ブラームスの咆哮

文字数 1,999文字

「よぉ、ヨハネス。新曲の方はどうだい?」
 声を掛けてから首を傾げた。彼の前に広がっていたのが五線譜ではなく原稿用紙だったからだ。
 苛立った様子で、トトトトン、トトトトンと指先でテーブルを叩くヨハネスの言葉に、私は耳を疑った。
「音楽から足を洗うことにした。僕は小説家になる」
「は? またか。いいかげんにベートォ」
「言うな、ヨゼフ。何度も言ってるだろう。あの方の名は、僕たちのような卑しい人間が軽々しく口にしてはいけないんだ。必要がある時はLBと呼べ」
「卑下するのは勝手だが、俺まで卑しい人間扱いをするな」
 宮廷楽団のヴァイオリニストである私と作曲家のヨハネスは、共通の知人を介して知り合い、意気投合した。彼の方が2つ年下だが、今ではすっかりタメ口だ。気にしてはいない。彼の才能の前では、年の差など問題にはならないからだ。
 作曲に行き詰まった時のヨハネスは、いつもこうだ。小説家になるなどというのはいつにも増して荒唐無稽だが、場末のバーで昼間から管を巻く。ただし、下戸の彼が飲んでいるのは酒ではなく珈琲だ。場違いな焦げた香りが鼻を突く。
 一旦テーブルを離れ、カウンタで店主にビールを注文した。
「あいつに言ってくれ。珈琲一杯で何時間も粘られたんじゃ、商売あがったりだってよ」
「すまないな。私が2本貰うから、勘弁してやってくれ」
 私はビールの小瓶を2本持ち、ヨハネスのいるテーブルに戻った。
 これまで室内楽や歌曲を中心に成功を収めているヨハネスだが、交響曲は未完のままだ。交響曲第1番に着手してから10年以上の歳月が経っているのに、だ。
 原因は明確だ。彼がLBことルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを崇拝し過ぎているせいだ。LBの残した9つの交響曲はヒマラヤ山脈よりも高く目の前に(そび)え立ち、それを超えることはできずとも、少なくとも肩を並べ得る作品でなければ、世に送り出す価値などないと思い込んでいるのだ。
「どんな小説を書くつもりなんだ?」
「タイムスリップ物だ。先人の偉業に心を打ち砕かれた駆け出しの作曲家が過去に飛び、その偉大な作曲家を殺して、自分がその地位に入れ替わる。が、自分もまた過去からやって来た後輩に殺される——それを繰り返すという物語だ」
 クソつまらなさそうだ。
「おまえ、小説でもLBに(とら)われたまんまじゃないか」
 そう指摘すると、彼は頭を掻き毟るようにしながら叫んだ。うぉーっというその雄叫びの息が切れると、今度はテーブルの原稿用紙の上に突っ伏した。
「大丈夫か?」
 彼はPP(ピアニシモ)がいくつも並んだかのような弱々しい声で呟く。
「……僕には何かを生み出す力なんてないんだ」
「そんなことはない。おまえは十分に成功しているじゃないか。あのドイツ・レクイエムだって」
「あれは、ロベルトの死が——彼の魂が僕に乗り移って書かせたんだ。僕の力じゃない」
 ロベルト・シューマンは彼に最も大きな影響を与えた音楽家の一人だろう。シューマンの妻、クララと彼の仲を勘繰る噂が駆け巡ったこともあったが、シューマンを敬愛してやまなかった彼がそんな不義理をするはずがない。
 テーブルの上が乱れたせいで、原稿用紙の下に五線譜が見えた。
「何だ、曲も書いているじゃないか」
「こんなものは、クソだ」
 破り捨てようとするのを慌てて奪い取る。丁寧に皺を伸ばして重ねた。
 表題にはSymphony No.1とあるが、ピアノ用の未完の楽譜だ。
「少しは進展しているのか——」
 不用意に譜面に目を落とし、音符を追い始めた矢先、私は音楽の激流に(さら)われた。
 な、何だっ、これはっ?!
 オーケストレーションされていないはずの音符たちが、様々な楽器の音色を伴い、頭の中で咆哮と化す。
 そして、時折鳴り響く、聴き馴染みのあるリズム——タタタタン、タタタタン——LBの交響曲第5番で繰り返される、世界で最も有名な4つの音。あの動機が、まるでもがき苦しむヨハネスの断末魔の叫びのように、何度も現れては(やいば)のように突き刺さる。
「馬鹿野郎っ!」
 私は周囲の目も忘れて怒鳴っていた。
「くだらない小説なんか書いてる場合じゃない。とっととこれを完成させろ。この曲は、——この曲は——、」
 きっと楽聖の魂にも届くはずだ。
「その苦い珈琲で目を覚ませ!」

 *

 楽聖ベートーヴェンを崇拝したヨハネス・ブラームスの交響曲第1番は、構想から20年以上を経た1876年に初演。評判は芳しくなかったが、大幅な改稿を経て、1878年ブラームス自身の指揮で披露し、成功を収めた。完成に至るまで、クララ・シューマンをはじめ、多くの知人から助言を得たという。第一楽章には、かの「運命の動機」が至る所に散りばめられている。

 ヨゼフ・ヨアヒムは、ブラームスの音楽活動に多大な影響を与えた友人として知られる。一時期、ブラームスと自分の妻との仲にヨアヒムが嫉妬したことで不仲となるが、後に和解している。


  了
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