第1話

文字数 2,449文字

 その虫が最初に見えたのは、ある曇り空の午後だった。
 安楽椅子での微睡から目覚めたものの、まだ頭は覚醒しきっていなかった。いつの間にか腿の上から滑り落ちた本を探して、拾い上げる。眠りに落ちる直前に呼んでいた箇所を探してページを繰ると、一匹の黒い甲虫が本の間に見えた。

「ひうぁ」

 悲鳴にならない変な言葉を発して、本を取り落とした。一気に目が覚めた。
 音を立てて落ちた本から、黒くて、丸っこくて、つやつや光るヤツが這い出て来た。どうしよう、と思っている間に、開いた窓から飛び出していった。

 やれやれ、と本を拾い上げる。と、再び数匹の虫が這い出て来た。驚きで、本を放り投げた。が、虫は消えていた。

「え……」

 今見えたのは何だったのだろう、と不思議に思ったが、疲れているのだろうと、その時は気にしなかった。

 しかし、虫はそれ以降も現れた。主に本の間から。

 私は文筆家だ。本や雑誌、ウェブサイトに掲載される文章を書くと同時に、資料や解説の元本として自身も本を読む。読まねば仕事にならない。しかし、本を開けば、必ず虫が現れた。

 私は、仕事を少し休むことにした。編集者たちに頭を下げ、もともとそう多くはなかった仕事を全て断った。

 しかし、それ以降も私の生活は虫に侵され続けた。それは、非道くなる一方だった。

 パソコンに向かっていれば、モニタ上の活字が虫に化けた。

 あるいは、食べていた菓子の上にふりかけられたゴマ粒が黒い甲虫に変化し、動き出した。

 紅茶を淹れようと、茶葉の袋を開けたら、中には茶色い小型の芋虫が蠢いていた。

 最悪だったのは、シャワー中だ。壁やドアに付いた全ての水滴が虫に変化した。さらに、シャワーヘッドから落ちる水滴まで、全て。
 私は悲鳴を上げて風呂場を飛び出し、体についた水滴――その時は虫に見えた――を払い落とした。その後、一人暮らしでよかったとつくづく思った。こんなひどい有様は、家人にも見せられない。

 私は、精神科を訪れた。それが本当の虫ではないことに、自分でも気づいていたから。
 医師は、私の話を聞いて、安定剤の服用と合わせて、継続的なカウンセリングを行いましょう、と言った。

 医師は、穏やかな口調で淡々と質問した。
「その、最初に虫が見えた時に読んでいた本は?」

「小説です。あまり好きではないのですが……」

 医師は、眉を少し上げて問い返した。

「好きではないのに読んでいたんですか?」
「ええ……」

 私は、その作家についての説明を始めた。
 彼は、かつては売れていたが、数年前に出版社ともめ事を起こして以来、業界から干されているという評判が立っていた。以来、SNSで過激な発言を繰り返しては、ネットで話題になっている。その発言内容を見れば、言い分としては自分の考えに近く、むしろよくぞ言ってくれた、と溜飲が下がる思いすらする。
 しかし、彼が書いた小説はさほど面白いとは思えない。
 人としては好きだが、書くものが好きかどうかは別、ということだ。文芸は残酷だ。

 しかし、私はこの作家の本を一冊だけ買った。あの日は、それを読んでいたのだ。そして、あの黒くて、丸っこくて、つやつや光るヤツが這い出て来たのだ。

 医師は、その作家と私の関係について、根掘り葉掘り聞いた。
 彼とは直接の面識はなく、様々な噂も、編集者から人づてに聞いたものや、彼のSNS上でのやり取りなどを垣間見ただけだ。 
 だから、彼の本来の人柄など、知っているわけではない。

 では、なぜわざわざ好みでもない彼の本を買ったのか――。医師に問われても、自分でもはっきりした答えは出せない。
 ただ、彼の言い分に共感したから、としか言えない。

 しかし、カウンセリングの回を重ねるごとに、だんだんと自分の中の曖昧な想いは、徐々に形を見せ始めた。

 彼が出版社ともめ事を起こした顛末――それは、業界への告発ともいえるものだった。ある有名作家の書いた小説への批評で、『昨今のライトノベルと称する若年層向け小説の、性の認知の歪みは目に余るものがある。女子高生を拾う、娼婦にする、同棲する――細かい部分のパターンは違えと、性的な搾取に合理性や必然性を持たせるようなコンテンツを垂れ流し、歪んだ性欲を正当化するようなものは、文芸ではなく悪趣味なポルノである』

 ――まったく、その通りだと思った。

 自分自身が抱いていた、出版業界への不信を、はっきりと言葉にしてくれたのは、彼だけだ。
 ロリコンのコンテンツを大々的に広めることが正しいことなのか? 気持ち悪い。あたかも、可哀そうな女の子を性的搾取の対象にするのは悪いことです、と告発するような体裁だけを取り繕い、実際はその描写をポルノとして楽しんでいるだけの悪趣味な有害コンテンツだ。彼が書いた内容は、私が常々抱いていた出版業界への怒りと同じものだった。

 ただ、自分の立場上、それを言うことはできない。物書きなど、余程の大家でない限り、ただの出版社の下請けだ。版元の不興を買えば、あっという間に干上がってしまうのは目に見えている。中年を過ぎ、転職に生かせる資格もキャリアもなく、物を書く場を奪われたら、それこそ貧困まっしぐらだ。
 それ故に、それでも声を上げた彼を、私は尊敬していた。だからこそ、一冊でも本を買って、わずかでも、彼を支えようと考えたのだ。

 あれは、何度目のカウンセリングの時だったろう? 医師は言った。

「その黒い虫は、あなた自身かもしれませんね」

 そうだ、言いたいことが言えない私自身だ。私は、自分で自分が赦せないのだ。正しいことを、言えない自分を。

 医師のその言葉を聞いて後、黒い甲虫や茶色の芋虫は消えた。

 しかし、今度は白い虫が見えた。芋虫だ。真っ白い芋虫。うねうねと動くこともせず、ただじっとしている。私はそいつにナイフを突き立てた。

 気付くと、腕から血が出ていた。包帯を巻いた上から。

 手首から肘にかけて、腕にきっちりと巻きあげられた真っ白い包帯が、均等な節を持つ真っ白な芋虫だった。

(了)
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