第1章  (1985-1986)

文字数 9,480文字

【1】 
初めて東京へ行ったのは、大学4回生の時である。東京都の教員採用試験を受験するために出かけたのだった。山陰で生まれ育ち、地元である島根大学に進学した自分にとって、生まれて初めての東京である。この時は、2泊3日のトンボ帰りだった。ただ、試験前日だけは受験会場の近くにホテルを取り、翌日は友達の下宿に泊まった。
 その時に泊まったホテルは、JR(当時国鉄)新宿駅の西口を下ったところにある「Kホテル」というホテルだった。現在も営業中だという。あれはまだ21歳の夏だった。もう30年以上前のことではないか。予備知識の全くないままに出向いた東京である。パソコンもスマホも、ネットもメールも一切なかった、1980年代半ばのことである。
 その時のエピソードとして、今でも印象に残っている出来事がある。Kホテルは「新宿駅西口より徒歩*分」とあったので、まずは新宿駅を目指し、そこで下車した。その時、たまたま新宿駅の南口に出た。目の前には「南口」と書かれた大きな掲示が見えている。「ここが南口ということは、右手側が西口だ。」そう考えて左方向へ歩いてみたものの、どこを見ても西口という出口や表示がない。変だ。おかしい。何故ないのか。そう思いながら南口構内をぐるぐると散々歩き回ったのち、そこにいた人に尋ねて分かったことは、西口は全く別の方角-いったんホームを下って、何百メートルも別方向へ歩いたところにあるのだという。道理で、いくら探しても見つからなかった筈である。
 これが自分の東京第一歩であった。西口、東口、南口が全く別のところにある。電車の路線が山ほどあり、それらがひっきりなしに往来発着している。人の量が全然違う。これが東京か・・・。
 翌日が採用試験であった。会場は日本大学の文理学部キャンパス。ここで一次試験が実施されるのである。新宿に宿泊したのは、どこへいくにも新宿が一番好都合だと聞いたからだった。地元の旅行会社でそう教えてもらったのだと思う。前述のホテルもおそらくそこで紹介されたのだと思うが、これらは全く記憶にない。また、試験の内容もほとんど覚えていない。
 試験が終わった日は、東京の大学に通っている友人の下宿に泊めてもらった。小学校時代からの親友である。中央線の東小金井駅から歩いて数分のところにある下宿だった。ただ、この時彼は既に帰省していたため、鍵だけ事前に借りていて、部屋を使わせてもらった。防犯上の理由からか、彼のサイクリング車が室内に入れてあり、部屋が窮屈だった。試験が終わってすぐ東京駅へ向かえば、その日のうちに地元に戻ることもやってやれないことはなかった筈である。おそらく、さすがに少しはのんびりしたかったのだろう。
 ただ、のんびりと言っても、観光らしい観光は一切しなかった。時間がなかったのか、それとも2次試験を受けにきっと帰ってくるという誓いを立てる意味だったのか。これもまた、今となってははっきり覚えていない。
 唯一の例外として、神田の古書街だけは行っておきたいと思い、出かけたことは覚えている。もっとも、「神田」の古書街というくらいだから、神田駅で下車すれば着けるだろうという程度の判断だった。ところが、行ってみたものの古書街らしいものは全く見当たらない。ここでも右往左往しているうちに時間が足りなくなり、結局辿り着けないまま東京を離れることになった。「神田の古書街」は、JRなら水道橋駅、地下鉄なら神保町が最寄り駅であることを知ったのは、地元に帰ってからのことだった。唯一出向こうと思った場所が、神田の古書街。そして、そこに辿り着けなかった・・・いずれも、大学時代の自分らしい一コマである。

【2】
 数週間後、1次試験結果の通知が来た。合格だった。2次試験を受けに、再び東京へ行けることになったのである。その知らせを受け取ったのは、盆の墓参りで田舎の親戚へ行っていた時だった。これもまた、はっきりと記憶している。弟から電話があった。「東京都の教員採用試験の結果が来てるよ。”G”だって。」との連絡だった。”G”とは”合格”を意味する略号である。電話が終わると、喜びのあまり外へ駆け出した。そして、右手を突き上げながら山々の周りを走り回った。何でそんなことをしたのか分からない。嬉しくて、じっとしていられなかったのだろう。これでまた、東京へ行ける。1次試験に受かったら、今度は1か月ほど東京滞在することをあらかじめ決めていた。その計画の実現が確定した瞬間だった。夏の夕暮れが近づく薄暮の中、腕を突き上げながら子供のように田舎道を走り回る自分の姿は、今思えば本当に懐かしい。全てはあの瞬間に始まったのである。
 東京都の教員採用試験の2次試験は2回設定されていた。9月の頭に英語面接、9月の終わりに日本語面接である。この時から、2次試験に英語面接が実施されていたのだった。さすが東京都である。会場は、前者が都立三田高校で後者が石神井高校だったこともよく覚えている。
 常識的に考えると、東京へ2往復するのが普通であろう。しかし、自分はこの時、そうはしなかった。まるまる1ヶ月、東京で過ごしてみようと思い立ったのである。幸い、大学の卒業必修単位は既に全て取っている。この機を利用して、1ヶ月間東京巡りをしようという計画だった。それというのも、当時の私には東京およびその近郊に親戚や友人がたくさんいた。その人達を転々と回っていれば、1ヶ月くらいは過ごせると考えたのである。
 この時、自分が設定していたテーマは、次のようなものであった。「東京では、一人でも多くの人に会い、一つでも多くの場所を訪れ、一つでも多くのことを考えて帰ろう」-今しかできないこと、ここでしかできないことを常に最優先に過ごす1か月にしようということである。妥当な発想だったと思う。
 そして、実行。果たしてその通りとなった。延べで34泊35日。その内訳は、友人宅に16泊、親戚が18泊。ホテル泊は一度もなく、宿泊費は一切かからなかった。それどころか、行った先の親戚から小遣いまでもらったこともある。時代はバブル景気が始まる1年以上前のことで、優雅な東京暮らしとはとても言えなかったが、今思い返しても素晴らしい1ヶ月だった。一般企業への就職を全く考えなかった自分には、大学4回生の時にありがちな、つらい就職活動の記憶など何もない。出かける先々で可愛がってもらい、楽しく過ごした東京での思い出しかなかった。新宿、渋谷、秋葉原・・・。上野、お茶の水、吉祥寺・・。出かけた場所は枚挙にいとまがない。毎日どこかへ出かけていた。その中には、今ではなくなってしまった場所も少なからずある。思い出すままに幾つか列挙してみると、例えば以下の通りである。

 つくば万博-ちょうどこの年、「科学万博 つくば'85」が開催されていた。東京から電車で1時間ほどだという。せっかくの機会なので行ってみようと思い、出かけることにした。ウイークデーの真ん中を選び、始発電車に乗るべく早起きして出発したのである。ところが、電車は満員で座ることができず、道中立ちっぱなしだった。ウイークデーの始発電車が満員とは・・・。これが東京なのである。疲れた割には腹は立たず、人の多さにあらためて感心する一日となった。万博だけでなく、その道中も楽しかった。帰り際、ゲートを出る前には何度も振り返り、会場に向かって手を振った。
 日本武道館-このホールの名を冠した「武道館コンサート」「武道館ライブ」などの言葉をよく聞く。レコードやビデオ(当時)もたくさん発売されている。ここでコンサートを開くのは、ミュージシャンにとって大きなステータスなのである。東京にいる間に、是非行ってみたかった場所の一つだった。ちょうど好きなアメリカ人ミュージシャンが来日していて、聴きに行くことにした。会場に着いてみると・・・広い。1万人収容できるという。米子市や松江市全人口の10分の1を収容できるということではないか。館内には「南東」「南西」などの表示があった。そうでもしないと迷子になってしまうからだろう。コンサートだけでなく、その前後を含めた全てが素晴らしい思い出となっている。「チケットぴあ」でチケットを予約する時点から、既にコンサートの高揚感は始まっていた。こんな予約システムなども、地元にはないものだった。
 後楽園球場-プロ野球の観戦もまた、東京にいる間にやりたかったことの一つであった。山陰にはプロ野球の球団などない。チケットを手に入れ、後楽園球場(当時)へ巨人×横浜戦を見に行った。球場に近づくにつれて、たくさんの人がユニフォーム姿で球場へと向かっている。この人達についていけば、球場に着けるだろう。歩いていると、道の両脇ではグッズの販売が随所で行われていて、食べ物や飲み物の屋台もたくさん出ている。中には、ダフ屋と思われる連中までが大声で堂々とチケットを売っている姿もあった。スタンドに入り、試合が始まると、人々は野次を飛ばしながら、或いは飲んだり食べたりしながら野球観戦を楽しんでいる。試合そのものもさることながら、大きなスタジアムに集まり、応援する人々の熱気にも圧倒された。試合だけでなく、その前後を含めた全てが楽しかった。テレビでの試合観戦とは全くの別物だった。
 大公園-小金井市には、小金井公園という大きな公園があった。木々や芝生、小鳥や小動物などでいっぱいの、自然豊かな公園だった。小高い丘もあった。秋が近いせいか、赤とんぼの大群にも出会ったことがある。この公園に限らず、電車の車窓から見ていると、東京には大きな公園も木々の緑も随所にたくさんあった。「東京に空がない」なんて大嘘である。
 ハチ公前-友人と待ち合わせをする際、「渋谷駅のハチ公前で」と指定され、出かけたことがあった。何でも、定番の待ち合わせ場所だという。行ってみると、人待ち顔で立っている人が何十人もいるではないか。今回は面識のある友人同士だからよいが、初対面の待ち合わせではとても出会えないだろう。これが東京の待ち合わせ場所なのか。
 電車-「○○駅から○○線に乗って、○○駅で下車。○○線に乗り換えて、○○駅で下車」-このような言葉は、地元ではあまり耳にすることがない。路線自体がないのである。東京には、山手線、中央線、京王線・・・。東西線、丸ノ内線、半蔵門線・・・一体、全部でいくつの路線があるのだろうか。いくつの駅があるのだろうか。その一つ一つの駅にドラマがある。駅巡りをするだけで、軽く1年はかかってしまいそうである。一度などは夜遅くまで出かけていて、深夜近くになってから定宿の友人宅へ向かったことがあった。しかし、終電近くだというのに街には人がごった返していた。また、駅周辺も駅構内も電車内も満員である。そして、こんな時間になっても、電車は結構頻繁に往来している。そこには、夜遅くまで人々の熱気が充満している街の姿があった。
 ざっと拾い上げただけでも上記の通りである。一つ一つの思い出を辿っているときりがない。しかし、どこが印象的だったのかをあらためて考えてみると、それは特定の場所やイベントではなく、街全体であった。思い出すのは、ある時は渋谷のスクランブル交差点を行き交う人の波であり、ある時は小金井の閑静な街並みであり、またある時は新宿の高層ビルから見た美しい夜景であった。思い出す風景は、日によって様々に変わる。そして、結局はそれらの集合体である東京という大都市に魅かれたのである。東京の全てが自分の中で思い出となっていた。全体が大きな宝箱のような街である。

【3】
 その東京を離れたのは、9月終わりのことだった。付け加えると、帰途には名古屋と大阪にも友人や親戚を3件頼って立ち寄り、最終的に松江の下宿へ戻ったのが10/3である。終わってみれば8月下旬から10月上旬までの長きにわたって、転々と人の家に滞在したのであった。訪ねた親戚および友達は、親戚6件、友人6人で、合計で12件にものぼる。まだケータイもスマホもなかった時代に、よくこれだけの長期間、たくさんの人と予定を調整して、出会う段取りまで取り付けたものである。
 東京で暮らした8月の終わりから10月のはじめまでは、最高の1ヶ月だった。あまりにも楽しく、刺激的で、素晴らしい街、東京。出発当初は「大学時代の思い出に、1ヶ月ほど滞在してみよう」というくらいの気持ちだった。しかし、実際にひと月暮らした今、もはや「楽しい1ヶ月の思い出」では終わらなくなった。「この街で、ずっと暮らしたい」-そう思い始めたのである。東京を離れる頃には、この決心は既に固まっていた。
 松江に戻ってからの数週間は、楽しかった東京の余韻の中で日々を過ごした。帰着した翌日は、朝から晩まで丸一日かけて、出会った人達への礼状を書いた。パソコンはおろか、まだワープロもなかった時代である。全て手書きで、便箋に書いて投函した。しばらくすると、彼らから返事が届き始めた。下宿に戻ってみると、東京およびその近郊から手紙が届いている-これも楽しみの一つだった。東京が蘇ってくる瞬間であった。

【4】
 ところがそんなある日、地元である鳥取県の県教委から教員採用試験結果が届いた。東京から帰って1か月半ほど過ぎた、11月中旬のことであった。開封してみると、1次試験に合格したとあるではないか。そして、封筒には2週間後に行われる2次試験の案内が同封されていた。
 私は東京都だけでなく、地元の採用試験も受験していた。当初はそちらが本命だった。それにも1次合格したのである。この日を境に、空気が一変することとなった。「自分は結局、山陰から出ることはできないのかもしれない」-そんな不安が急遽沸き立ち始め、居ても立っても居られない焦燥感の中で過ごすことになるのである。
 山陰は、落ち着いたいい土地柄である。鳥取も島根も、美しい山や海があり、人情味の溢れる素晴らしい故郷である。山陰で生まれ育った自分が、地元の大学へ行き、地元で教員になる-それが当たり前だと漠然と思っていたが、あの1か月を経験してからはその思いに揺らぎが出てきた。地元への思いは急速に薄らいでゆき、入れ違うようにして東京への思いが急浮上してきたのだった。
 高校3年生の時、大学を選ぶ際に「東京へ行きたい」「東京の大学へ行きたい」と話している友達が何人かいた。そんなことは二の次ではないかと当時は思っていたが、今なら彼らの気持ちがよく分かる。かつて彼らに来ていた波が、4年遅れて自分にもやってきたのである。
 そして、その少し後、今度は東京都から2次試験の結果が来た。鳥取県1次合格通知が届いた約一週間後のことであった。あの9月、2度にわたって行われた面接試験の結果が来たのである。仮にここで不合格なら、この時点で東京は終わる。はさみを持つ手がぶるぶると震えていた。かれこれ30年以上前のことになるが、今でも鮮明に覚えている。読み終えた直後、安堵のため後ろに倒れこんでしまったこともよく覚えている。通知には-「採用候補名簿Bに登載されることになりました」と記されていた。「名簿B」とは、簡単に言えば補欠合格のことである。
 とりあえず、これで結論は来春まで持ち越しとなった。少なくとも、不合格ではなかったのである。しかし、正式な合格でもなかった。合格と不合格の中間という、微妙な立ち位置だった。このB名簿に声がかかるのは、2月下旬から3月下旬とのことである。2月上旬、A名簿である正式採用者に連絡が始まり、そこで欠員が生じた場合にのみ、B名簿の者に声がかかるということだろう。欠員が生じるかどうかは分からない。また、その際には名簿の上から順に連絡していくのだろうが、自分がB名簿のどのあたりに位置しているのかも不明である。全ては、早ければ2月下旬、遅ければ3月下旬まで分からない。
 一方、地元である鳥取県のほうは、2次試験の合格発表が2月の予定となっていた。合格発表自体が、今から3ヶ月ほど先である。当時はこんな時期まで結果発表を引っ張っていたのだった。
 仮に地元が合格で、東京から補欠のオファーが来なければ、諦めもつく。さすがに、鳥取の正式合格を蹴ってまで東京で就職浪人するわけにはいかない。しかし、地元が合格で、かつ東京からも補欠のオファーがくれば、一体どうすればよいだろうか。ハムレット並みの葛藤に揺れることになる。どちらかに断りの連絡をしなければならないのである。同時に、これは自分だけの問題では済まなくなる。
 一方、地元が不合格で、かつ東京から補欠のオファーが来れば・・・。ある意味、これが一番すっきりする。何のてらいもなく、東京で教員をやることができるのである。理想的な形である。
 では、地元も不合格で、かつ東京からも何のオファーも来なければ・・・。その時は、1年間講師をせざるを得ない。では、東京と山陰、どちらで講師をすることになるのか。両県に講師登録して、あとはどちらが先に電話をかけてくるかである。このケースになれば、2月下旬以降はおちおち外出もできなくなる。
 上記の通り、様々に思いを巡らせていた。積んでは崩し、積んでは崩していくなかで毎日が過ぎていった。秋から春にかけての約半年間は、一つ一つの連絡に一喜一憂した、人生の分岐点とも言える時期であった。自分がこの後、どこで一生を過ごすかが決まる。それも、自分で決めるのではなく人が決めるのである。あとは、地元の試験結果と東京の補欠オファーがどう出るか。全ては3月に決まるのである。
 この頃は、不気味な夢をよく見た。例えば、人けのない山奥の細い一本道を、自分一人が自転車に乗って走っている夢を見たことがあった。「これは道に迷うかもしれない。」「いや、もう迷っているかもしれない。」そう思いながら、ますます先へ先へと進んでいく。どうしよう、どうしようと思いながら、やがて夢は流れていった。またある時は、1本のマストのようなものにつかまりながら、いつの間にか空高く舞い上がっている夢だった。しかも、かなりのスピードで走っている。「この手は、絶対に放してはいけない。」「放せば死ぬ。」そう思いながら、更にどんどん高く昇っていった。そして、夢は流れていった。恐らく、当時の不安定な精神状態が夢となって形を表したのであろう。

【5】
 そして、年度末。鳥取から通知が届いた。記録によれば、2/18のことだったとある。結果は・・・合格だった。一方、東京からの補欠オファーは遂に来なかった。これにより、地元で教員として採用されることが確定した。東京で暮らす夢はついえた。山陰在住の人生を生きることになったのである。オファーがなかった以上、東京都に断りの連絡をする必要もなかった。
 鳥取県の教員採用も、極めて狭き門である。実際、たくさんの受験者を不合格にする中で、私を正式採用してくれたのである。また、私を補欠扱いにした県もあれば、不合格にした県もあった中で、鳥取県は合格にしてくれたのである。意気に感じ、誠心誠意精進して、本県で立派な教員にならなければならない。これは本心である。
 しかし、東京の1次試験や2次試験の結果を知った時に、自分が反射的にどう感じたか。一方、鳥取の1次合格の結果を知った時にはどうだったか。この両者が両極端であったことを考えると、心境は複雑なものがあった。
 「あの東京を、思い出の中に閉じ込めることができるだろうか。」「たとえ理詰めで無理やり押し込めたとしても、身体を流れている血はいつまでも聞き分けのない駄々をこね続けるだろう」-あの頃の日記を紐解くと、上記のように書いてある。これは今振り返っても、的を射た記述であった。
 思い起こせば、大学3回生も終わりに近づいた春休みの3月。企業への就職を全く考えていなかったこともあり、教員採用試験の準備をすることにした。書店へ行き、採用試験の対策本を買って来て勉強を始めたのである。しかし、あの時に買ったのは鳥取県用の対策本ではなく、東京都用のそれであった。その本は今でも実家の本棚にある。東京へまだ一度も出かけていなかった時期であるにもかかわらず、わざわざ本まで買ったということは、あの頃から既に憧れに近い感情を抱いていたことになる。

【6】
 上記の決定を受け、三月には再び東京へ出向いた。自分の中で「再訪-revisit-」と銘打って、夏に訪れた数々の場所や人を再び訪ねたのである。最も長期間滞在させてもらった東小金井の友人の下宿を真っ先に訪れたが、部屋に入った瞬間にあの夏の記憶が鮮やかに蘇ってきた。春まだ浅い時期だったにもかかわらず「夏のにおいがする」と感じて、その言葉をそのままアルバムのコメントに綴った。この年、三度にわたって訪れた東京-そのゆく先々で撮った写真を一冊のアルバムにまとめていたが、そのアルバムのタイトルを「のちの思いに -for the sentiment afterwards-」とした。そして、この再訪をもって、この年の東京の記録が終わるのである。
 当時よく聞いていたオフコースの曲「YES-YES-YES」に、「消えないうちに 愛を預けておく」「切ない時には 開けてみればいい」といった歌詞がある。この歌の通り、今後東京を思い出して切なくなった時には、このアルバムを開けてみればいい。そうすれば、あの楽しかった東京の日々がいつでもそこにある。東京では、行く先々で精力的に写真を撮っていたが、もしかするとこのような日が来ることを予感していたのかもしれない。しかし、一番いいのは切なくならないことである。東京在住になれば、アルバムを開いて懐かしむ必要自体がなくなる。それに越したことはないではないか。あの夏の一か月は、1冊のアルバムなどには到底収まり切れるものではない。
 「もし人生をやり直せるとすれば、いつに戻って何をやり直したいか」という問いかけがなされることがある。歴史に「もし」「たら」「れば」は禁句だというが、それを承知で敢えて人生を振り返ってみると・・・。自分には「あの時に戻ってやり直したい」という場面はない。
 もちろん、思う通りにならなかったことは山ほどある。上記、大学4回生時の進路決定は、その最たるものであった。しかし、「やり直したいこと」ではない。自分としてはベストを尽くした結果であり、行動や判断のミスをしたわけではない。それどころか、一つ一つの選択そのものは今思い返しても全て正しいものばかりだった。仮に時間が逆戻りして、同じ状況で同じ場面に再び遭遇したとしても、やはり同じ選択をするだろうと思うことばかりである。置かれた状況の下で一生懸命考え、悩み、努力した結果である。後悔は何一つない。
 お別れを言いに来た東京も、あと少しで終わろうとしている。未練は尽きないが、間もなくこの大きな街ともお別れである。そして、四月からは地元で、社会人としての第一歩を踏み出すのである。
 サヨナラ、東京。また必ず来る。その時は、またいい笑顔で会おうな。

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