第1話 天空

文字数 2,364文字

ほんの少し前、確かめる様にゼロ気圧の世界に身を乗り出したのはマーセル。二十九歳、性別は女。
セミ・ロングのブルネットは、宇宙服の中である。

彼女が船体から手を離せないのは不安だから。
きっと、人間は、身を寄せる場所がないと、心の休まらない生き物なのである。
大地なのか、ベッドなのか。親なのか、恋人なのか。
どこかで、約束の場所を求めている。
頭の中もそう。
研究に生涯を捧げるレアな人生の理由は、多分、簡単である。
奇跡が溢れ続ける、この世の仕組みを知りたいだけ。
自分がどこで何をしているのかも知らずに死ぬ。
そんなことは、考える葦には耐えられないのである。

彼らの発見のせいで、この世の見え方は絶えず変わっていく。
それは、すべての発見が、次の発見のせいで嘘になるジレンマ。
真空に揺れるマーセルが、安心できる筈がないのである。

先を行くオーウェンは、マーセルの認識では彼女のロミオ。二歳年下で、性別は男。
小さくなっていくベーを見ながら、マーセルは、彼女だけの理論を思い返した。
きっかけは父親の冗談だったが、いつか彼女の頭の中でかたちになったもの。

つまり、こうである。
時間は空間のつながりで判断するのだから、真逆のことが起きれば、時間は逆転したことになる。
ここで、錬金術師のアイザックの出番。
作用・反作用を、最小単位のエネルギーのやり取りに当てはめる。
彼の頭脳が消滅した後に生まれたエネルギーを持ち出すのは、人の目に見えるかたちで存在を語るのが傲慢だから。
絶対軸も考えず、作用した時点からの変化だけを見る。
すると、時間は、絶対に進むと同時に戻っている。それが作用・反作用。
常に時間は二つの方向に進むのだから、すべての時間が起点。
教科書に書いてある“最初”に何かが揺らいだとしても、その後はそう。
時間の最初も最後も考える必要がない。
時間の矢は、目に見える範囲ですべてを語ろうとするから生まれる、一つの概念に過ぎないのである。

空間もそう。
始まりを語る時点で、空間は何かの一部。
人が謎に誘われるのは、それがすべてを包むと思うから。
絶対的な状態は考えず、動きだけで考える。
最小単位のエネルギーが移ろう瞬間、エネルギーの変化の合計は必ずゼロ。それが作用・反作用。
すべてを見ることができれば、無になる。ゆりかごの端はない。
存在は、何かの存在を認めると生じる無の片割れ。
有であって、無なので、空間の端を考える必要がない。
見えない動物もいる光を測っただけで空間を議論する理由は、もうないだろう。

つまり、この世の果ても最初も最後も、きれいに説明できる。
何が最小か断言できないから、永遠に数式はつくれないし、人間がいる以上、実験で証明することも出来ない。
宇宙にまで来た自分が言うのも何だが、皆の言うすべてが仮定の話。
尤もらしいだけなのである。

その時、ヘルメットの中に心地いい声が響いた。
「マーセル、聞こえる?」
聞こえなくはなかったが、マーセルは制御盤で音量を上げた。
優しい声。船内のジェシーである。年齢はマーセルより上。
「聞こえてるわ。」
「シック。」
ジェシーの返事は短い。
マーセルは、不意にオーウェンの姿を探した。
船体に縋るホワイトのスーツは遥か先。
その先はインディゴの世界。
天文学者がいくらベージュと言おうと、マーセルの目に見える色はそう。
やがて、オーウェンのヘルメットが、ゆっくりとこちらを向いた。

マーセルがオーウェンの姿を探したのには理由がある。
すべては、プリブリーズの前。
長い睫毛のジェシーの謎の講義のせいである。
宇宙遊泳時間で群を抜くジェシーは、二人が付き合っていると知ると、オーウェンに綺麗な笑顔を見せた。
一度、語り始めると、ジェシーは歌う様に喋り続ける。

「船外に出ると、君達にも、今までとは違う世界が見えてくる。私の場合は、引力が愛だと思える様になった。」
微笑む二人に、ジェシーは小さく眉を上げた。
「鳥や虫まで、ああも求め合うのは、単細胞生物の頃の名残だと思う。別れた雌雄が対になって、バランスをとろうとしてるんだ。」
目を閉じたジェシーは、指で壁を押すと静かに回り始めた。
「特別であって、特別でない感情。虫と植物をごらんよ。生きる早さ以外に違いが見つけられない。少なくとも、私には。」
ジェシーは、瞼を緩く開き、窓を指さした。
「故郷を見つけると郷土愛を感じる。皆、そうさ。あとは、香る海原に自然愛を感じれば、結論は出る。誰かが書き換えることを許すなら、すべての教科書は、愛を基準に書き換えられる。」

豚鼻を鳴らしたマーセルを、オーウェンは優しく肘で突いた。
「LG何だっけ。あれは?」
微笑んだジェシーは、透き通る様な瞳でオーウェンを見つめた。
「もしも愛が引力だったら、同じ種類の生き物の間だけの仕組みじゃない。他の生き物とのバランスを考えてごらん。大事な役目がある。増えすぎた人口を調整するトリガー。繁栄し過ぎた種の必然だよ。それは止められない。」
ジェシーは、壁に手を添えて、回る自分を止めた。
視線が合っているのか、いないのか。
ただ、確かに向き合う二人を見たマーセルは、心の中でミシシッピーを数え続けた。

そして、今。
オーウェンを眺めるマーセルに聞こえたのは、やはりジェシーの穏やかな声。
「頑張ろう。君なら出来る。」
「知ってるわ。よく見てて。」
マーセルの虚勢に言葉を被せたのは別の声。
「僕は出来ない方に賭ける。」
オーウェン。やっとである。肘で突きたいホワイトのスーツは遥か遠く。
置いて行かれたかもしれない。

バイタル・データは、すべてジェシーの元に届けられる。
ジェシーは、心拍数だけでマーセルの気持ちを語るに違いない。

船外作業の先は長い。
予定通りなら五時間。
マーセルは、オムツを使う自分が不意に恥ずかしくなると、静かに船体を押し、流されていくオーウェンの後を追った。
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