り合いの小料理屋に卸して生計を立てた。
 そのうち、灰色に黒の差し毛を持つ父と黒っぽい虎毛の母から生まれたのは、真っ黒な毛を持ったオスの人狼だった。
 勢津という典雅な名を付けられた彼は、両親に愛され野山を駆け回って育った。両親の強さと愛情を全く疑うことなく大きくなる息子に、彼らは自身よりもさらにオオカミの特徴を残した性格、そしていずれは親をはるかに凌駕する身体能力の萌芽を見た。

――このままだとこの子はヒトと完全につきあえなくなってしまう……。

 そう思った勢津の両親は、息子の将来に無限に広がる道を両親の思惑で狭めることを良しとせず、たまに他の人間の子と遊ばせる機会を作り、山間の村の学校へも通わせた。
 よく勢津は父にも母にも訊ねられた。

「学校は楽しい?」

 宿題の計算式をノートいっぱいに書き終え、片付けながら勢津は答えた。

「楽しいよ」

「そう」

 勢津の答えを聞くその度に両親はほっとした顔をした。
 もの思わしげに息子の顔を見つめる両親を勢津は不思議そうに見返しながら、出されたおやつを申し訳程度に咀嚼した後一呑みにする。

「……あー、あのね、明日の図工に松ぼっくり使うから拾ってくるね」

「暗くなる前に帰るのよ」

 彼らは愛する息子が学校でハラスメントを受けていないことを安堵しながら送り出す。
 自身がいくら人嫌いであっても、それはヒトがどういう仕打ちを自分に対して行ったかということの産物だ。もし息子が、自分たちが幼いころに出会えなかったような友好的な人間の中で幸せに生きられるのならば、それに越したことはないと彼らは考えていた。
 それは天狼族を自ら滅ぼしていった志向性ではあったが、彼らは自分たちには結べなかった人間との良好な関係を息子に望んでいた。
 そして勢津は、父を世界一強く、母を世界一美しく、二人をこの世で一番優しく善い親だと信じて疑わなかった。それが、もう二十年前の話だ。
 
 そして、時は流れてその二年後……勢津が十歳になるクリスマスの話になる。
 
 その朝、鉛色の分厚い雲が暁の光を遮って、ただでさえ遅い冬の夜明けにどんよりと暗がりを淀ませていた。
 まだ静まり返った邸の中を、ムートンのスリッパで歩く者がいる。
 その夜着は病衣のデザインだ。その上にガウンを羽織っている。
 痩せ細ったその足首と丸っこい踵が、群青色の空気の中で白く浮き出して見えた。

 正直、十三歳のユストはクリスマスなどどうでもよかった。
 身体が弱く、家で過ごした日よりも入院していた日々の方がずっと長い。しかも、一時退院しても迎えられる邸は一つところではなく親の都合で転々としている。そして世界中に点在するその邸にも使用人たちにも馴染む前に病院へ戻る。当然、家に対して安らぎや愛着を醸成する時間などなかった。

 ベルクリード家は中世のスペイン貴族の流れを汲むのだが、凄惨な政治闘争の末、莫大な資産を持つ宮廷ユダヤ人や新大陸で幅を利かせたイギリス移民の有力者、果ては世界中に貿易及び裏の情報拠点を持つ華僑との姻族関係などを重ね、「血統よりも力」を具現化したような家系だった。
 称号や名誉など、金と権力さえあればどうとでもなる。
 全ての大陸に存在する門閥を束ね、領土こそ持たないが様々な大国でさえ拉ぐ様々な意味においての「力」。
 その力は領土がないからこそ、ひとところに留まらず変幻自在に様々な牙城を侵蝕していける。

 ユストはそんな一門の総帥を父とし、表向きは中米で有力議員でありながら麻薬シンジケートを束ねている男の長女を母として生まれた。彼は「赤ん坊」という言葉とは程遠い、青白く痩せた嬰児だった。
 肉親の無償の愛情というものを受けて来なかった両親は、泣くこともなくぐったりしているその醜い赤ん坊に激しい嫌悪を抱くと思いきや、ぼんやり開いた小さな瞼の裂け目から菫色の瞳が彼らの姿を映しているのを見て、おそらく生まれて初めて無私の愛情というものを抱いた。
 それは、ユストにとって最大の不運だったのかもしれない。彼らの愛情は何が何でもこの死にかけている息子を生かし、自らの栄華、名誉、権力の全てを与えるという、呪いに満ちたものだったのだから。
 醜い子どもは幾度も生死の境を彷徨い、手術を受けた。
 痛みに泣き、恐怖に叫んだ。
 しゃくりあげながら「死にたくないよ」と訴え、「死ねば痛くなくなるの」と答えを求めた。
 ユストの両親は非情なほどに子煩悩だった。
 我が子に障がいが現れた夫婦は、次子を持とうとする傾向が強いという。それは自らに健康な子を生せる能力の証明を無意識に欲しているからであり、障がいを持つ子を子ども同士でサポートさせるためだと言われる。
 彼らはその心理学的傾向を、神に愛され過ぎて「少々」苦難に満ちた道を歩む長子への冒涜と考え、ひたすらユストに執着した。その時点で、彼らもどこか狂っていたのだろう。
 ユストのリプログラムドセルから作成されたアニマルキャップが形成物質に異常反応し、再生医療がユストの命が続くうちには望めないことを知るや、彼らは金に飽かせてHLA/HPAが適合する貧しい子どもの命を買い取り、その臓器のほとんどを愛する息子に与えた。
 八歳のユストは泣き喚く気力もなく何の説明もない手術を受けた。
 もちろん説明されたところで、理解できなかったに違いない。
 その後、彼はやっと自分の口で固形物を食べ、起き上ってトイレで排泄し、衣類をつけ、思うように歩けるようになった。
 完全に苦痛から逃れられたわけではなく、消化管からの出血や様々な炎症でやはり入退院を繰り返しつつも、彼は自分で動けることが嬉しかった。
 両親もこの上なく喜び、息子を抱き締めた。
 それがどんなに罪深いことだったかをユストが知るのは、その八年後。
 ユストが今ひたひたと明けきらぬ朝のこの廊下を歩いているその三年後のことだ。

 セントラルヒーティングで二十四時間暖かく、湿度も申し分なく保たれている中、大きく枝を広げた生きたモミの木はほんの少し枝先の瑞々しさを失いつつも、きらびやかに飾られ堂々とした姿を誇っていた。
 その下にはうず高くユストへの贈り物が積まれている。


「何か欲しいものはないか」

 一か月前にそう父に訊ねられ、同じ年齢の子どもたちに比べ小柄なユストは鹿爪らしい顔で短く答えた。

「ありません」

「何かあるだろう」

 父親は自分によく似た顔だちの子どもに優しく、だが気掛かりそうに尋ねた。
 仕事で息子とほとんど顔を合わせない両親は、たまに会っても親に対して要求することがあまりにも少ないユストに困惑した様子で、だが何とか干渉しようと努力する。ユストにはそれがむず痒く居心地が悪い。
 お互いに、愛していないわけではないのだ。それは痛いほどわかる。
 ユストは切れ長の目を伏せると、小さく言った。

「では、犬を」

 息子のこのリクエストに、父は渋い顔をした。
 やっと自分の足で歩け、無菌室から出てきた息子に菌の塊のような獣は近づけたくない。

「動いて、言うことを聞いて、一緒に遊べる四本足のものが欲しいんだな?」

「はい」

「そういうのでいいんだな?」

「はい」

 父は愛息の要求に目を細めて言った。

「わかった。手配しよう」


 ユストは入院中、一般患者とは違う豪奢な特別フロアにいたのだが、術後少し体調が上向いたある日、御殿のような病室を抜け出し、小児病棟の他の子どもの様子を見に行ったことがある。
 そこで彼はセラピードッグと遭遇した。優しく賢そうな目をした黒いレトリバーで、病み傷付いた子どもたちにかわるがわる大きな顔を近づけ、頭や背を撫でられては尾を振っていた。
 ユストも早速触れようとしたときだ。
「いけません!ユスト様!」
 悲鳴のような声で名前を呼ばれ、怯んだすきに大柄な看護師に抱きかかえられた。
 ガガンボのように痩せて小さな彼はあっさり手足を宙に浮かせた。
「お部屋から出てはいけません!」
 このお坊ちゃまの身に何かあれば看護師たちどころか、この病院の院長や理事長の首が一斉に飛ぶのだ。
 罪人のように連行されながら、ユストはいつまでも犬を目で追った。

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