稽古場

文字数 2,190文字

賢一

 振り返ったエリカにいきなり肩をどつかれた。後ろにあったパイプ椅子に足が引っかかり、俺は無様に床に尻もちをついた。

 「あなたは、私の人生を生きてきたんですか?」
 「えっ…」
 「今度同じこと言ったら、つぶしてやる!」

 エリカの長い足の靴底が俺の股間を狙っている。

 マジかよ…
 俺は両手で股間を押さえた。それを見たエリカは、足を下すと、冷ややかな視線を外して背を向けた。その瞬間、エリカの背中に向かって、なんと俺は叫んでいた。

 「俺と付き合ってくれっ!!

 間があったか、なかったか、背を向けたままのエリカから返事が返って来た。

 「ことわる」

 稽古場を静寂が支配し、エリカは自分の荷物を掴むと、静かに部屋を出て行った。


涼介

 発足二年目の弱小演劇サークルが、文化祭前に十分なスペースのある稽古場をゲットするのは至難の業だ。だが、せめて上演一週間前には、上演舞台と同等のスペースが取れる稽古場が欲しい。最後の交渉に、代表の賢一と副代表の俺だけではなく、メンバー全員で臨もうと提案したのは俺だ。実行委員で部屋割り担当の同級生が、きれいな女の子に甘いのを、俺は知っていた。だから、今回の公演の主演であるエリカを前面に立たせた。つまり、確信犯だ。

 エリカは決して媚を売るようなことはしないタイプだ。だが、モデル体型の美女であることは隠しようがない。エリカを前にした実行委員の同級生は、前回の交渉時とは180度違う態度で、俺たちが望むような部屋を割り当ててくれた。

 賢一は憮然とした表情をしていた。仕方ない、彼は、告白こそしていないがエリカを好きなのだ。でも、ここは少し大人になろうよ、と俺は思っていた。だが、賢一の鬱屈した感情は最悪の形で曝露された。その日の稽古で、不機嫌な賢一は演出でダメ出しを続け、あげくの果てに暴言を吐いた。

 「いいよな女の子は。かわいけりゃ世の中思い通り、みんな言いなりじゃん」

 おぉい、何てこと言い出すんだ、賢一。それは、セクハラ発言に順当するぞ!と、思ったら、エリカが素晴らしい瞬発力で賢一をどついていた。エリカのドスのきいたおどし文句に、女子はニヤッと、男子はヒヤッとしていた。そして、そこへ、まさかの最悪のシチュエーションでの告白と失恋。完全にフリーズした稽古場で俺自身も固まったが、隣に立っていた東雲(しののめ)まゆみにシャーペンの頭で腕を軽くつつかれて我に返った。

 「先輩、エリカが帰っちゃたから、今日の稽古は終わりにした方がいいんじゃないですか?」
 「そ、そうだね。明日、みんな来るかな…!?
 「来ます。エリカも来ます。だから、集合時間、ちゃんと伝えてください」

 エリカと中高一緒で、今年二人でサークルに入ってくれた東雲は、制作助手という名の雑用係を引き受けてくれたしっかり者だ。俺は言われた通りにした。

 賢一は、座ったまま立ち上がれないでいる。そりゃあそうだ。


まゆみ

 エリカ、ことわる、ってはっきり言っていいの?
 そりゃあ、賢一先輩の告白は最悪のショチュエーションだったけれど。でも、そもそも分厚く積み上がったサークル勧誘のチラシの中から、この演劇サークルを選んだのは、チラシを渡してきた賢一先輩を気に入ったからじゃないの?

 賢一先輩を庇うわけではないけれど、私だって、あの実行委員のエリカを見る目つきにはむかついた。あの視線にエリカが絶えたおかげで稽古場が借りられたわけだから、好きな人を犠牲にしたみたいで、それで賢一先輩は不機嫌になったあげく、あんな風にゆがんだ言動をしちゃったんだろうな。
 でも、私はそれをエリカには伝えない。中高一貫の女子校時代から魅力的なエリカの周りには男子が現れては消えて行った。これで、賢一先輩も消えた。ずっと一緒にいるのは私だけでいい。
 長身ですらっとしたエリカと、小柄でふっくら体型の私は女子校で名物コンビだった。大学も学部もエリカに合わせたし、サークルも一緒に入った。私は舞台に立つなんて無理だけれど、幸い他にも役に立てる仕事はあった。制作助手という名の雑用係でも、エリカを舞台の上で輝かせるためなら、私は何でもする。

 だから、賢一先輩の失言で、この、エリカの初主演舞台を中止にするわけにはいかない。私は制作の涼介先輩をつついた。

 「エリカが帰っちゃたから、今日の稽古は終わりにした方がいいんじゃないですか?」
 「そ、そうだね。明日、みんな来るかな…!?
 「来ます。エリカも来ます。だから、集合時間、ちゃんと伝えてください」

 涼介先輩は頷くと、見事に何事もなかったような声を張り上げた。

 「よーし、みんな、今日はここでおわりにしよう。明日もいつもの時間集合で、よろしくな!」
 
 うん、制作はこのぐらいずうずうしくないとね。いかにも感受性が強そうな賢一先輩と良いコンビだと思う。

 「東雲、この後少し残ってくれるか?宣伝のやり方について打ち合わせたいことがあるんだけど」

 了解です!
 アイデアが豊富な涼介先輩が、どんな仕掛けを考えているのか、聞くのが楽しみだ。実は、稽古場を借りるための作戦も聞いていた。思った以上に露骨な反応に賢一先輩が過剰反応しちゃったのは失敗だったけれど、申し訳ないが、私にとっては悪くない結果になった。
 いつか、エリカが恋人を作る日が来るのは覚悟しているけれど、今日でなければ良い…今日でなければ。

 
 
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