二話 酒と遊び

文字数 8,110文字



又吉がまた飯屋に現れたのはそれから二週間ほどしてからであり、「にごり酒と、それからワタ焼きを下せえ」と又吉は済まなそうに笑った。

「すまないね又吉さん、今日は烏賊が入ってないんだ。代わりに新物の秋刀魚はどうだい」

「へえ、すまねえだあご主人、じゃあ秋刀魚をくだせえ」

「刺身がいいかい、焼くかい」

「へえ、おらは秋刀魚は、生でなんて食ったことがねえで、刺身にしてくだせえ」


その日、ちょうどいつも居る職人連中は店に居らず、店には若侍が二人と、爺さんが一人居て、吉兵衛のまな板の前には近所の女房連中が集まって、やいのやいのと無駄話をしながらその日の菜を買いに来ていた。


「じゃあちょっと待っておくんな、今そこの甚五郎さんも待ってもらっててな」

「へえ、すまねえだあ」

「お酒は、すぐ燗が付けられますから」

「ありがとうごぜえますだ」

「い、いえ、ただいましますので…」


又吉がにこにこと話をするとお花が顔を赤くしているのを、吉兵衛が甚五郎といった爺さんは見て、にやっと笑った。


この爺さんは吉兵衛が「甚五郎さん」と呼んだ爺さんで、長屋で一人暮らしをして色々な細工を作り、たまにそれらを道端に敷いたむしろの上で売っている。

ちびちび稼いではほとんどそれを飲んじまうという暮らしをしている甚五郎爺さんは、無駄話は好きだが身の上話は好かないようで、元からの一人暮らしなのか女房があったのかも、爺さんより年上の者が居ないので、誰も知らない。


錆御納戸の擦り切れた甚平を着込み、白い髭を長く垂らした痩せっぽちで背の低い禿げた甚五郎爺さんは、「お花坊、誰だいこの若いのは」と聞いた。

お花はその時すっかりのぼせ上っていたので、急にそんな事を聞かれて驚いてしまい、又吉と妙な仲だと思われているなんて勘違いをしたのか、「い、いえ、そんな…なんでもないです」とごまかそうとした。

「おやおや」、そう言って甚五郎は赤い顔でにかっと笑い、又吉をちょっと盗み見たが、又吉はもう開け放しになっている店の外の、隅田川に大橋が掛かった夕焼けの景色を見ているようだった。


「こいつぁ骨が折れるわい」
甚五郎はそう独り言を言って、手酌でちろりからすっかり湯飲みへ酒をあけてしまった。




吉兵衛は一人暮らしの女にもう柏の焼いたのを渡してやり、他の二人の女に向かい合って注文を取っていた。

二人とも鬢を透けるように大きく広げ、流行りの勝山に結い上げていた。

一人は紺絣の着物に灰色の擦り切れた名古屋帯をして、もう一人は鼠の絣に帯はそれよりもっと濃い黒に近い紺鼠で、二人とも水仕事の途中だったと見え、黒っぽい前掛けを垂らしていた。


「まあそれであんのウチの甲斐性なしがねえ、鮭の切り身が食べたいだなんて急にいうもんだから。ないだろうとは思ったけどサ、来てみたのよ」

「いやあ、おかねさんは亭主思いだ。鮭は確かに今はねえが、どうだい、秋刀魚の脂の乗ったがあるよ。これなら鮭にも見劣りしない。さっきまで跳ねてたようなやつだ!刺身にして持ってってやったら、喜ぶぞ。ただ焼くのとは一味違うからな」

「ああ、それはいいかもしれないねえ、吉兵衛さんは頼りになるよホントにさ」

「じゃああたしのとこにもそれをおくれな」

「あいよ、二人とも、二人前でいいかい?」

「うちは子供が二人あるのさ、忘れちゃいやだよ」

「ああそれはすまなかった、じゃあ子供の分もすぐに捌くよ」


それから、好き放題に喋る女房連中に売り物を渡してしまうと、吉兵衛は一緒に捌いていた秋刀魚の刺身を皿に盛り、お花がそれを又吉と甚五郎の座っている床几に運んだ。


「ありがとよ、お花坊」

「ありがとうごぜえますだぁ」


二人がそう言った時、お花は又吉を見ていたかったらしいが、そう思うほどそちらを向けずに、「前からの馴染み客」の甚五郎の方ばかり見ていた。

だがやはり、床几の傍を離れしなにちらりと又吉を見て頬を染めてから、「早くお米が炊けたか見なくては」といったような顔つきでその場を離れて、へっついの傍へぱたぱたと駆けていった。



又吉はなんてことのない顔つきをしながら秋刀魚をつまみ、「旨いでなぁ」と独り言を言ったが、甚五郎は脇から、「ええ娘じゃろ」と声を掛けた。

「へっ」

急に話しかけられて又吉は驚いたが、すぐに甚五郎の言う意味には気づいたのか、顔を真っ赤にして、「そ、そうですなぁ…」と頭を掻いた。

「でもな、若いの。嫁にもらうわけにゃいかんぞ、あれは一人娘じゃからな。一緒になるにゃ店を継がにゃ」

洗い物をしているお花には聴こえないようにと小声でそう言って、酔っぱらった吉兵衛は少し意地悪く、きししと笑った。

すると又吉は更に顔を赤くして、首と両手を振りながら、「そ、そんな大それたことおらしねえだ!」と大声で叫んだ。


又吉の声は店中どころか店の外まで聴こえてしまったので、奥の座敷に居た侍もちょっとこちらを覗いて「何ぞ、もめ事か」と声を掛けた。

「いやあ、お侍さま、なんてことねえ。ごゆっくりお飲みになってくだせえな」

甚五郎はまたきししと笑いながらそう言ったが、又吉は、自分のあまりの大声と、それで周りが驚いたことにもびくびくして、決まり悪そうに背中を縮めて、若侍二人に向かってお辞儀をした。

又吉の様子に甚五郎も済まなそうに笑ったが、やがてこう話し出した。

「まぁそういきり立たないでおくれ。おめえさんを驚かしたのはすまねえが、ありゃええ娘じゃよ。おめえさんもなかなかのええ男じゃし、年寄りは自分の楽しみが少ないもんでな、つい口を出したくなるんじゃよ。そいじゃあな」

又吉は頷こうにも頷けない顔で、かといって首を振るわけにもいかないのか、曖昧に首を震わせながら、席を立った甚五郎爺さんに会釈をした。

「お花坊ー!銭は置いとくでなぁー!」

「あ、はーい!甚五郎さん、もう暗いですから、お足元にお気をつけてー!」

「はいよ、ありがとなぁ」


さっさと店を出て行ってしまった甚五郎爺さんを見送り、膝に刺身の皿を乗せたままぽけっとしていた又吉だったが、甚五郎の置いて行った銭を勘定しにお花が近寄ってくると恥ずかしそうに俯いた。

しかし何の言い訳を言うわけにもいかないので、わざとそっぽを向いて、吉兵衛が包丁を使う姿に男として見惚れているような振りをしている。

又吉はもじもじと刺身の乗った皿の端をなぞりながら、お花が行ってしまうまで吉兵衛の方を向いていた。



しばらくすると又吉は一人で刺身を食べてしまい、何を喋っているのかよく分からない若侍のことなど気にしていないのか、ぼーっと川の方に顔を向け、葦が群れになった影の形だけがわずかに見て取れる川辺を眺めながら、酒を飲んで、帰った。






お花は近所では評判の器量よしであったが、前に書いた通り、極端な恥ずかしがり屋で引っ込み思案であった。

だが、顔を赤くしてはにかむ様子がとても可愛らしいので、その内に酔っ払い達も、「女」としてより自分の娘のようにお花に接するようになった。

甚五郎のように年嵩になると、孫のように猫っかわいがりする客もある。


お花は確かに又吉を好いていたが、娘にとって、殊にお花のような娘には、自分の口から言い出すなどということはとても出来ることではない。

又吉が店に来て自分が膳と酒を運ぶ時、お花は今までで一番恥ずかしいような、一番嬉しいような、またひどく苦しいような思いに責められ、又吉が帰ってしまうと、「次はいつ来るだろうか」と何度も繰り返し願いながら、ただ待つのであった。






紺屋町の外れの銭湯から、男が三人出てきた。いずれも職人らしい目の光りようで、ぎらっと構えた男たちであった。

一人は与助で、湯から上がったばかりでたらたらと汗を流し、もう一人は留五郎で、こちらも暑そうに手うちわで自分に風を送っていた。

一番後からのれんを押して出てきた三郎は、用意していた扇子で顔を扇いでいる。

銭湯の前を、もう時期も終わる金魚売りが、三人にぶつからないように盥の水を収めながら、ひょいと身を躱して通っていた。時刻は昼の八つほどであった。


「いやー、暑くてかなわねえや。よお、物は相談だがよう、これから辰巳の方へでも行かねえかい」

不意に留五郎がそう言い、三郎だけはちらっと嫌そうな顔をしたが、すぐにまんざらでもない風を装って「いいだろう」と言い、与助も賛成した。

三人は深川で深夜までわっと騒ぎ、朝日の明ける前に店に帰るつもりでいた。

そうして隅田川へ向かっていると、急に与助が立ち止まる。

「どうしたい、与助」

三郎がそう聞くと、「あいつぁ、こないだ会った又吉ってえ奴じゃねえか?」と与助は言った。

留五郎と三郎が前を向くと、前をとぼとぼと歩く若い者が居て、確かにその姿はどことなくこの間会った又吉に似て、済まなそうな背中と、きりっとした細い髷がこちらを向いている。

「うーん、確かに似てるが…」

「見てみた方がは早えや、こういうのはよ」

留五郎はずんずん進んで又吉らしい人物に近づいていき、「もし、そこ行く人よう」と声を掛けた。若者が振り向くと、確かにそれはどこか申し訳なさそうに顎を引いた又吉であった。

「あっ、あなたはこねえだの…」

相変わらず田舎弁の混じった喋り方をして、又吉は嬉しそうに笑い、留五郎に一礼した。

「留五郎だよ」

「留五郎さん、こねえだは、肴を頂きありがとうごぜえましただ」

「いやいや、礼には及ばねえ。おめえさん、どこへ行くとこだい?」

「あ、今日はお店が休みだで、おらぁ遊ぶとこも知らねえもんで…行こうにも、どこへ行くんかわからねえんでして…散歩をと思いましたでなぁ」


困りながらそう笑う又吉を見ていて、留五郎は急にぽんと手を打った。


「じゃあおめえさんよ!俺達についてきな!」



「へっ…」







また深川へと歩く道すがら、三郎は留五郎に「まずいんじゃねえのかい」と耳打ちしたが、「大丈夫だよ、奴だって男なんだ!喜ぶに決まってるさ!」と留五郎は相手にしなかった。


三郎には又吉の人間がどういうものか、もうほとんど見えかけていた。

礼儀正しく、少々潔癖なところもあるが、思いやり深い。又吉は三郎にはそういう人間に見えた。

そんな又吉が急に花街へ連れて行かれたら、泣きながら逃げ出すんじゃないかとさえ思っていた。


与助はひっきりなしに又吉に話しかけていて、又吉は興味深げに与助の話を聞いていた。

もちろん与助も、「行先の話だけはしない」というのは分かっていて、「紺屋は甕に入れる「藍」からてえへんなんだ」と自分の仕事の苦労を聞かせたり、「若えうちは気を付けなくちゃならねえ、年寄りのいうこたぁ聞いておくモンだ」など、滔々と又吉に説いている。

又吉はそれらを感心して聞きながら、「そうなんですけえ、おらぁ気を付けますだぁ」なんて真剣に返事をしているのだった。







深川へ着いて花街へ踏み入ると、遊郭の煌びやかな建物と、格子の向こうで仰々しいほど洒落た成りをした女達が並んでいることに又吉はびっくりしていたが、もちろんここがどこだかはわかっている様子だ。


留五郎が「けっこうな遊び場だぜ」と言い添えて、店へ入ろうとしない又吉の手を引いた。




馴染みの裏を返すついでに又吉にあてがう女も留五郎は名指して、与助と三郎も気に入っていていた女をいつものように呼んだ。

若い者は機嫌の良さそうな顔で四人を迎えて、どうやらお得意らしい留五郎となんだかんだと話をして、世辞を言いながら座敷へ通す。


「ではこちらで少々お待ち下さい」と若い者が言い置くと、ぴたりと障子は閉められた。



又吉はどの座布団へ腰を下ろしたらいいのかすら分からない様子でおろおろと突っ立ったままだったので、与助と留五郎は部屋の戸から遠いところを勧めて、自分達は窓辺にもたれて世間話を始めた。


又吉はずっと正座で座布団に小さく収まり、カチコチに固まってしまっていた。

そこへ廊下からさらさらと衣擦れの音と、それから、はっきりした軽快な足音がしてきたが早いか、がらりと戸が開き、又吉はびっくりしてそちらを向いた。

すると、女達も又吉を見てびっくりしている。それから、中の一人が急に叫んだ。


「…まあ!なんてえこりゃあいい男だい!」

辰巳の女からそこまで愛想を引き出させるほどのいい男は、なかなか居ない。



「俺のことかい」

「なんだいあんたのことじゃねえやい、こちらの方さ」

又吉を褒めた女は留五郎が馴染みと見えて、間から口を挟んだ留五郎には、平気でつっけんどんな口を利いた。

留五郎は一瞬「連れて来るんじゃなかった」という悔しそうな笑い顔をしたが、「とにかく、酒と、刺身を誂えておくんな」とだけ言い、煙草入れと煙管を取り出し、煙管に刻みを詰めていた。

座敷に入ってきた女は、めいめいに鼠や御納戸の落ち着いた色の着物を着て、暑そうに少しだけ胸をはだけて大きく衿を抜き、羽織りを引っ掛けていた。

髷に刺さった簪だけは女らしい洒落たものであったが数は多くなく、立ち姿も顎を引いてきりりとしている。加えて先ほどからの男のような物の言いようと負けん気の強さ。

これが職人ばかりを相手にする、「辰巳芸者」の一番の売りである「意気地」であった。


又吉は目をぱちぱちして女達を眺め、信じられないものを見ているような顔をしていた。



「それにしてもびっくりしたよ。お前さんなにかい、この人の知り合いなんかい」

一人の女が又吉の前に屈んで留五郎を指してそう聞くと、又吉はびくびく怯えながら「へ、へえ…ほんのこねえだですが…」と、はっきりしない口調で答えた。

「なんだ、江戸の者じゃねえのかい!」


女達はそれで更に驚いたようで、ますます興味が湧いたらしい。口々に色々なことを聞き出した。


「どこから来たんだい」

「へえ、下総から…」

「下総!遠いねえ。それで、江戸へは商売かい、奉公かい」

「へ、へえ…奉公人として、働かせて頂いてるんでして…」

「歳はいくつさ」

「え、その…十六…」

辰巳の女らしい男勝りな女達の様子に又吉はたじろいでいたが、おろおろしないように、頑張って返事だけはしているようだった。

「十六!そうかい、まだ我慢しなくちゃならねえ、きっと辛抱おしな」

女が一人慰めるように又吉の手をさすると又吉はびっくりしたが、すぐにはその手を振り払わずに、女が手を放した時にそっと袖の中へ仕舞った。

「へえ、ありがとうごぜえますだ」


すると女達が又吉に群がるのを窓辺の席で見ていた留五郎が、「おい、おめえら!誰がその客連れて来たと思ってんでい!」と叫んだ。


「はいはいわかったよ、酒と刺身だろ、今頼んで来るから、ちょっと待ってな」

女が一人部屋を出て行き、若い者に注文を伝えたのか、すぐに戻ってきて、三人は三味のねじめを締め始めた。







「初心」で「いい男」となれば、これはもう女の方の独壇場である。女達は又吉の世話を焼きながら酒を注いで、留五郎や与助達の顔も立ててやりながら、代わる代わるに三味を鳴らして、遊びになれた留五郎達と都都逸の回しっこをしたり、又吉の前で見事な曲を弾き語ったりした。

又吉はそれを見て少なからず感動したのか、「すげえですだ!」と上機嫌で手を打ち鳴らす場面もあった。



台屋から上げられた笹だらけの刺身や、なんだか腹納まりの悪い酒でも、気の回る上等の女が居るとなれば話は別で、四人は結局楽しく歌って騒いだ。


太鼓持ちが入って来る、若い者が甘味を誂えるなど宴の席は繁盛し、騒ぎ飽きたが疲れは来ないちょうどいい頃合いで、四人はそれぞれ女の部屋へ案内をされた。


もちろん他の客の部屋へも女は出入りをしていたし、布団の上に座って待っていたところで、夜が明けるまで女が現れなくても文句は言えないのがこの街である。だが、又吉は初めから女に手を引かれて、女はとびきりの上機嫌といったように又吉を連れて自分の部屋の戸を閉めてしまった。





女は自分の鏡台の前に座り、薄い化粧を心持ち直そうと鏡を覗き込みながら、「どうしたい、早く布団へ入りな」と、白粉を首元へはたいていた。


又吉は部屋の真ん中に何か考え込むように立っていたが、その顔は座敷で騒いでいた時とは全く違い、憂鬱そうだった。

又吉は女を見ず、部屋の行灯がぽーっと灯って女を照らし、向こう側へ影が落ちるのを見ているように見えた。女は又吉の方を振り向いて羽織りを脱ぎ、立ったままの又吉にまた声を掛けた。


「どうしたんだい、御手水かい?」

不意に女がそう言って、又吉を子供扱いしてからかおうとした時、又吉は頬を弾き飛ばされたように女を見た。女が気圧されるような厳しさと、どこか切なげな、苦しそうな目だった。

「おら…!」

又吉は厳しい目つきでそう話し出そうとして、それから、それが決まりが悪かったように目を伏せた。行灯の灯りに照らされた又吉の顔はもう和らいでいたが、寂しそうで、悲しげであった。

「おら…おめえさまにそんなことして欲しぐねえだ。なんでかわかんねえけんど、それはいやだ…だから、その…」

女は大きくため息を吐いて首を振り、額に手を当てた。

「あたしじゃ不満かい?」

又吉は驚いて、また女を見つめ、今度は急き立てられるように口を開いた。


「違う!おめえさまは綺麗だ。ほんに、綺麗な女の人だから…だから…」


泣きそうな顔になってそれ以上何も言えずにいる又吉を見て、女はびっくりしてしまったのか、しばらく口を噤んだ。

女の顔は一瞬悔しさと悲しさに歪んだが、やがてふっと優しく微笑むと、部屋の道具で茶を入れようとして、鏡台の前を離れた。

又吉も、女が茶を入れているので安心したのか、やっと畳の上に腰を下ろし、やっぱり下を向いていたが、温かい茶を受け取った。


女は、又吉とはいくらか斜交いに座って鏡台に肘を突き、その手の平に顎を預けて、ふっくりと頬を上げて又吉に微笑んだ。それは遊女がみんな慣れてしまう諦めたような疎ましそうな顔ではなく、仕様のない恋人の男を許してやる女のようであった。


「じゃあ、話でもして、お茶でも飲んでったら。目の前に茶屋娘でも居ると思ってさ」

女がそう言うと又吉は初めて嬉しそうに笑って、それがあまりに幼く正直なので、女はまた少し瞼を下げたが、又吉が世間話を始めると、嬉しそうに聞き入るのだった。

又吉は女が戸棚から出してきた茶菓子を摘み、女は鉄瓶を火鉢にくべて茶を入れ、二人は夜更けまでなんということもない話で、笑ってみたり悲しんでみたりした。






翌朝、女と一緒の布団には眠っていたが、奉公暮らしから早起きに慣れていた又吉は女と共に目を覚まし、また白粉を塗り直す女の後ろ姿を見ながら、手持無沙汰に枕元の窓の障子など開けてみたりしていた。

「朝だでなぁ」


江戸の屋根が、どれも皆同じように昇り始めた陽の光を赤や金に照り返して、目を焼くほど強く輝くのを見て、又吉は満足そうにため息を漏らした。





「おーい又吉ぃー!急いどくれ!俺達ぁ仕事があるんだ!もう帰んなきゃなんねえ!」

「はい!はい!今行ぐでなぁ!」

又吉は急いで梯子段を降り、店の出口で大声で呼んでいる三人の元へ駆けて行こうとしたが、見送りに来た女が急に後ろから又吉の袖をぐいと引いた。

「な、なんでぇ?」


又吉が振り向くと、さっきまで又吉を優しく見つめてくれていた女の、険しく悲しそうな目とかち合った。

女は又吉の目を見るのが辛いようにすぐに下を向いて、身をぶるぶる震わせていた。だが、弱弱しく伏せられた顔をもう一度上げると、小さな声でこう言って、頼み込むように又吉の目を見つめた。



「もう、あんたは来るんじゃないよ」



女の顔には、悲しみがあった。


遊郭へ身を沈めたからにはそこで生き抜いていかねばならず、やがてはそこで病で死ぬことがほとんど初めから決められている悲しみ。


やりたくもないことを毎日毎日せねばならず、いっそ死んでしまいたいと思っても、誰に漏らすことも叶わず、ただ終わりまで歩いて行くだけの悲しみ。


そして、それを一瞬でも優しく気遣ってくれた又吉に頼りたくとも、又吉の優しい心根を思えば到底出来はしない、我が身の悲しみ。




又吉がそれをどれほど知っていたかはわからないが、又吉も悲しそうな顔をしてしょんぼりと肩を垂れ、女には何も言わずに、留五郎達の方へと踵を返して歩いて行ってしまった。
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