第11話 たった一つの約束

文字数 3,042文字

 夜風に舞い散る、無数の青い花びら。月明かりに照らされた乱舞は、少し早い雪のようにも見える。
 美しい光景だ。しかしそれだけとも言えないのは、曝け出した首や頬に感じる冷気のせいだ。
 山から吹き下ろす風は冷たく、慣れている俺は平気だが、そうでない者にとっては凍えるほどの寒さだろう。
 だが、今彼女を震えさせているのは山風などではなく、心をひたひたと浸す孤独感に違いなかった。

「お父さんっ、お母さんっ……、淋しいよぉ、帰りたいよぉ……!」

 魂が震えるような叫びと、必死に押し殺した慟哭とが俺の胸を衝く。そのまま心を粉々に砕き、体まで千々になってもおかしくないくらいの衝撃で、俺は思わずぐらりと傾いだ。

 ミナトが帰りたがっているだなんて、想像もしていなかった。
 思えばそんな当たり前のことをどうしてと不思議だが、俺は本当に、この時になるまでミナトの郷愁に一毫も気付きやしなかったのだ。
 なんと薄情な男か。

 ミナトはぐずぐずと何度も洟をすすり、溢れ出る涙を無限に拭っている様子だった。その頼りなげな小さな肩を、力任せに抱きしめたいという衝動に駆られる。一方で、そんなことをして何になる、と冷静な頭が待ったをかける。そんな慰め、同情、気休め――なんだっていいが、俺がすべきは衝動に身を任せることではないだろう、と。

 どうしたら安心してもらえる?
 監禁から解放しただけでは駄目だった?
 どこまでしたら助けたことになる?

 難問が「さあ答えろ」と言わんばかりに俺の脳ミソを急き立ててくる。俺の脳はまるで獣に追い立てられるかのように走り出したが、空回りするばかりで全然役に立ちそうにない。
 こんなにも自分に失望したのは生まれて初めてだ。この十八年、失敗に苛立ったり、己の未熟さにがっかりしたことは多々あれど、今ならどれも鼻で笑い飛ばせる。どうやったって、彼女が感じている絶望には届かないのだ。
 無力で惨めで情けなくて、反吐が出る。

「ミナト……」

 カラカラに掠れた、変な声が出た。
 俺の存在を察知していなかったミナトは、恐る恐る振り返る。その黒い瞳が涙に濡れているのを見て、俺はまたもや衝動を抑え込まなければならなかった。
 足が一歩、前に出た。
 ミナトの肩がびくりと震える。
 ああ、やはりそうか。俺が怖いんだな。
 それでもいい。これからはなるべく怖がらせないようにする。だから、そんな顔をしないでほしい。

 俺は一度目を瞑り、覚悟を決めてから再びミナトを見据えた。
 ミナトも、俺が何かを言おうとしていることは察しているのだろう。ただ黙ってこちらを待っている。テーブル越しではない真っ直ぐな眼差しが、俺を勇気づけているとも知らずに。

「……不審者がいると思ってわざわざ降りてみれば。こんな薄ら寒いところでグズグズ泣く奴があるか。これからもっと寒くなるんだ。そのうち顔面が凍りつくぞ」

 本当に言いたいことは横に置き、わざと無神経な言い方をすれば、ミナトははっと気付いたように慌てて両腕で顔を拭った。俺の言葉を真に受けたのか、泣き顔を見られたくなかったのか。
 擦って赤くなった目で俺を見上げる仕草はこんな時でも可愛らしく、胸がうずく。

「ど、どうして……」
「夜風に当たっていたら、偶然怪しい人影が視界に映ったんだ。だから確かめに来た。それだけだ」

 その言葉は半分嘘だ。本当は、ミナトだとすぐに気付いた。ミナトだと分かったら、居ても立っても居られなかった。しかし、そんなことはおくびにも出さない。この執着は絶対引かれる。

「お前が泣いていたのは、帰りたいからか。そんなにここは嫌か」

 ミナトは暗い顔で俯く。俺の言葉を否定も肯定もしない。彼女だって、自分ではどうしようもないことくらい分かっている。ここに留まるしかない現状を理解している。だからこそ、こんなところで一人泣いていたのだろう。
 俺は意を決して近づくと、急な接近にたじろぐ彼女に向けて手を翳した。
 咄嗟に怯え、身を竦めるミナト。
 俺は少し迷ったが、結局、ぽんと軽く彼女の頭に手をのせた。黒目がちの大きな瞳が驚きに見開かれ、内心ガチガチだった俺の緊張をゆるやかに解いていく。

「俺が――俺が、必ずお前を家に帰してやる。何年かかろうとも、もう一度家族に合わせてやる。だから、せめてそれまでは泣くな。一人で泣くな。どうせなら俺のいるところで泣け。いや、俺が嫌ならティティたちでもいい。あいつらは人間じゃないし、お前が傷つくようなことは決してしない。だから安心だ。分かったな?」

 安心。その言葉のなんと空虚なことだろう。もちろん嘘にするつもりはないが、現時点で信じてくれなんて頼んでも無駄だと分かっている。しかし俺にはそう言うしか、彼女の味方であると証明する手立てがない。
 ミナトはしばらく目を開いたまま固まっていたが、ややあって空気に喘ぐように口を開いた。

「きゅ、急にそんなこと言われても……」
「帰りたくないのか?」
「帰りたいです! 帰りたいです今すぐにでも! ……でも…………帰れないん、でしょう?」

 ぶわり、と透明な涙が膜を張ったかと思えば、ぼろぼろと瞼から零れ落ちてゆく。零れても、零れても降り続ける大粒の涙に、俺の心臓は悲鳴をあげる寸前だった。
 ――可哀想に。誰かから聞いていたんだな。帰るすべはない、と。
 それは、ある点では正しい。
 老魔術師が行ったのは異世界から対象物を呼び寄せる術であって、こちらから異世界に移動させる術ではない。後者の術は研究もしていなかったのだろうと思う。その無責任さも、俺があの実験に反対する理由の一つだった。ただし人道的観点というよりも、危険な生物が召喚された場合の危機回避のためだったが――あの時は、まさか人間が召喚されるなど想像だにしていなかったのだ。
 ともあれ、元の世界に帰還する方法は、今のところない。
 だが俺だって魔術師だ。稀代の才子と呼ばれるほどの力を持っている。その自負は伊達ではなく、このまま何もしないでいるつもりもなかった。

 俺はミナトの頭にのせていた手で彼女の肩を掴み、濡れそぼっても美しさを隠せていない瞳を覗き込んだ。

「案ずるな、俺は一流の魔術師だ。あんなヨボヨボの爺にできて俺にできないことはない。奴には不可能でも、俺なら可能だ。時間はかかるだろうが、必ずやり遂げてみせる。だから」

 ああ、決意よりも固い意志を、なんと言えばいいのだろう。
 宣誓? 闘志? 雄心?
 違うな。
 そう――――。

「――約束だ。信じろ。俺は死んでも約束を守る」
「…………」

 黒い目がだんだんと落ち着きを取り戻してく。彼女の心が俺の方へと傾いてくるのが、直感で分かった。

 俺は約束を交わしたことがない。
 あれはするな、これをしてくれと言われることはあっても、自分から制約を作ろうなどとは思わなかった。約束とは、不確実な言葉で相手のことも自分のことも縛る行為だと信じていたのだ。それが嫌だった。いや、今もそう思っている。
 ゆえに、今こそ約束が必要だ。
 約束によって、ミナトを拘束できる時間は制限される。
 具体的には、彼女が元の世界に帰るまで。その時が来れば、俺とミナトは約束という制限から解放される。
 強制的に。
 そうでなければ、鎖を握る手を離せそうにないのだ。
 俺は、彼女をいつまでも異世界(ここ)に繋ぎ止める邪魔者にはなりたくなかった。

 悲しみに染まった顔などもう見たくない。
 俺はミナトの笑顔が見たい。
 それが始まりで――――(つい)の願いだった。
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