五話 お花の恋と冬の出来事

文字数 8,779文字



冬になり、江戸には酷い北風が吹き荒れた。


方々から毎日のように火の手が上がりお上は頭を悩ませていたが、町奉行大岡忠相は、とうとう奉行所を頭とする大々的な「町火消し」を作り直すことに決めたらしいと、江戸の人々は知らされる。


各町内でそれぞれに火消の仕事を賄っていた頃と違い、奉行所が手当など一切を引き受けて、身軽で力のある鳶の者達を中心に据え、町ごとに名前を「い組」、「ろ組」などと呼び、「いろは四十八組」が生まれた。


組の要には、並外れて度胸の据わった男達が彫り物を全身に纏って勢ぞろいをし、どんなに高く燃え上がる炎へも屋根伝いに飛ぶように向かっていった。



勇猛果敢なその姿は江戸の者を沸かせ、それ故の乱暴な気性は江戸の者にさえ恐れられた。





江戸の町が変わっていく中でも、人々はいつも通りに亥の日の祝いをすると、火鉢や炬燵を出して、どてらやねんねこを重ね着した上から布団を掛けたりして、隙間風の吹き込む寒さに堪えていた。



凍るように冷たい隅田の流れと、川を渡る風に体もしばれる永代橋を脇に見る吉兵衛の店でも、風よけの囲いで店全体を覆い、ありったけの行火や火鉢を出して客を呼んだ。





「お花、あの人が気になるのかい」

その日、店を閉めた後で吉兵衛とお花は後片付けの洗い物や店の掃除をしていた。

吉兵衛は床を箒で掃き、お花はハトバの前に屈み込んで、丸めた藁に灰を付けては、流れる水で皿を濯いでいる。その時に、吉兵衛がお花にそう聞いたのだ。



お花は、父が自分の心をいつも見抜いていることを知っていた。だから又吉への気持ちも全部見透かされているのを承知で、努めてそんな素振りを見せないよう振舞った。それを今、ついに父から切り出されたのだ。

お花はすぐに、奥ゆかしい娘らしく頬を染めただけで、顔を隠すために横を向いた。

そして必死に洗い物に向き合っている振りで唇を少し尖らせ、「何さ、何もないよおとっつぁん」と返した。

吉兵衛はその様子を見て、お花が娘として恥じらいを知るという間違いのない育ち方をしてくれたと満足に微笑み、「又吉さんのことさ」と、ずばりと言ってのけた。

お花は驚いて、急に父が口にした名前に戸惑って真っ赤になり、父を見詰めた。


「又吉さんは国へ帰って商売をする。そこへお前もついていきたいんだろう」

「おとっつぁん…」


お花が吉兵衛を見た目には、期待と不安があった。又吉と一緒になりたいという気持ちをどうにかして父に分かってもらえないかという、必死の期待。


それから、江戸で代々続けてきたこの店を捨てるわけにはいかない父は、自分を説き伏せにかかるのだとほとんど決め込んでいることへの不安。

そして、親に尽くしたいという気持ちから、お花自身が自分に「諦めろ」と言って何度も説得してきたことによる悲しみがその二つを包んで、いっぱいに見開かれたお花の両目に潤んでいる。



それを見た吉兵衛は一つため息を吐いて、頭に巻いたねじり鉢巻きの結び目を解いた。


「広い江戸だ。この店を継げる腕のある奴はいくらも居る。ただ、お花、お前の幸せは一つところにしかないんだろう」

「おとっつぁん!それじゃあうちの店が!」


お花は、義理堅く仕事の手を抜かない父の背中を、ずっと見てきた。

気が弱くても分別があるお花は、「いつか腕のいい料理人を婿にして、自分がおかみとしてこの店を切り盛りしていかなければ」という気持ちが、もしかしたらそこらの飯屋の娘よりずっと強かったに違いない。

吉兵衛が「自分のために生きろ」と言ったところで、すぐに諸手を挙げて言う通りにする気が起こるはずも無かった。

しかし吉兵衛はゆるゆると首を振って右手でお花を制する。


「いいや、考えてもみろお花。お前が大事に思って惚れた男を諦めて、気に入りもしない亭主と一緒になってこの店を継いだ先で、この店はどうなる。ちょっと考えれば分かるだろう。そんなくらいなら、俺は店を畳む。それで我が子の幸せが手に入るなら、安いもんだ」


吉兵衛はお花の左肩に手を置き、一度だけ少し強く握った。それでお花も父の心を悟ったのか、途中からはらはらと流していた涙を拭いもせず、父の胸に飛び込んだのだった。






又吉はしばらく「柳屋」へは来なかった。その内に冬も深くなって雪が江戸に積もり、江戸の人々は雪かきをし、趣向を凝らした雪だるまを作ったりした。


そうして遊び心を忘れないながらも仕事をし、それが終われば家でこたつに入って、温かい鍋などをつついた。






弥一郎の店ではその日、店の者全員で大川に行って雪見をしようと、手に手にむしろや酒を持ってわいわい騒ぎながら、道に広がって歩いていた。


ある者は外の寒さに堪えかねて手に持った酒瓶にすでに口をつけ、またある者は途中で寄った屋台見世で買った天ぷらを頬張っていた。

袂にしまい込んだ温石などを布越しに撫でさすって歩く者、道の途中で見える商家の看板にケチをつけてみる者、芝居の噂を始める者と、やかましい一行は大川の土手へ出て、同じく雪見を楽しみに来た先客達の中に紛れ込んで陣取った。




目に飛び込んできたのは、白と青であった。

大川の流れは群青色に染め上げられた絹がゆったりとたなびくようで、川岸に繋いだ舟達は、その中でこっくりこっくり揉まれながら、一様に頭に雪帽子をかぶっていた。

そこから見えるどの屋根も土もすべてまっさらの白い雪に覆われていて、それが青い空の色を仄かに返して銀色に光る。


一枚の絵のような光景に声を上げる間もなく、昼ごろに止んだと思った雪が、またちらちらと降り出した。

一人の職人がまずそれに気づき、「あっ!どうも寒いと思ったんだ俺ぁ!また降ってきたぜ!」と叫んで、それを聞いた近くの雪見客も、皆、一緒になって空を見上げる。


音もなく風に乗って降りて来る雪達を見上げると、皆、自分が雪へ向かって吸い込まれていきそうな、反対にすべての雪が自らへ向かうような、不思議な気持ちがした。

川の流れへ目を落とすと、落ちてきた雪が何事もなかったように水の中に吸い込まれていくのを見て、それもまたわけもなく目を奪われ、快いのであった。


「はあー。綺麗なもんだよなぁ」

「そうだなぁ」

「空ぁ晴れてるし、これぁ風花だろう。座って見るがいいぜ」


弥一郎がそう言うと、そうかそうかと一同はむしろを広げて座り込み、早速酒を飲み始めた。すると、職人の癖で皆酒に夢中になり、弥一郎が用意した酒を口々に褒めた。


「うん!こりゃあ上等の酒ですぜ親方!」

「うひひ、ありがてえありがてえ!」


そこへ誂え物を持っておかみのおそのと数人の職人が追いつく。

すると職人達は、待ってましたとおその達に礼を言ってから、まずむしろの上に出された寿司桶に、我も我もと急いで手を伸ばした。

「おい!その小鰭ぁ、俺が先に手ぇ出したんでぃ!」

「なーに言ってんでぃ、てめえの目当ては横っちょの玉子だろうがよ」

「なんだとぉ!」

「まあまあお前さんたち、こんな時に喧嘩なんてしないどくれよ。ほれ、ここに蒲焼きもあるんだからね」

いくつもの寿司桶があっという間に空になり小競り合いが起きると、おそのはすかさずほとんど焼き上がったばかりの蒲焼きの包みを広げ、職人達に勧める。

「へえ!こりゃありがてえ!」

「一串ずつだよ、あとは私が焼いたもので悪いけど、田楽もあるし、今日はたんと上がっておくれ」

おそのはそう言ってにこりと笑った。

「ありがとうごぜえます」

「ありがとうごぜえますおかみさん」

食い物は、他に握り飯と甘辛く煮た芋が出て、酒を飲みながら皆はそれらをたらふく食べた。



止み始めた風花が盃に落ちた途端消えたのを見つけては酒を飲み、青空の下で食う飯の旨さを心ゆくまで堪能して、職人達は雪見を楽しんだ。



おそのが支度は万端整えて、弥一郎は職人達の様子を見ていた。

当の職人は飲めや歌えの大騒ぎで、しこたま飲んでは蒲焼きにかぶりつき、それが無くなってしまうと味噌焼きの大根の串に持ち替えて、もう片方の手には酒瓶や湯飲みの酒を放さなかった。

そのうちに目の据わってくる者、言い合いを始める者が出て来る時分に、「店に帰って飲み直そう」と親方がそれをなだめ、「寒いから、帰って炬燵にでもお入りよ」とおそのが言い添えて、みんなで引き上げることにした。



「はあー食った食った。もう入らねえや」

留五郎は満足そうにそう言いながら、皆が使った湯飲みを風呂敷に包んで結んでいた。

立ち上がろうと風呂敷を持って顔を上げると、橋の上に誰かが居るのが目に入り、何気なくそちらを見る。


永代橋の欄干へ寄りかかって下を向いている男があった。すぐには分からなかったが留五郎は急にびっくりした声で、「あれ、あんなところに又吉がいやがるぜ」と、後ろに居た与助を振り返った。


「なんだって?」

与助もすぐに又吉らしき人物を橋の真ん中へ見つけ、何やらぐったりと欄干に腕をもたれて水面を見ているらしい又吉を見て、首を捻った。

「はぁー、ありゃ又吉だ…あんなとこで何してんだぁ」

二人は又吉を見ていたが、遠く橋の上に居る又吉がどんな顔をしているかまではよく見えず、雪見を楽しんでいるのか、疲れて欄干に寄りかかっているのか判然としないので、ちょっとの間黙って見ていた。

すると、二人の後ろから弥一郎が顔を出す。

「何してんでぃおめえたちよ。もう帰るぞ」

「あ、親方。あすこに俺達の知り合いが居たもんで…」

「どこだい。橋の上か?」

「ええ、あすこに…あれえ?」

与助と留五郎が親方に振り返り、又吉を指さそうとしている内に、又吉の姿はなくなっていた。

「もういねえのかい。ま、橋の上も往来だ。行っちまったんだろう。ここは寒いし、早く帰らねえと風邪を引くぜ」

「へ、へえ。そうですねぇ…」







ぴゅうぴゅうと風が吹く夜の真ん中の月の下を、ある男が歩いていた。


そこは数々の商家の大店が立ち並ぶ町らしく、土蔵の土壁と、大きな商家の塀が交互に続いている。日本橋か両国であろうか。


男は、冬の真夜中だというのに手元に提灯も無く、着物は薄い木綿一枚に軽そうな半纏だけを羽織り、道に残って凍った雪の上を歩くのに、裸足に草履という出で立ちであった。

しかし寒そうな様子も見せておらず、それに、あまり急いでもいないような、のろのろとした足運びであった。

時折、道の両側の塀にぽつりぽつりと掛けられた提灯の前を男が通り過ぎると、その顔がぼんやりと照らされ、顔立ちは目を見張るほどの美男であったが、自分の爪先が前後ろに動くのを見ているように項垂れて目を伏せて いる姿は、何やら考え込んでいるように見えた。


男の他には往来は誰も通らず、しかし男が歩いている少し先に、女が一人立っているようだった。

遠くに見えるその影は提灯に少し照らされて女と分かる程度で、こちらからはよく見えない。

暗い中で、男はそれに気付かずに下を向いて、女の前を通り過ぎようとした。しかし男が傍を通ろうとすると、女は急に飛びかかるようにして男の袖へ縋りついた。


「お待ちください!」


急なことだったはずが、自分の袖へ掴みかかってひしと放さない女を不審がる様子も無く、男は一歩遅れたような、気の抜けたような声で、「なんだでなぁ」と女に返した。


その女は、歳の頃ならもう三十を過ぎているように見え、恐ろしく痩せていた。

近くの提灯に照らされた顔には、険しく悲しそうな皺が幾筋も刻まれている。

凍り付いた夜にくたびれた木綿の着物一枚でいるからか、がたがたと震えながら男の顔をじっと見つめて、女はこう喋り出した。


「お願いでございます。亭主に先立たれて子供があり、わたくしの手内職などで頂くお金だけでは、あの子を育てていくことが出来ないのでございます。だからこうして、ここをお通りになるお方のお袖へお縋りして、なんとか暮らしている者でございます。どうぞお願いでございます、いくらでも構わないのでございます。お恵み頂きますれば…」


女は引き千切るような涙声でそこまでを言って、提灯に照らされているぼうっとした男の顔を見ていた。

するとその男は悲し気に眉を寄せて口の端を垂らし、何度か頷いた。そして懐に手を入れて財布を取り出す。


「ああ!ありがとうございます!ありがとうございます!」

女は、男が財布から金を取り出して、同じく懐から出した半紙に包んでいるのを見て、涙を流して頭を下げ、男の前で手を合わせた。

「礼なんていいだ。早く帰らねえと、子供がさびしがるし、おかみさんは風邪を引くでよ、もう今日は帰るとええだ」

「そう致します、そう致します!ああ、ありがたいことでございます!あなた様のことをお祈り申したいので、どうぞお名前をお教え下さい!」

「いやいや、通りすがりの者だで、それに、そんなに大したことでねえ、早くお帰りなせえ」

「…そうですか…とにかく、本当にありがとうございました、このご恩は決して忘れは致しません、ありがとうございます」

「体に気を付けるだよ」




女は半紙に包まれた金を受け取り、深々と頭を下げて男を見送っていた。やがて顔を上げた時には男の姿は見えなくなっていて、ふと近くの提灯の灯りが手元に差している事に女は気付いた。

男から受け取った包みが大分重くて少し嵩もあるようだと思ったのか、もう一度目の前で手を合わせてから、半紙を開いて中身を見てみた。


すると、なんと二分銀ばかりがざらざらと出てきて、女は仰天して叫び声を上げた。


「まあ!まあ!こんなに!…もし!もし、あなた!」


女は男が歩いて行った方へ走って行ったが、ほどなくして肩を落としてとぼとぼと提灯の前にもう一度戻ってきて、泣きながら「ありがとうございます、ありがとうございます…」とつぶやくように繰り返していた。







冬も一層厳しくなって、年の瀬で人々は皆物入りなはずが、「柳屋」はいつもの呑み客で賑わい、たくさんの客が居た。


まずは、奥の座敷には二本差しの者が、獲物を脇に置いて飲んでいた。年は二十五、六といったところで、面差しは酒で真っ赤になってしまっているので普段を想像するのも難しいくらいではあったが、男っぷりのいい方だ。

着ている物は、帯だけは上等そうだがくたびれてしまっていて、紬の着物もそこまで値の張る物ではなさそうである。

それがさっきからへべれけに酔っぱらってだらしなく柱にもたれているところからも、大した者ではないのが一目で分かるような様子であった。


それと、隣の座敷には、まだ二十歳を過ぎたばかりという感じの若い男二人が居た。

二人とも頭に手拭をかぶっていて、木綿の着物に裸足だった。

手拭はちょっと染めただけの薄浅葱、着物の鉄紺色がそれに似合っていて、半纏はそれらを邪魔しない落ち着いた鼠色と、粋ななりをした、いい若者達だった。


それから、店の中の床几に腰掛けた三人連れの方からは、田舎弁が聴こえてきているので、どうやら江戸見物に来た者だろう。浅草がどうだの、土産物屋の娘がどうだのと話しながら、どんどん酒を飲んでいた。

こちらは歳は皆四十過ぎくらいで、一日中長歩きをしてきて体が冷えたのか、半纏を重ねて店内でも着ていて、着物も半纏も目立たない茅色で、旅のためか足元は脚絆に足袋と、草鞋であった。


そして店先に張り出した床几には、いつもの留五郎達と甚五郎爺さんが腰掛けていて、話し込みながら酌を交わしていた。

留五郎達は、腹掛けと股引の仕事着の上には威勢よく何も着ず、甚五郎爺さんはいつもの甚平の上に、ほつれがあって綿が出るんじゃないかと心配になる、色褪せた紺の半纏を羽織っていた。




客達はそれぞれ行灯の温かい明かりの中で店内に所狭しと腰掛けて、一杯やりながら飯を食ったり、手元に肴を置いて酒を飲んだりしていた。


客の傍には必ず丸火鉢や長火鉢が置かれ、皆それで両手を炙って温まり、煙管の煙草を近づけて火を点けたり、鍋を置いて温めながら食べたりしている。


表に面して吉兵衛が向かっているまな板の前には、ちょうど時分時なのでおかず目当ての客も二人居た。


緑がかった紺のねんねこの中で背中に赤ん坊をおぶって、寒そうに前をかき合わせている女が一人。

それから、着古した木綿のぼろをいい加減に擦り切れた帯で括りつけ、脇に両手を挟んで寒さに堪える若い男の二人だった。



「すまねえだが、澄まし汁と煮物は何があるんでなぁ!」

「これ、酒をもう一本もらいたいがな」

「いい魚があるじゃないのさ、これをうちのおかずに焼いてもらえないかね」

「あーあ、おめえそんなに飲んだらここで寝ちまうんじゃねえか」

「おめえそんな馬鹿な話は俺は聞いたことがねえや!」



方々から注文があり、客達は酔っぱらって大声で騒いだり笑ったりしていた。

吉兵衛は後から後から飯を作り、煮物を温め直し、皿に盛ったし、お花はそれを客の元へ運んで、下げた皿を洗いながら燗を付け、客の注文に返事をした。


「これ娘!酒だと言っておろう!」

「はいただいまー!少々お待ち頂けませんでしょうか」

お花が酔った侍から二度目の注文をされて、他の客の席に持っていく膳を抱えていたので思わず声を高くして返事をした時、その侍はお花をじろりと睨んだ。


お花に侍に対する悪気は無かったし、大してうるさそうに返事をしたわけでもなかったが、その侍はもうだいぶ酔っぱらっていて、どうやら鬱憤が溜まっていたのか、理不尽にへそを曲げて「もうだいぶのこと待っておるわ!馬鹿にしおる!」と叫んだ。

そして席を立って、大小は手に取ってはいないものの、震え上がって侍を見つめているお花へずんずん歩み寄る。


店中の者がお花と侍の二人を見つめて、侍に立てつくことも、お花を庇う勇気を出す事も出来ない間に、侍はお花の前にずいと進み出た。


「あ、あ…も、申し訳…」

お花はびくびく震えて、口も利けないほど怖がっているようだった。

吉兵衛が、店の中が静かになったなと振り返ると、娘に詰め寄る侍の姿を見て、「お侍様!」と声を上げた。


侍の伸ばした片腕がむんずとお花の衿元を掴むかと思って、皆が不安そうに見つめていた。吉兵衛は包丁を振り捨て、店の中へ向かおうとした。その時だった。


「何するだ!」


そう誰かが叫んで、侍とお花の間にさっと割り込んで、侍の胸を突き飛ばしてその場へ叩き落としてしまった。


「な、何奴!」
誰とも知れない影にいきなり突き当られた侍は慌てて起き上がると、自分を見下ろして歯を剥き出しにする男の顔を見た。







それは又吉だった。あのいつも礼儀正しく遠慮がちに俯いていた又吉が、侍を睨んでお花との間に立ち塞がっている。

だが、その顔はみるみるうちに正気を取り戻してへなへなと弱気になり、泣きそうになっていった。

「あ、おら、そんなつもりじゃ…お侍様!ごめんなせえ!ごめんなせえ!」

急に又吉はぺこぺこと侍へ頭を下げて、何度も詫びた。

それを見て侍は「こんな弱気な者に尻餅をつかされたのか」と、一気に頭に血を昇らせ、がばと立ち上がり、今度は又吉に向かっていく。

「許さぬ!」

侍はそう叫んだが、すでに後ろに忍び寄っていたもう一人の影から二本の手が伸びて、侍を羽交い絞めにしてしまった。

「放せ!誰だ!」

それは三郎だった。羽交い絞めにした手で侍の胸元の辺りをとんとん叩き、侍が自分を睨みつけようと首を捩じっている隙に、お花と又吉に「とにかく離れろ」と目配せをして店の奥へと顎をしゃくった。

又吉はお花の肩を抱いて、へっついの前まで連れていった。



三郎はだんだん大人しくなる侍をやんわりと放してやってから、二人で対面になって、いくらか前屈みに話し出した。

「まあまあお侍様、お腹立ちでしょうが、ここはお屋敷のようにはゆきません。それにあの男も散々詫びた後の事。あたくしもお詫びをするんで、二人をどうぞ許してやってくだせえ」

そう言って三郎が頭を下げると、侍は決まり悪そうにまた顔を赤くしたが、もうここまで来ればこれ以上暴れるわけにはいかないと観念したのか、「ふん」と一度鼻を鳴らして店の中全員を睨みつけて、席へ戻って行った。



「又吉さん、大丈夫ですか…?」

お花は又吉と店の奥まったへっついの横にずっと居たので、怖がっていた気持ちもだいぶ治まってきたようであった。

だが、そうして又吉を見てみると、又吉がぶるぶる震えて泣きそうな顔をしていることに気付いたのだった。

又吉はお花に大丈夫かと聞かれたので答えようとしたが、うまく喋ることも出来ないのか、唇を震わせながらなんとか笑って、自分の肩を片腕で抱える。

「大丈夫だぁお花さん。おら、もう大丈夫だ」


お花は、又吉の普段の控えめな振る舞いや、人の目を気にするような遠慮がちな微笑みを思い出した。

自分は女の身であり、侍に刃向かえはしないとしても、自分と似たような又吉に、侍を突き飛ばすなどということをさせてしまった弱い自分が情けないと思い、一粒ぽろりと涙を流した。すると、それを見て又吉は急に慌てる。


「どうしただお花さん、やっぱり怖かっただか、もう大丈夫だでぇ、泣くでねぇ、泣くでねぇ」

又吉は必死にお花を慰めようとしたが、お花は涙を覆うために顔を隠して首を振るばかりで、しばらく泣いていた。


「ありがとうございます、又吉さん…」



そう言って顔を上げたお花の頬は涙で濡れていたが、目に迷いはなく、精一杯又吉のしてくれた事に報いる感謝をしようと、真っ直ぐに又吉を見つめた。

お花の唇は素直に微笑み、眉は臆することなくなだらかに寝かされて、黒い瞳の輝きは、一番美しく又吉に向けられた。

又吉はその様子を見て息を呑んだが、すぐにお花を見つめ返した。

でも、気弱に俯いてはぐらかしそうになってしまうのを我慢しているように、顎を震わせ、言葉を探すために一文字に結んだ唇をむずむず動かしては、また強く結び直した。



そして、ぱちぱちと瞬きをしていたのをやめると、小さく息を吸って一瞬待ってから、「おら、いつでもああするだ」、とだけ言った。



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