第2話 地球

文字数 2,205文字

そんなマーセルが漂う宇宙から、四百キロメートル離れた昼過ぎのカフェ・テラス。
アルは、町ゆく人の流れを、一人で眺めていた。
誰が見ても優し気な三十二歳。すべてを拒まない男。家に鍵をかけない男。
ブロンドが2Cなかかりつけの女医から、余命三年を告げられた男である。

アルは、以前はよく、この店で親友のジャコモと時間を潰した。
無精髭のジャコモは、殆ど客のいない何でも屋。
アルより十歳は年上の筈だが、気を遣わせない男。アルの左腕に、十字架のタトゥーを入れさせた男である。
アルが飲むのはミネラル・ウォーター。ジャコモはアルの奢りでグースIPA。いつもそう。
彼と会わなくなって久しいが、アルはジャコモを近くに感じることがある。
何なら見えるし、話せる。
脳の異常は聞かないから、きっと病院で出された薬のせい。
すべての不思議は、本人にとっては嘘ではない。
死ぬまでに知る事実の一つである。

今日も隣りの椅子に突然浮かび上がったジャコモに、アルは短く話しかけた。
「この後、どうする。」
ジャコモの答えは相変わらずのカオス。
「隣りのトルコ人のアイス工場を襲う。」
トルコ人は住んでいるが、甘い香りはしないからドラッグの方。
どんな言葉も放っておけないのがアル。
「嘘だろう。」
ジャコモは一人で笑った。彼の視線は、常に女性を追っている。
「ああ嘘だ。お前はどうなんだ。何かしたいのか。」
アルは、いつかの悲劇を思い出した。ジャコモは、今と同じ言葉を口にしたのである。
「タトゥーの続きは入れない。」
用心が先走るアルに、ジャコモは苦笑いを見せた。
「どうして。風呂上がりに胸の傷を見るのが嫌だって言ったろ。」
「言ったけど、タトゥーは…。」
「左手から始めるから、壮大な計画に俺は感動したんだぜ。」
「いや、そもそも胸に全部はありえない。」
「その豆粒に何の意味がある。俺に言わせりゃ、それはカサブタだ。」
「お前に付き合ったんだ。まさか、お前が入れないとは思わないから。」
ジャコモは、やっと回り始めた会話を止めると、首を傾げた。
「お前は、人にタトゥー屋を紹介したら、必ずタトゥーを入れるか。」
「入れないね。」
「そうさ。俺はアイデアをやっただけだ。胸の傷を縫い合わせてる女の絵を彫れって。笑うだろう。」
「誰が笑うんだ。」
「誰がって。誰かいるだろう。」
「誰も見ないさ。」
「医者とかだ。皆で並んで、手術する時に笑うだろう。看護師まで皆だ。」
アルは主治医を思い出した。想像の中の彼女はグラマー。看護師も全員そう。
本当にやっても彼女は笑うだろうが、アルの人生の一頁としては最悪である。
一瞬、透けたジャコモは自由。
「次にどこを切るか悩むぜ。俺なら、女の絵の同じところを切る。テレビの中にテレビがあってみたいなあれだ。」
アルは、ジャコモから顔を逸らすと小さく微笑んだ。
「もう手術は受けないさ。」
「何で。」
「金がない。」
ジャコモは、気まずそうにビール瓶を眺めたが、二秒後には口に運んだ。
次の言葉が出たのはゲップの後。
「じゃあ、仕方ないな。」
「ああ、仕方ない。」
ジャコモは、遠慮の源を軽く手で押しのけた。
口を開くのは、やはりジャコモ。
「何かしけてるな。海でも行くか。」
アルは笑えない。
「傷を見せたくないんだ。」
「馬鹿か。傷を見せて、子犬の目で、道を行く女を見るんだ。気合いで白目をなくせ。」
「見て、どうする。」
「モテる。」
アルは小さく笑った。
「病人はモテない。将来性がない。」
「誰が先の心配をしろって言ったんだ。今日。今、モテるかどうかだ。」
大袈裟にジャコモが手を振ると、可笑しくなったアルは、空を見上げた。
見えるのは、呼吸が許されるスカイ・ブルーの空まで。
マーセルの姿は、二人には見えない。
「それはモテてるわけじゃない。」
アルの呟きに、ジャコモは顔をしかめた。
「知るかよ。とにかく、俺はそれでいい。可哀そうな病人を海に連れ出す優しい男になる。お前が歩けば、ギャラリーが出来る。皆が見てる前で、俺はお前に言うんだ。」
ジャコモは、両手を大きく広げた。
「最期の時間だ!お前が死んだら、あの海に流してやる!お前は永遠に波に揺られて、この地球を優しく包むんだ!」
絵を思い浮かべたアルは、確かな間違いに気付いた。
「灰にしてからな。」
ジャコモがアルの顔を二度見したのは、彼も今気付いたから。
「怒らないな。」
言った傍から、ジャコモの視線はまた別の女性を追っている。
口を開いたのは、燃える中年に胸焼けがしたアル。
「怒って、どうなる。」
「どうにでもなるさ。まず、俺が黙る。お前は俺に勝つんだ。お前が上で俺が下。そうやって、一つ一つが決まっていくんだろ。」
「別にどっちが上でもいいさ。」
「クソだな。お前、医者がカウント・ダウンしたら、人生終わったのか。三年だぞ。俺とお前とどっちが長生きするか、賭けるか。」
「お前だな。」
「ああ、俺だ。俺も俺に賭ける。怒れよ。」
「止めてくれ、疲れる。」
アルとの間に壁を感じたジャコモは、ビール瓶を持ち上げたが、テーブルに置いた。空だったのである。
「俺は、今日はモテたい気分だったんだ。」
ジャコモが静かに空気に溶けていくと、アルは小さく笑い、言葉だけ付き合った。
「それは俺もだよ。子供の時からずっとだ。」

アルには、彼の頭の中のジャコモにも言わない秘密が一つだけある。
それは生涯独身の誓い。
残される相手を想った。そのつもりである。
今のところ、無駄な心配だが、アルの一大決心である。
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