第11話

文字数 4,318文字

 次の日、家のすぐ近くまで帰ってくると、めずらしく話し声が聞こえた。
 日中だってめったに人が歩いていないくらい静かなところなのに、誰だろう、と思った。十字路まで出ると、秋兄(あきにい)が見えた。秋兄の家の前で、こちら側に背を向けた誰かと、話をしていた。
 肩より少し長い、栗色のウェーブの髪―それは間違いなく、女の人だった。秋兄の表情や笑っている雰囲気から、たぶん、かなり親しい間柄のように思えた。秋兄の家の前を通らない限り、私は自分の家に帰れない。すっかりタイミングを失ってどうしようかとまごまごしていると、秋兄が私に気づいた。
「夏生、おかえり」
 秋兄は右手を挙げて、いつもの調子で私を呼んだ。私はなんだか決まりが悪くて、早くその場を通り過ぎたかった。秋兄を適当にあしらいながら、早足で二人のところまで近づいた。
その時、女の人が私の方を振り向いた。私はびっくりした。びっくりするぐらい、綺麗な人だった。
 派手さはないけれど整った顔立ちで、大きな瞳が印象的だった。化粧もすごく自然で、可憐な印象を引き立てていた。そして、白いワンピースに、淡いオレンジ色のカーディガンを羽織っている姿はどこからみても品がよく、ふんわりとした彼女の柔らかな雰囲気にとてもよく似合っていた。その辺の芸能人なんかよりよっぽど綺麗だと思った。
「こんにちは」
 その人は軽く会釈をして、私に挨拶をした。
「あ、こんにちは」
 彼女も、私のことを不思議に思っているに違いなかった。笑顔の中に、少し戸惑ったような表情が見えた。
「妹さん?」
「いや、幼なじみなんだ。昔から家族ぐるみのつき合いで、両親同士もすごく仲が良くて。夏生、こちらは俺と同じ大学の芹川さん」
芹川春美(せりかわはるみ)です。よろしくね」
「芹川さんは学部が一緒なんだけど、試験前なんかは、よくお世話になっちゃって」
「だっていつも部活を頑張ってるもんね」
 頭を掻いた秋兄の方をちらりと見て、芹川さんはふっとほほえんだ。
 二人の会話の様子を見ながら、私はなんだか早く立ち退いた方がいいような気がした。二人はさっきまで深刻な話をしていた風はないし、たぶん他愛ない話をしていたように
思うのだけど、それでも、私がここにいるのは違うような気がしたからだ。
「可愛い制服ね」
 気が付くと、芹川さんが私を見ていたので、どきりとしてしまった。
「え、ああ、ありがとうございます」
「俺の通ってた高校と同じなんだ。ちょうど俺が入学する年から制服が変わって。女子はけっこう評判いいんだよ」
「へえ。私はセーラー服だったから。今じゃどこもブレザーの方が多いでしょ?羨ましかったのよ」
「女子はともかく、俺、ブレザーってあんまり好きじゃないんだよなあ」
「へえ、どうして?」
 私は、秋兄のこの言葉の続きを、なぜかとても聴きたくなかった。胸に秘めていた大切なことが、ぼろぼろと崩れてゆくような、そんな気がして、ぎゅっと目をつむった。
「だって、サラリーマンみたいじゃん。どうせ社会に出てから嫌っていうほど着るんだしさ。似合う奴はいいけど、俺には似合わないと思ったんだ。だから高校も、学ランのところ選んだんだけど―タイミング悪いよな。俺らの代から、変わっちゃったんだ」
「そうだったの?橋本くんらしいわね」
 いいかげん、本当に帰りたくなってきた。
「あ、そろそろ電車の時間じゃないっけ」
 秋兄は腕時計を見て言った。
「あ―そうね。ちょっと早いけど、駅まで少し距離があるから、もう出発した方がいいのかも」
「俺、送って行くよ。準備してくるから、ちょっと待ってて」
「え、悪いわよ、そんな」
「平気平気」
 言うなり、秋兄は家に入ろうと出した足を、器用に踏みとどめた。
「夏生」
 私は顔を上げた。
「帰ったら勉強見てやるからな」
 秋兄の顔は、私の方にだけまっすぐに向けられていた。咄嗟に言葉が出て来なくて、秋兄を見送るしかできなかった。
 秋兄の姿が消え、芹川さんと二人になると、自ずと帰るに帰れなくなってしまった。そうかといって、このまま沈黙しているのは息が詰まるし、会話をするにしたって何を話せばいいのかわからない。どうしよう。すると彼女の方が声を発した。
「橋本くん、勉強までみてくれるんだ」
 しかし最初の一声は、私に対してというより、ひとり言のように彼女の真上に消えていくようだった。
「はあ・・・」
「夏生ちゃん、だっけ。今、何年生なの?」
「高三です」
「そっか、受験生。これから追い込みの時期だね」
「はい」
「県外に出るつもりなの?」
「それは・・・まだわかんないです。だけど、とりあえず国公立を目指すつもりなので、センター試験の出来によっては、そうなるかもしれないです」
 言ってから、そういえばまだ親に何も話をしてないな、と思った。やらないといけないことが、ここにもあった。気が重い。
「国公立かあ。大変だと思うけど、頑張ってね。体調管理とかも気を付けないとだめよ。これから寒くなるし」
「はい」
 それから芹川さんは、受験のときに縁起が良かったものとか、眠気をなんとかする方法とかをいくつか教えてくれた。おっとりしていて、だけどしゃべってみるととても気さくで、笑うと少し幼く見えた。たった二つしか違わないのに、私もあと二年したらこんな風になれるのだろうか。なれるわけがない。元が違うのに。
「あの、今日はどうしてこの街に来たんですか」
 少し雰囲気が砕けた感じがして、私は思い切って尋ねてみた。
「母方の祖父母の家が、この街の隣の市にあるの。お盆休みは用事があって顔を見せに行けなかったから、この一週間、祖父母の家に行ってたの。それで、前に橋本くんに実家が近くだって聞いてたから、ちょっと寄ってみようかなって思って。実は数日前にも来たんだけどね、散々迷った挙げ句にようやくたどり着いたと思ったら、橋本くん、おうちにいなくって。うまくいかないものね」
 芹川さんは一言ひとこと、言葉を選ぶようにしながら話した。それを聞きながら、私は母親の話を思い出した。母親が言っていた「すごく綺麗な女の子」というのは、きっとこの芹川さんに間違いない。そうすると、彼女が秋兄をわざわざ尋ねてきた理由は、母の推測したとおり、もしかして―鼓動が、急に速くなる。
「橋本くん、地元に可愛い幼なじみがいるんだって、よく話してくれてたの。それって夏生ちゃんのことだったのね」
 芹川さんは不意に秋兄の家の方を見た。横顔もやっぱり見とれるほど綺麗だったけれど、どことなく寂しそうにも思えた。
「悪口とか言ってなかったですか」
「あら、どうして?」
「私、けっこうひねくれてるし、秋兄には口も悪いから」
「まさか。橋本くん、夏生ちゃんのことが可愛くて仕方ないみたいな口振りなのよ。本当のお兄ちゃん、ううん、それ以上に夏生ちゃんのこと思ってるんじゃないかな。私も一人っ子だったから、羨ましいなって思いながら、いつも聞いていたの」
 ―いつも?
 私は少しずつ、変な感じがしてきた。そうさせるものはいったい何なのだろうと思うのと同時に、口が先に開いてしまった。
「あの、もしかして」
「うん?」
「秋兄と・・・つき合ってるんですか」
 私の言葉を聞いて、芹川さんは一瞬、止まった。大きな目が、もっと大きく見開かれたまま、瞬きもせず、一時停止の画像のようになった。
「そんな風に見える?」
「え、まあ・・・」
 目が合って、芹川さんはまた柔らかく笑った。だけど、その笑顔はさっきまでのものとは、明らかに違うものだった。
「そうなんだ。まだ―」
「え?」
「ほんとはね」
 芹川さんは少しうつむいてからもう一度顔を上げて言った。
「もう終わってるのよ。夏休み前に」
 私は何も言えずに突っ立っているしかできなかった。いろんな衝撃で、金縛りにあったみたいに動けなかった。芹川さんは、小さくつぶやいた。
「でもそれは、私のせいかもしれないわね―」
「おまたせ」
 ようやく準備を整えて出てきた秋兄の声で、その場の時間が、やっと動き始めたような気がした。
「あれ、夏生、帰ってなかったんだ」
「私の相手をしてくれてたのよ」
「そうなんだ。あ、変なこと吹き込んでないだろな」
 秋兄が、誰に向かってしゃべっているのか、わからない。私の頭は、ぼんやりしていた。
「そんな心配しなくても大丈夫よ」
「ほんとに?」
「ほんと」
 芹川さんはふふっと笑った。
「じゃあ行こうか」
「うん。またね、夏生ちゃん」
 そして、最初と同じ柔らかい笑顔で言うと、その場を静かに去って行った。
私は、二人の後ろ姿が見えなくなっても、その場に立ちつくしていた。

―もう終わってるのよ。

 終わっているという事実は、つまり別れたということで、それはつき合っていたという事実がないと成り立たない。そんな話、初めて聞いた。
「ふうん。そうだったんだ・・・」
 知らないことがあっても、それがこの先増えたとしても、そんなの当たり前だと思っていた。だいたい自分以外の他人のことを全部知るなんて物理的に無理だし、全部知りたいと思うこと自体、傲慢極まりないことだ。私は、秋兄の家の門になっているレンガの壁に、寄っかかった。
 だけど、止まらない。そして、次々に浮かんでくる考えは、一切まとまろうとせず、頭の中をぐるぐると回り続ける。
 二人はどのように出会ったのだろう。どちらが先に惹かれて、どんな風にその距離を縮めて、いつからつき合い始めたのだろう。どこに出かけたんだろう。どれだけ、一緒の時間を過ごしたんだろう。
知らなかったことを知るというのは、同時に、もっとたくさんの知らないことを次々に引き寄せる。
 私は、少し思い違いをしていたのかもしれない。
 秋兄が何も変わっていなかったことにほっとして、これからもそうなんだって、勝手に思いこんでいたのかもしれない。本当は何も知らないくせに、自分の都合のいいところだけを見て何も変わっていないと信じて、そしてこれからの秋兄にもそれを求めていたのだとしたら―なんておめでたい人間なんだろう。
 秋兄が中三の時、志望校をうちの高校に決めたあの時、周りが納得しなかったあの時。弁解していた文句と違う答えを、私にだけくれたのだと思ってた。
 馬鹿みたい。あんなの、きっとあれから他の誰にでも言ったに決まってる。それなのに、どうしてそんな風に思ってしまったのだろう。
 この間花火をした夜に聴いた話だって、わからない。教師になろうと思っているって、「内緒な」って、秋兄はそう言ったけれど―芹川さんはとっくに知っている話かもしれない。
 秋兄はずるい。いや、違う。私がどうかしているだけだ。そうじゃなかったら、こんな気持ちになるはずがない。今までの私だったら。
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