第9話

文字数 6,237文字

 その年、野球部が創立されて以来、準決勝まで地区予選の駒を進めるという偉業が成し遂げられた。
 例年なら地区予選も一回戦を勝ち抜ければいい方で、甲子園なんて夢のまた夢。片田舎の高校で、部員の数もぎりぎり試合に出られるほどしかいなかったし、実力も当然こじんまりとしていたのは、もう仕方がなかった。
 それが、準決勝まで三回も勝った。もちろん、なにかしらの運もあったとはと思う。その年の大会では県内の実力校が早々と姿を消すといった事態も起こっていたから。
 商業施設も何もない小さな田舎の学校だったから、保護者とか、地域の人達はみんなして大騒ぎだった。そして彼らのほとんどが、思っていた。一連の活躍の立役者、それは橋本 秋良(はしもと あきら)だと。
 秋兄(あきにい)の活躍はめざましかった。四番バッターとして毎試合のように打点をあげてきっちり仕事をした。そうかと思えば、押さえのピッチャーも出来て、リリーフとしても何度も役目を果たし、チームの勝利に貢献した。  
 特に前の準々決勝が劇的だった。
 二点差を追っていた九回裏。秋兄は特大のサヨナラホームランを打ち、逆転勝ちを修めたのだ。応援に来ていた人達のボルテージは、いよいよ最高潮に達した。駅前の商店街には、うちの高校の野球部を応援する垂れ幕がかけられた。
 地域版の紙面にも、秋兄の活躍は大々的に取り上げられた。破った相手が、甲子園に何度も出場したことのある常連校だったことも、大きかった。うちの母親は、たしか切り抜いてスクラップにしているはずだ。
 だから、みんな期待した。
 準決勝のあの試合。
 最終回、得点はわずか一点差だった。
 相手チームは、ピッチャーを代えた。二年生のようだった。うちの高校は打順良く、一番からの攻撃だった。
 初球。少しインコース気味のストライク。
 二球目。今度は低め。ストライク。手が出かった。
 相手ピッチャーの立ち上がりを攻めたいところではあったが、最終回のこのタイミングを任されて出てきただけあって、度胸は据わっていた。球速はまずまずだったけれど、コントロールが良かった。三球目も、中いっぱいのところを振らされて、三振となった。次の二人目も、同じように翻弄されて、塁には出られなかった。
「ここまでかぁ」
「この辺で運も尽きたな」
「でもまあ、よくやったよな」
 ツーアウト、ランナーなし。後ろの席から、ため息をつく声がちらほら聞こえてきた。
 私は観客席にいた。本当は来たかったわけじゃなかったけれど、親に引っぱられてしぶしぶ来ることになった。日曜日くらい、ゆっくり寝ていたかったのに。
 わあっという歓声に、私はグラウンドを見た。三人目の打者が、ヒットを打って、一塁に出たところだった。
 ツーアウト、ランナー一塁。点差はわずか一点。
 相手ピッチャーの元へ、キャッチャーが駆け寄った。そして次々に内野手、外野手が集まってゆく。落ち着け、とか、何としても踏ん張れ、とでも声をかけているのだろう。
「どうなるのかしら」
「実力は互角だからな。あとは気持ちの勝負だろう」
 隣の両親が、顔はまっすぐグラウンドに向けたままつぶやいた。私は、さすがにここまでじゃないかと思っていた。目線をバッターボックスから少し外した瞬間、見覚えのある背中が見えた。背番号七。
 それは、まさにネクストバッターズサークルから打席に向かおうとしている、秋兄だった。そう、一発出れば逆転サヨナラという大事な場面に、秋兄はまた立つのだった。秋兄の姿に気がついた人達から、口々に期待のこもった応援が飛んだ。
「もしかしたら、また、もしかするかも」
「打て―、橋本」
「頑張れー」
 一球目。ボール。ストライクゾーンギリギリで、外れた。
 二球目も、ボール。相手ピッチャーもかなり緊張しているようだった。前の試合での秋兄の活躍を知っていたのかもしれない。すかさずキャッチャーが駆け寄って、ぽんぽん、と肩を叩いた。
 三球目。ストライク。今度はキレのあるいい球が、気持ちのいい音を立てて、キャッチャーのグローブに収まった。
 四球目。ファウル。秋兄はバットの先にかろうじて当てた形になった。
 緊張感が、観客席、そしておそらくそれ以上にグラウンドをも、包んでいた。一球一球、みんなが息を飲んで見守っていた。
 そして、五球目だった。
 カキーン。
 狭い市民球場を切り裂くように、大きな音を響かせながら、ボールは高く高く上がった。観客席からは、一際大きな声援があがる。みんなが、同じ方向を、同じものを目で追った。そして、その白球は―
 吸い込まれた。
 空にではなく、相手の野手の、グローブの中に。
 審判が、アウトを唱えた。外野フライだった。
 奇跡にも似た快進撃は、そこまでだった。
「よくやったぞー」
「お疲れさまー」
 創部以来の、奇跡のような快進撃の終焉を、みんなは温かく労った。拍手がいっぱい起こった。秋兄は立ちつくしたまま、空を見上げていた。

「最後の地区大会、自分達もびっくりするくらい勝ち進んでいったから、嬉しさ半分、戸惑い半分だったなあ」
 秋兄の声がすぐ隣から聞こえて、私ははっとした。
「少しでも長く野球をして引退したいって思いはあったよ。だけど自分達の実力はちゃんとわかってたから、みんなだいたいの目星はついてた。地区大会ももっと早くに終わるだろうって」
「・・・うん」
「俺は引退したら、すぐ受験勉強を始めようと思ってた。猛勉強しなきゃ、遅れてるぶん、取り戻せないと思って。だけど、予想外に引退が延びたのと、周りの目が変わったのと、それから」
「それから?」
「推薦入試の話が来た」
「びっくりした、ほんと。もちろん、ちょっとは嬉しかったけど、でもどうしようかと思った。俺は野球を続ける気、なかったから」
「じゃあどうして?」
「うーん・・・そう言われると、ちょっと痛いところなんだけど」
 秋兄は何かを決心したかのように、ひとつ咳払いをして、また口を開いた。
「結局は流されちゃったんだな」
「流された?」
「ずっと前から野球はもうやらないって決めてた。それなら、そう言って断れば良かったんだ。そうだろ?周りがどんなに望んでいても」
 秋兄に、スポーツ推薦の話がきているのだということを、私はたしか母親から聞いた。その情報源はもちろん秋兄のおばさんだったから、それはたしかなことで、うちの両親でさえ大喜びでかなりの盛り上がりっぷりだった。先生達だって、きっと前向きに検討するよう、秋兄に薦めただろう。うちの高校に大学から野球でスポーツ推薦の誘いが来るなんて、前代未聞のことだったのだから。
「結局は俺、逃げたんだ。楽な方に。表向きは期待に沿うかたちで、周りに薦められるまま。受験勉強は、ちょっと手をつけただけで、それが厳しいことがわかった。長い道のりだし、かなり頑張らなきゃいけないなって。それで、揺れ始めた。確実に大学に行ける選択肢が自分の前にあるなら、そしてそれが、望まれていることでもあるならって―」
 遠くを見ながらぽつりぽつりと話す秋兄の表情は、気のせいか少し陰っているように見えた。
「野球はやっぱりおもしろいな。辞めなくて良かったって思うこともあったよ。でも、高校までやってたのとは、もう全然違う。俺なんてもともと実力があったわけでもないし、まして辞める気でいたくらいだったから、周りの奴らとのレベルが全然違うのにも戸惑った。どうしたらいいのかわかんなくなっちゃって、俺の選択は間違ってたのかもしれないなって、ちょっと後悔した」
「え?」
 秋兄の口から後悔という言葉が出てきて、私は思わず秋兄の方を見た。秋兄も私の方を見ていた。
「ごめんな。俺、夏生に言ったよな。後悔するなって。でもそんな偉そうなこと言える立場じゃなかったんだ」
 秋兄は力無く笑った。私はどうしていいのかわからなくて、何も言わず、そのまま次の言葉を待った。
「それでも、野球で入った以上は、野球を続けなきゃいけない。高校の信用にもかかわるし。それに、卒業するためには、単位を取らなきゃいけない。講義に出て、勉強もして、試験をパスして―一年間、なんとかそういう生活を続けてきて、やっと最近慣れてきた気はするんだ。だけど、何もすることがない夜とか、何も手に着かないときとか―ふっと思うんだ。俺、何がしたいんだろう。どうなっちゃうんだろうって」
 前にもその言葉を聞いたことがある。ちょうど同じこの場所で、後悔をするなと言った秋兄。大学が決まったって聞いた、その帰り道。独り言のようにつぶやいた秋兄の声を、私は聞き漏らさなかった。
 あのときから、秋兄は迷っていたのだろうか。覚悟を決めて推薦を受けたにしても、それが実際に決まった進路として現実になった瞬間、これでよかったんだろうかと、迷っていたのだろうか。そして、そんな気持ちを納得させるかのように、私に言ってくれたのだろうか。まるで自分にも言い聞かせるかのように。
「でも、今は違う。俺は後悔なんてしてないよ」
 ベンチのすぐ側にある電灯が、心もとない光を灯している。わずかな光に照らされた秋兄の顔は、いつものように明るかった。秋兄の笑った顔は、太陽みたいにまぶしいのだと、いつか佳奈子が言っていたのを思い出す。たしかに秋兄はいつも目立つ存在だったし、そうかもしれない。でも、秋兄には、それとは少し違った明るさがあることを私は知っている。それは太陽とは正反対に、静かで穏やかで、見ている人を安心させる。夜の暗闇の中、月の光がその心細さを少しだけ楽にしてくれるように、秋兄の表情はいつも優しい。
「俺さ、めずらしくぼーっとしてて、講義がある教室、間違えちゃったことがあったんだ」
「めずらしく?」
「なんだよ。いつもじゃないぞ」
「どうだか」
「たしかミクロ経済の講義だったはずなのに、黒板には『道徳の必要性』って文字が大きく書かれててさ。あれって思ったよ。さすがに、ミクロやマクロ云々に道徳はないよなって」 
「そりゃそうでしょ」
「ほんとはすぐにそこを出て、正しい教室に行かなきゃいけなかったんだ。出席もとる授業だったし。だけど、その教授がしゃべってることが、なんか意外とおもしろくて、結局その時間中、ずっと講義聴いちゃったんだ」
「ふうん。秋兄らしいね」
「俺、その講義を聴きながら、いろんなことを考えた。自分自身が中学生で、授業を受ける立場だった頃は、道徳ってあんまり好きじゃなかったなって思った。そんなこと思ってるうちに、どんどん懐かしくなってきてさ。数学の先生が好きだったなあとか、給食の時間が楽しかったなあとか。野球を始めたのもあの頃で、毎日部活に明け暮れて―」
 何かのきっかけで、一人の人生が大きく変わってしまうことさえある。そんな話を、私は聴いたことがある。秋兄にとってはその偶然が大きな転機となったのかもしれない。
「俺、過去にこだわる方じゃないんだけどさ、急にあの頃は良かったなあって思ったんだ。あの頃はまだ可能性がいっぱいあって、やろうと思えば何でも、何度でも挑戦できる。何をしたっていい。失敗はいくらでも取り戻せる。なんて恵まれた、ありがたい時期なんだろうって」
 秋兄の顔が、まっすぐ前を向いている。その瞳は、公園に植えられている目の前の木々ではなく、まっすぐ、たしかな未来を見据えている。
「教えてやりたいって思った。今までの、たった十数年しか生きていなくて、それだけがすべての彼らに、気づかせてやりたいんだ。自分達がいるのは、自分自身の可能性をいくらでも広げられる、二度とない時期なんだぞって」
「それって」
「うん。教師になるってところまでは決めたわけじゃないけど、とりあえず教職課程をとって、教員免許を目指してみようかなって思ってる」
「そっか」
「まだ誰にも話してないから、内緒な」
「・・・うん」
 誰にも話していない、という秋兄の言葉が、やけに私の胸をくすぐった。妙な気持ち。そのうち秋兄は他にも誰かに相談したりするに決まっているのに、なんてことないのに―むずがゆかった。
「だから、近いうちに野球も辞めることになると思う。そのときは監督や部員のみんな、それから高校の先生にも、ちゃんと事情を話さなきゃいけないとは思ってるけど」
「そっか・・・でも、真剣に話せばきっとわかってくれるよ」
 私は、秋兄が先生になっているのを想像した。自分の未来と違って、それはとてもイメージしやすかった。そして、教鞭をとっている秋兄はとても似合っていた。
「なんか話が脱線しちゃったけど、つまりだな」
 秋兄は改まった調子でし切り直すように言った。私は、すっかり冷めてしまったココアを一口飲んだ。
「とりあえず、大学には行った方がいい。だから頑張れ。俺だってなんとかやっていけてるんだから」
「どうだろうね」
 秋兄の言うことはたいてい正しいけれど、今回ばかりはなかなか納得できない。私と秋兄は、根本的に違う人間なのだから。
「まだ学生でいたいからとか、もっと遊びたいからとかさ、そんな理由で大学に来てる人間もたくさんいるよ。だから夏生が大学に行く意味をちゃんと考えてるのって、それだけで俺はいいことだと思う。それに、進学して何も得るものがないってことは絶対にないよ。いろんな人と出会うことだってできるし、刺激も受けるしね。もし何も見つからなかったと思うことになっても、就職するときに選択肢の幅は断然広がるし」
 街灯の灯りが一段と弱々しくなって、秋兄の顔がぼんやりとしか見えなくなった。声だけが、静かな公園に響きわたってゆく。
「受験勉強はしんどいかもしれないけど、一生懸命自分を追い込んで頑張ることって、絶対にマイナスになんてならないと思う。ま、俺が言うのは、お門違いなんだけどね」
 秋兄は穏やかな口調で一通り話し終えると、空っぽになった缶を自分の隣に置き、両手を頭の後ろで組んだ。私は何だか圧倒されてしまっていて、何も返す言葉が浮かばなかった。
「夏生なら大丈夫。約束な」
 夜は、見たくないものを見なくてすむ。だけど、見えないものが全部見たくないものだというわけではない。秋兄は笑っている。暗くてよく見えないけれど、きっとすごくやわらかい顔で笑っているに違いない。
 どうしてだろう。秋兄が言うと、そうかもしれないと錯覚してしまう。缶の中に残っているココアをもう一口飲んだ。冷たくなっているのに、その甘さはどことなく温かく感じた。
「・・・秋兄」
「うん?」
「明日、うちにいる?」
「いるよ」
「ふうん」
 言葉が、喉のところでつっかえている。言いたいのに、なかなか出てこない。私は大きく深呼吸をした。
「明日、帰ってきたら」
「うん?」
「・・・やっぱいい。なんでもない」
「ふうん?」
 風が吹き、木の葉が揺れる。空になった花火のパックが、風を受けて、今にも倒れて転がりそうな音を立てた。
 静かな夜だった。たとえば今、何かの理由で私が突然死んでしまったとしても、もしかしたら後悔しないかもしれない。そんなことを口にしたら、秋兄はどんな顔をするだろう。
「そろそろ帰るかな」
「うん」
 秋兄は、いつもそうだった。近くで過ごしている時もそうでない時でも、私の味方でいてくれた。どんな形でも、それがその時にはそうとわからなくても、後から考えれば秋兄は結果的に私の味方をしてくれていた。
 時間が止まってしまえばいいと思いながら、一方で、私は今なら何でもできるような気さえしていた。
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