遥か遠く ――ユストとグウィンの物語

文字数 9,610文字

――あ……

 グウィンは呼び鈴の音で目を覚ました。
 時計は午後六時半きっかりを指している。
 レモンの柄のテーブルクロスに突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
 懐かしい夢に名残惜しさを感じながら、彼女は慌ててバスルームに飛び込んで素早く口元を拭いて髪を直し、玄関へ急いだ。

 ドアスコープから覗くと、長い黒髪を真っ直ぐ垂らした血色の悪い男が佇んでいる。
 出会った頃よりはちょっと圭角が取れ、その代わりに病苦の蓄積に疲れた面差しだった。
 ドアを開けて招き入れると、伽羅が強く薫った。

「ハッピーホリデイ、ユストさん」

 ただ一人の客は微笑んだ。
 相変わらず装飾が一切ない、喪服のような黒ずくめだ。
 イルディーズでクリスマスを過ごす間、ユストはなぜか真っ黒な服を着ることを習慣にしていた。何か意味があるのかもしれないが、誰もその理由を知らない。

 「ハッピーホリデイ、グウィン。お招きありがとう」

 今日、変人の雇用主のこの時間は、自分のためにある。
 グウィンの時間は、ほとんど全てがこの男のためにあった。
 ユストがしぼの寄った手漉きのラッピングにくるくる巻いた鉋屑をデコラティブに組み合わせた飾りがついた箱を手渡した。
 これが今年のクリスマスプレゼントらしい。

「君に似合いそうなものを見つけたんだ」
「ありがとう」

 そう言いながら無意識に匂いを嗅ぐ。
 もう何年もイルディーズにいて、勢津や霧歌の仕草が少し移ってしまっているようだ。
 しかし、ふわふわしたショートヘアの彼女がやるとオオカミというよりはアナグマそっくりだった。

「開けないのか」
「うん、食事か終わってからゆっくり開けたいんだけど、いい?」
「どうぞお好きに、アナグマ君」

 玄関続きのリビングに飾った小さなクリスマスツリーの下に贈り物の箱を置くと、グウィンはいつになく生き生きと彼を案内した。

「どうぞこちらへ、ユストさん」

 先に立って歩くグウィンにユストはしずしずとついてきた。
 案内したところはバスルームだった。白と青のタイル張りで、バスタブも鏡ももちろんトイレもしっかり磨いた。棚には新しいタオルを積み、殺菌作用のある薄荷水やラベンダーウォーターの瓶を並べている。

「すぐお食事だから、手を洗って来てね。終わったらリビングで座ってて」

 グウィンはそう言うと、静かにカーテンを閉め、ユストは手を洗ってふかふかしたタオルで手を拭いた。
 女主人が一人、客が一人となるとなかなかもてなすのも慌ただしい。
 ユストはバスルームから出ると、癖になっている足音を忍ばせた歩き方で居間へ行った。
 これが普段であればあちこち覗いて様々に洞察したいところだが、連日の激務に加え昨晩深夜のホスピタルコスプレツアー開催で若干くたびれ気味だ。
 さらに本日の昼下がり、実物そっくりのキャラクターが作れるシミュレーションゲームで勢津と霧歌のアバターを作ってベッドインさせているところを勢津に見つかりけちょんけちょんに怒られて、ユストは少々応えている。
 だから、今日は「省力」をテーマに、素直に客として遇され客としての礼節も弁えようと思っていた。
 どこもかしこもレトロポップなレモン柄で統一されたリビングで、大富豪は粗末なソファにぽつねんと座る。
 なかなか居心地がよかった。
 ダイニングの方から、音質の悪いラジオのオールディーズ・クリスマスソングに混じってかたこととグウィンが立ち働く音がする。

 ユストはそれなりに様々な接待を受けてきた。
 きわどいドレスの美女や清潔感溢れる美丈夫がにこやかに寄り添ってきて、それになびかないと見るや、様々な性癖を匂わせるタイプの老若男女を支度してくる。
 全く手を変え品を変えてくるハニートラップ、あるいは歓心を買おうとする態度には、ネタにされているのかと思うほど阿呆らしい。
 そういうときはいつもすげなく、相手によっては丁重に断るのだが、たまにこういうままごとのような家庭的な演出をしてくる輩もいる。
 噴飯ものの奇妙な設えをしてくる連中より、そういう手合いの方がユストは不快でならない。
 なぜなら、彼はこういう家庭生活臭に月並みで馬鹿げた憧憬を抱いているからだ。だからこそ、そこへ他者に触れられるのは許し難い。
 しかしこうして、心を許した人間にならばユストは素直にその佇まいに身を置けた。

「ユストさん」

 声をかけられて、ぼんやりしていたユストははっとした。

「お待たせ」
「……」

 グウィンは紫色の瞳でユストの菫色の目を見た。

「疲れてるの?」
「いや、ちょっと考え事をしていた」
「……お休みのときくらい仕事のこと考えずにゆっくりしたらいいのに」

 グウィンはほんの少し口を尖らせた。
 笑顔ほどではないが、こういう顔もユストは悪くないと思っている。

「仕事のことじゃない」
「ふーん」
「……」
「ダイニングにどうぞ、ユストさん」

 大富豪はゆっくりと立ち上がり、今夜の女主人に誘われるままダイニングキッチンのテーブルに着いた。

 ラジオのアメリカンオールディーズ・クリスマスソングが流れ続ける中、質素な祝祭料理がテーブルに並んでいる。
 熱々の煮込み料理も、いい食べごろだ。柔らかく煮込まれているので、胃腸の弱いユストにも食べやすい。
 皮がぱりっと焼けたチキンも、豆のサラダもあっさりと穏やかな優しい味付けだ。
 家庭の温かさの籠る、つましくも心のこもったもてなし料理だった。
 
 食事が始まる。

 もともとあまり積極的に喋らないグウィンとユストが二人きりでいると、会話があまり進まない。
 それはそれで、いつもならユストもグウィンも気にしないのだが、今夜は正客としてユストは礼儀正しく村外でのトピックやイルディーズでのクリスマスの様子を披露し、料理と設えを賞賛した。
 グウィンは褒められるとこそばゆそうに言った。

「……『外』ではいつもすごいご馳走食べてるくせに」
「それはそれ、これはこれだ。そして私はこっちの方が体に合う」

 ユストの食が進むのを見て、多少は彼が無理している部分があるにしてもグウィンは嬉しかった。
 しかし口をついて出るのは可愛げのない言葉だ。

「お世辞?」
「そういう口を利いてると、聞きたかった言葉を先回りして潰してしまうぞ」
「聞きたい言葉なんてないよ」
「にやけているくせに」
「……にやけてないよ」

 微笑の一歩手前、感情を押し隠そうとする少しふにゃっとした仏頂面。
 ユストは時折、こういう顔をするグウィンが面白くてたまらなかった。

――素直に笑えばいいのに。

 そんなことを思いつつも、ユストの好みで言えば、こういうあまり人好きしないが根は優しい女というのはなかなかよいものだということになっている。
 心根の可愛らしさなど、ごく一部の人間だけがわかっていればいい。
 そしてそんな女は自分を理解する人間にはよく尽くす。

 だからこそ、彼は友人に、双方の幸せを願ってグウィンを勧めたのだ。
 しかしその友人もグウィンも、あまりお互いを好く様子もなく、ユストの無責任な酔狂だと思って迷惑がる始末だった。
 彼は大真面目だというのに。

 昨晩、ユストはその友人が気に入って雇っているハウスキーパーに身を引いて欲しいとやんわり匂わせるために連れ回したのだが、思ってもみなかったびらびら勝負下着が登場する不条理な展開でついお節介を焼いてしまった。
 ユストは溜め息をついた。

――要らんことしいの面目躍如だな、私は……

 グウィンがもの問いたげにユストを見る。

「あ、失礼。考え事をしていた」

 食卓で溜め息をつく無礼を彼は即座に詫びた。

「……考え事ばっかりなんだね、ユストさんは」
「考えずにいられたらどんなにいいだろうとは思っている」

 食事の皿を引いた後デザートに控えめな大きさにカットしたりんごのプディングを出し、ごく薄く淹れた茉莉花茶を勧めながら、グウィンはおずおずと切り出した。

「……ねえ、ユストさん」
「?」
「……あのね、私がなんでこんな風にお休みもらって、ここを借りて、ユストさんを招いたと思う?」
「DIYでもやりたかったのか?」
「ううん」
「じゃあ何だ」

 訊ねられて、グウィンは少し嬉しそうな、寂しそうな顔をした。
 この雇用主は馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。
 または完全に理解不能だと思われるかもしれない。
 それでもやはり言いたかった。

「私、父と母がいなくなったクリスマスをもう一度やりたかったの」
「……」
「……父と母がいなくなった日ね、クリスマスイブで母が作ってたご馳走がこれだったの。……ユストさんみたいな御大尽には何だこれって感じだろうけど、でもあの頃のうちはお金がなくて、これでもすごいご馳走だったんだ」

 ユストは目を細め、カップを口に運んだ。

「でね、父さんと母さんが帰ってこなくて、探してもどこにもいなくて警察に届けて……私ね、泣きながらこのご馳走を何日かかけて一人で全部食べたんだけど、味なんかわからなかった」

 淡々とグウィンは喋った。

「だから、ね……あの時の料理を誰かと美味しく食べたかったの。……この家具の置き方とか、ファブリックとか、私のうちの通りに真似して」

 グウィンはユストの相槌を少し待ってみたが、彼は黙っている。

「……『ごっこ』遊びでもいいから、もう一回あのクリスマスを誰かと楽しみたかったの」

 熱帯の木々が生い茂る林の中、風が渡って葉擦れの音がラジオの『シルバーベル』に混じっている。
 キッチンの窓に小枝が当たり、カタカタと音を立てた。
 グウィンの言葉が途切れると、ユストが真っ直ぐにグウィンを見た。

「グウィン、なぜ私だけをこの場に招いたんだ?」

 グウィンもユストを見返した。
 以前ならば気弱に目を逸らしていた。
 しかし、ここは自分のテリトリーで、今は自分がこの場のMCだという思いが彼女の気持ちをしゃんとさせている。

「だって、ユストさんしかいないじゃない、私を一番わかってくれている人は」
「……」
「私が昔どんな目に遭ってたかとかさ」

――そう、私は汚いの。知ってるでしょ?

 自分の口にした言葉にじくっとした胸の奥の痛みを感じながら、グウィンはティーポットに手をかけた。

「……お茶のおかわり、どう?」

 ユストはワインと同じ作法でそっと器のふちに指を触れ、断った。
 ユストはその触れた右手を軽く握って肘をつき、人差し指の第二関節辺りの骨の出っ張りを、少し考え込む体で唇にあてた。

「グウィン」

やっと手を唇から離して徐にテーブルの上に置くと、彼は奇妙なことを言った。

「君は私を責めているのか?」
「え?」

 グウィンはきょとんとした。

「責めるって何?」

 ユストはグウィンが心底不思議そうに問いかけてくる様子を子細に観察していた。
 使用人(サーヴァント) に隠し事をするのは至難の業と昔から言われている。特に侍従( ヴァレット)は最も主人の近くに仕える。
 この侍従は聡い。
 ユストは一瞬確かめたくなってしまったのだ。

――何か察しているのかと思ったが……

 彼は、少しは実直に見えるような表情を作ってはぐらかした。

「……私はこの十一年間、ご両親を見つけてやるという約束をまだ守っていない。あてつけか」

 守れない約束をしておいてしゃあしゃあと。
 これがベルクリード総領家のお家芸なので仕方がない。
 彼女は小さくかぶりを振った。

「ううん、当てつけなんかじゃないよ。手を尽くしてくれて感謝してる。このブローチも取り返してくれたし」

 グウィンは胸元の赤い木目が美しいブローチに触れた。
 実際は、ユストは配下を使い、このグウィンの両親の形見を警察署の保管庫から分捕らせてきただけだ。
 それを渡してやっただけで、グウィンは彼が必死に手を尽くしてくれているものと思い込んでいる。
 本当は探したりなどしていないのに。

「探してくれてありがたいけど……もう父も母も生きてない気がするんだ」
「……」
「私、両親にすごく愛されてた。その二人が、私を置いて一言も無しにいなくなるなんてありえない。もし生きてたらどんなことをしてでも私を探してくれるはずだから」

 そう言って、グウィンは瞳を潤ませた。
 両親に心から愛されていたことがそのまま両親の死亡を証明する皮肉さ。
 十三年を経て、グウィンはその推測を事実に近いものと受け容れてしまっている。
 一方で、非はこの上なく明確に自分にあるが、ユストはいじめられるために招かれたような気がして先ほどの食事を全部吐いてしまいたくなっていた。
 これがビジネスミールなら割り切ってしまえたが、身内だと思って処遇に心を配っていた者にやられるとボディブローのように胃のあたりに効く。
 自由闊達で鷹揚な仮面を被っているこそいるが、心の芯がぐらつきやすい性質のユストは、昔の自分が呪わしくて仕方がない。
 ほぼグウィンのモノローグだった会話が途切れ、空気が静まるのを待ってからユストは静かに言った。

「グウィン、居間へ行ってもいいか?」
「……ごめんね、辛気臭いこと言って……先にリビングに行ってて。お皿洗ってから行くから」
「客を待たせるのは、人を招いた側としてはいい作法ではないな」
「……五分で終わらせるけど、だめ? 母は洗い物をほったらかすのが嫌な人だったんだ」
「……」

 グウィンはちょっと寂しい顔をして立ち上がり、椅子をテーブルの下に押し込んだ。

「そうだよね……確かに招いた側としては失礼だよね」

 ユストはすいっとその脇に寄った。

「どうした、皿を洗うんじゃなかったのか?」
「待たしちゃ悪いんでしょ?」
「待たない」
「え?」
「手伝ってやろう。5分が3分くらいにはなるんじゃないのか?」
「え?」
「さあ、やるぞ」

 ミショナリーのようなジャケットの袖を少し引っ張り上げながら貴人然としたユストが言う。
 休暇中の侍従は面食らった。

「ユストさん……こういうのはだめなんじゃなかったの」
「たぶんだめじゃない」

 彼は、こと家事においては全くの無能どころか、厄介な仕事を次々と創出して周囲に迷惑をかける男だった。
 グウィンが止めようとしたときにはもうユストは行動に移っていた。

「私がやろうと思ってできないことはほぼないんだ」

 ナチュラルにそういうと、ユストは目の前の先ほどまでプディングが載っていた皿を料理店のギャルソン風に持とうとした。

「レストランではこんな感じに持って……」
「あっ!!」

 案の定だった。
 がちゃんと磁器の割れる音が数枚分連なった。
 明るい小花の咲く皿が、大小の破片となってユストの足元に散らばる。
 グウィンが幼いころに「おうち」で使っていたおぼろげな記憶を頼りに似た食器を集めたものだ。

「え?」

 割ったユストは怪訝な顔をしている。
 何故割れたのかが理解できないという顔つきだった。

「え、じゃないよ……もう」

 グウィンが古新聞を取ってきて、しゃがんで破片をその上に集め始めると、ユストもすぐに片膝をつき拾い始めた。

「……すまない。私としたことが」
「怪我するからいいよ。私がやるから」
「割ったのは私だぞ」
「いいって」
「女主人なら客の希望を叶えろ」
「お客さんはもてなす側のいうこと聞いてよ」

 言いながらも、磨かれた爪を持つ白蝋のような長い指と水仕事と庭仕事で肌理の荒れた指がどんどん磁器の破片を拾っていく。
 グウィンが手で拾える残骸を新聞紙に包んで片づけた後、小さな欠片を棕櫚のほうきで掃き集めて始末するのをユストはシンクに寄りかかってしげしげと見ていた。

「何じろじろ見てるの?」
「いや……穴を掘りまくっているアナグマそっくりだと思った」

 ユストは仕草の愛らしさを評価しているつもりだったが、グウィンは茶化されているのだと思い、素っ気なく答えた。

「そう」
「見ていて面白い」
「……そう」

 皿を割った本人が何を言っているんだ、とグウィンは思った。
 男が初めてやってみた家事で不始末をやらかした時に、周囲がどういう対応をするかで将来良き家庭人に育つかどうかが掛かっている、という。この男はどう考えても良き家庭人になりそうもなく、なる必要もないのでグウィンは再三ユストにリビングに行ってくれと頼み、ユストは不承不承にキッチンから立ち去った。
 結局、ユストがいらんことをやらかしたせいで食後の後片付けには二分どころか十五分かかった。

「私は早く君がプレゼントを開けるところが見たかったんだ」

 グウィンがエプロンを外してリビングに行くと、ユストはソファの上で弁解気味に言った。
 先ほどの居心地の良さは消え去り、この室内のすべてが自分を凝視しているような落ち着かなさを彼は感じていた。

「うん」
「早く開けろ。こっちで」

 ユストは自分の横の、ソファの空きスペースをぽんぽんと掌で叩いてみせた。
 ビニールや針金でできた安っぽいクリスマスツリーの下に屈んで、さっきユストが持ってきた包みを抱えると、彼女はユストの隣に座って丁寧にシールやテープを剥がし始めた。
 母譲りの習慣で、綺麗な包装紙は大事にとっておいて、グウィンは小さな封筒を作りちょっとしたことに使う。イルディーズの使用人たちがみな包装紙を丁寧に扱うのはグウィンを真似てのことだ。

 箱を開けると、出てきたのは「箱」だった。

「わぁ……」

 グウィンが息を呑んだ。
 今年彼女に贈られたのは寄木細工(マーケトリー)の箱だった。
 花のような幾何学模様が複雑に組み合わされている。
 紫檀、黒檀、緑檀と、ところどころに嵌っている白っぽい虹色のパーツは白蝶貝だろう。
 両手でなんとか包み込めるほどの大きさで、角は矩形のソリッドなデザインを損なわぬ程度に削られ、取っ手は紫檀を削りだしたもので革のタッセルが飾られている。
 開けてみると、別珍張りでジュエリーケースのような仕切りもひとつついていた。仕切りや内貼り板が外れるようになっていて、外すと少し容量が増え、寄木細工の裏側も見えてそれも楽しい。

「ありがとう。きれいな箱だね」
「箱じゃない」
「じゃあ何?」
「バッグなんだそうだ。ワルシャワの職人が作ったらしい」

 バッグとして機能性は少々疑問だが、パーティにも持っていけそうな美しさだ。
 ポーランド系の移民だった彼女の祖先のことを考えてこれを選んだのかと思うとグウィンは嬉しかった。

「気に入ったか?」
「うん。大事にする」

 矯めつ眇めつしているうち、グウィンは柔らかい表情を浮かべていた。
 贈り主は右手を伸ばし、黒いくせのある彼女の髪を撫でた。
 グウィンはちょっと困ったようにユストを見ると、伏し目がちにじっとしている。
 彼はちょっとだけ目を細めて見せ、手をそっと撫でおろし、軽く曲げた指の背で白い頬に触れた。
 彼女の頬は温かい。

「きっとそのブローチによく合う」

 苦い気持ちで、ユストはそういうと立ち上がった。
 優しげに取り繕ってはいるが、彼はこのプレゼントを選ぶときにブローチのことなど思い出しもしなかった。
 
 とにかく、今日のノルマは終わった。
 そろそろ頃合いだろう。

「では、私はお暇する時間だ、アナグマ君」

 執事が意味ありげに泊ってきてもいいですよと言っていたのを思い出して、ユストは少しだけ眉を顰めた。
 そして玄関のホール、そしてポーチで今夜の客は礼を言い、別れの挨拶をする。

「今夜のもてなし重畳だ。有意義な時間だった」
「有意義?」
「そうだ」
「そっか」

 ソーラーLEDライトに照らされた小さなライムストーンの門柱の脇で、グウィンはユストの冷たく滑らかな手にそっと触れた。

「今夜は来てくれてありがとう。それから、ユストさん、これまでいろいろありがとう」
「どうしたんだ、いきなり……永の別れみたいだぞ」
「ここだとね、ありがとうって素直に言える気がするの。子どものときみたいに」
「私の知っているグウィンらしくない」
「……こっちが本当の私だよ」

 グウィンはユストの手に触れていた手がぐっと握りしめられ、強く引かれるのを感じた。

――あ……

「グウィン」

 ユストは痩せていつも血色が悪かったが、力は男のものだった。
 ごつごつと痩せた胸に、グウィンは抱き寄せられていた。

「いつ帰ってくる?」
「え?」
「イルディーズにはいつ帰って来るんだ」

 身体を強張らせて、グウィンは小さな上ずった声で答えた。

「もうすぐ、ここの賃借契約が切れるから……六日後には」
「そうか」

 本当のことを言えば、グウィンをここに一刻も留めておきたくない。
 ユストにはここは自分の愚かさと思い上がりが淀む淵のように感じられた。

「できるだけ早く戻れ」

 グウィンは不思議な甘い恐怖と、小さな灯を胸の内に感じながら言った。

「退居したら、すぐ戻るよ」
「片付けに人をよこそう」
「全部一人でやりたいの」

 ユストはグウィンの頭に頬を寄せ、そっと匂いを嗅いだ。
 彼は彼女の匂いが好きだった。
 もちろん、勢津や霧歌のバイタリティに満ちた健やかな匂いも愛していたが、グウィンのそばで彼女の立ち昇る体温を皮膚に感じると奇妙な気分になる。
 嗅覚が鋭敏なはずの人狼たちは、グウィンの匂いはそこらへんにいる人間と変わらないと言うが、ユストはそれが不思議でならない。
 特段フレグランスの類を使ってはいないとグウィンは言う。
 確かに、香料の匂いではない。
 生きている人間の温かな血の通う匂い。
 同種の雌性の生物が馥郁と咲いている匂い。
 それならそれで、数えきれないほど嗅いだことがある。
 でもグウィンの匂いはどこかが違った。
 柔らかい手で体中を撫でるような生々しさがある。
 嗅いでいると、この女は幸せにしてやらなければ、という思いとそこになぜかさびしさが混じってくる。
 何か、とても懐かしくて重要で、耐えられないほどくだらないことを思い出しそうになるのだが、それが何なのかよくわからなかった。
 少し考えれば答えはわかるのかもしれないが、目を向けるな、と彼の胸の奥で声がする。
 特にこんな不都合な夜には。

「グウィン、……この十二年間、いろいろあったな」
「……うん」
「あの日、君を撥ねてよかった」
「変なの」
「ふふ」

 ユストが小さく笑った。
 しかし面白くて笑った風ではない。
 グウィンはおずおずとユストの腰に腕を回そうとしたが、そっと腕を引っ込めた。
 分を弁えることが、使用人には大切だった。

「ねえ……もう、いいでしょ」

 迷惑そうに言ってみる。
 言いたくないことを、「自分らしさ」を守るために言わなければならないときもある。
 傷ついている可哀想で可愛くない自分を、彼は大事にしてくれる。
 ならば、ずっとずっと可哀想で可愛げなく生きていくのもいい。

「そうだな」

 彼はゆっくりと腕を解いた。

「おやすみ、グウィン」
「おやすみ、ユストさん」

 ユストは、振り向きもせずに帰って行った。
 すぐ近くの病院の門前に、彼のお気に入りの執事が迎えの車をよこしているという。
 グウィンは家の前の小道に立ち、喪に服しているような黒ずくめの男を見送った。
 遠ざかるその姿はすぐに宵闇に溶けていってしまう。

 魔法の時間は終わってしまった。

 彼女は庭の灯りを消し、空っぽになった家へ入った。
 やたらと自分の足音が大きく響くように感じられる。
 ソファに座って、来客がいたあたりを眺める。
 しつこいほどに薫っている伽羅の残り香を懐かしく嗅ぐ。

 なんとか首尾よくもてなせたと言っていいのではないか、と思いながら、静まった空気の中に身を置いていると、少し侘しい。

 一人になることが好きだと言いながら、この寂しさは何なのだろう。

 彼女はユストが触れた頬にそっと指先を当てた。
 両親の温かな手の思い出を、骨ばった男の手の感触がじわじわと上塗りしていく

 いつしか日付は変わり、ラジオの電波に乗って素っ気ない女の声が本日の放送を終了する旨と放送局名、チャンネル周波数の読み上げが聞こえる。
 スピーカーからざらざらとした砂嵐の音が流れ始めた。

                 <了>
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