白の頂

文字数 3,656文字

この世には
東の果てに太陽の盟主があり
西の果てに月の帝国がある

子午の河には人の小国が集い
盟主には翼の騎士が仕え
帝国には獣の術士が住む


 エルカンドの会計士ナヴィドが記した、交易商人フォルーハルと、鳥の人レテの物語。

 昨今戦火が喧しく、私の聞いた不思議な話を、後世のために書き記しておこうと思う。

 フォルーハルと私は軍時代からの知己で、退役後フォルーハルは国々から商品を運ぶ交易商人に、私は麗しの藍の都エルカンドで、会計士となった。

 フォルーハルが主に扱うのは書籍だ。古書から最新の技術書まで、彼の気の向くまま仕入れては、エルカンドの市場や王宮に卸している。時には月の帝国領下、荒くれものたちの暗窟で、時には太陽の盟主が降る高峰の神殿から、珍しく貴重な書の数々を持ち帰ってくる。

 レテは翼の騎士族と獣の術士族の間に生まれた忌み子であった。高潔と忠誠を重んじ、翼を持つ騎士の一族と、欲望を進化の動力とする術士の一族は争って永く、双方の血は本来交じらない。レテは親を知らず、騎士にも術士にもなれなかった。恐ろしいほど賢く、腕には獣の名残りかまだらに鱗が浮き、背には羽を削がれた跡がある。妻を亡くしたフォルーハルにとってはただ一人の家族であろうが、果たしてレテは同じように思っているものか。

 帰京してフォルーハルが荷を解いている間に、香油をつくりたい、とレテが言ってきた。探究心の塊のような青年だが、情緒は些か冷えきっているため、そんな可憐なものに言及するとは珍しい。訳を尋ねたら躊躇の後に、萎れた白薔薇を詰めた編箱をこっそりと見せられた。

 残しておくにはどうすればいい

 長旅のあいだずっと持っていたのだろうか。薔薇は香油に向かないのだ。あの芳醇な香りは、生花でしか楽しめない。乾かして飾りにすることもできるが、これほど腐らせてしまったら無理だろう。

 どうやらがっかりしてしまったらしいレテに、薔薇は刹那に輝くから美しいのだ云々と古い詩の一節を教えてやっても埒が開かないので、庭の薔薇の茂みまで連れていき、ここに埋めてやればいい、と差し示す。土に還って、ここの薔薇の根に染みて、新しい花の一部になるだろう。

 レテは蒼い目を瞬かせてこちらを見たが、しゃがむと地面を掘り出した。そしてぽつりぽつりと、萎れた薔薇の話をし出したのである。


 西天連峰のはざまを抜けて、古都玉林へ向かおうとしたところ、手前の宿場街で引き留められた。玉林は現在帝国の支配域なのだが、峰の一角に住み着いた術士が風と雲を呼んで道ゆきを危なくしているという。フォルーハルはむしろ急ぐことにする。玉林には古来からの研究施設があり、重要な書物が眠っているのだ。混乱のなかで散逸してしまうことは、避けねばならない。

 レテはただ従う。この青年は頭脳だけでなく、強健で体術に優れており、前線の兵士であったフォルーハルにもよく着いていく。フォルーハルには元よりどこか厭世的なところがあり、武器を操る腕は確かであるのに、命を惜しむことがない。一人で旅に出ていた頃は、知らぬうちに黄泉を渡ってしまうのではないかと心配したが、今ではレテがそれをさせないだろう。

 山道は霧にけぶり、数歩先も見えない。馬は宿場に預けてきたので、己れの足場に気を付ければよいのだが、もはや方向が分からない。頭上高くぼんやりと映る日輪が溶けるように沈んでいき、脚は萎え、霧の水滴で肌も服も濡れそぼる。息は冷たく濁ってむれる。

 ふた昼夜歩き、下草も途切れて切り立った岩壁に囲まれた向こう、苔生した祠堂が見えた。



 山脈はどれほどの時を見てきているのだろうか。谷が村が紅く染まったことを覚えているだろうか。その祠堂は名もない犠牲者たちを弔うものだった。岩壁の稜から朧ろに差し込む光が、霧を割いて注いで見える。レテは薔薇の香りに気が付いた。

 祠堂の背後にはウロが暗い口を開けている。フォルーハルは人の気配に抜き身を構えた。視界は白く塗り込められているが、ゆらりゆらりと近づく影は、何かしら危害を加える様子もない。レテは目の前に立った人物を観察した。獣の術士族であることは明らかだった。痩せた背を伸ばし、道士服を着込んだ、長く真っ白な髭の老人だ。特徴的なのは鳥の目と、煤けた尾。

 レテの顔を覗き込むように見返し、老人は首を傾げた。

 お前は獣かね、騎士かね、それとも人かね。
 オレは獣と騎士の間に生まれた。獣でも騎士でも人でもない。

 レテの答えに、老人は皺の寄った目元を大きく見開き、髭を撫ぜて微笑んだ。それはいい、最後の客人にもってこいだ。老人が鱗のある鉤爪を鳴らすと、霧が吹き飛んでいく。こちらに背を向け、帯同を促した。

 岩場を抜けると、峰の南斜面に出た。冷たく澄んだ天空の下には彼方まで山々が連なり、谷底では久方ぶりの陽光に玉林の街がその名の通り輝いている。そして柔らかな草むらに広がるのは、一面の白薔薇であった。

 古代薔薇だな、原産はあちら側のはずだが

 フォルーハルは嘆息して言った。老人はフォルーハルの体躯を見上げ、目尻を緩めて笑う。美しいだろう、儂が育てたのだ。それから、昔話を聞かせてくれた。


 老人の獣性は鶏なのだ、飛ぶことのできない貧弱な鳥である。若い頃はそれを嫌って軍に志願した。

 二級支流ハイデ川沿いのガリカは、薔薇の栽培加工を主産業とする小国で、当時は騎士たちの管理下にあった。攻め込んだ際に見かけた薔薇高原はそれは美しく、火を掛けることが忍びなかった。激しい戦闘の末、しかし老人は騎士たちの捕虜になった。

 騎士たちのなかに同じ歳くらいの見習いの青年がいて、傷を手当てしてくれた。それから互いの話をするようになった。彼の故郷には古代薔薇が咲くのだという。小ぶりだが、朝の雪のように純白で、清廉な香りがする。

 後援部隊が到着し反攻に出て、老人は連れ戻された。しかしそれ以来、老人の心は薔薇に占められてしまった。あれほど美しいものがあるのに、なぜ争うのか分からなくなった。見習い騎士に礼が言えなかった後悔もあって、軍を辞め古代薔薇の研究栽培に没頭した。

 西天連峰の玉林一帯で戦役が始まったと聞いたとき、老人が心配したのは研究施設の書物であった。駆けつけた老人の目に映ったのは、山麓での凄惨な戦いと、今では指揮者の一人となった、あの見習い騎士の青年だった。


 風が花房を揺らし、白の縁は陽光を弾いて瞬く。遺体も見つけられなんだ、儂は飛ぶことができんのでな、と老人は呟いた。騎士も術士も人も大勢死んだ。故郷に帰れず、この異国の地に眠っている。せめて彼の人の好きだった古代薔薇を、ガリカで出会ったような美しい薔薇の園を、死者たちの慰めに。

 何十年もかかってしまったが、薔薇たちはここに根付くだろう

 老人は愛しげに花弁の露を撫ぜると、フォルーハルとレテに振り向いた。

 祠堂のウロに、儂が調べた全てを仕舞ってある。お前さんたち、時々見廻ってくれるかの。未来のいつか、戦争がなくなったら、役立てておくれ

 ごう、と大地が唸ると、白銀の霧が雪崩れ落ち、フォルーハルとレテの周辺を包み込んだ。思わず息を詰めた二人の眼前から、あの老人は跡形も無く消えていた。


 あの萎れた花弁は古代薔薇なのだと気が付いて、私は土を掘り返しているレテの脇から身を乗り出した。とても綺麗だった、でもフォルーハルが、古代薔薇の季節は短いって言うから。視線を上げず鼻先を土で汚したまま、レテは子供がぐずるように言った。残しておきたかったんだ、だって哀しいだろう、あの鶏の術士が丹精込めて育てた一番美しい薔薇なのに、誰も知らないで枯れていく。毎年、あの頂で、咲いて枯れて咲いて枯れて、それだけだ。いつ霜に凍ってしまうかも分からない。

 祠堂のウロには焼き煉瓦とモルタルで湿気を遮るようにした手作りの書庫があり、老人の著書が整然と並べられていた。薔薇だけでない膨大な草花の図版、多種多様な植物や穀物に関する研究書もあった。フォルーハルは記録を取りながら、感嘆した。何という努力だろうか、知性もさることながら、一人でひたすらに求め続けていたのだろう。

 だって彼は鶏だから、とレテは言う。大地を啄んで、みんなの役に立つことが使命なんだ。飛べなくても、非力でも、オレなんかよりずっと意義がある。私はこの養い子の癖っ毛を撫ぜた。一番美しい薔薇は残るさ、今レテが私に話してくれただろう。私はかの術士の話を書き記しておこう、きっと誰か読んでくれる。そうしてどこかの誰かの心の中に残っていくんだ。純白のままで。永遠に萎れないままで。

 フォルーハルは老人の書庫を閉し、記録は玉林の研究施設で保管するよう手配した。レテは散った花びらをこっそり集めて、エレカンドまで持ち帰ってきた。玉林への道は元通り晴れるようになったが、頂までは雲を抜けねばならない。白のしじまを越えれば、真っ白に輝く薔薇の園だ。それ故に、西天連峰玉林を臨むこの小さな頂を、“白の頂“と呼ぶのだと言う。
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登場人物紹介

レテ:“鳥の人“。超人的な頭脳と身体能力を持つ青年。実の親とは別れ、フォルーハルとナヴィドと共に暮らしている。沈思黙考しているようで案外のんびりとした性格。背中に折れた翼のような傷、四肢に鱗が有る。

フォルーハル:国から国へと書籍を売り買いする交易商人。元兵士。寡黙で腕が立ち、鋼の意志を持つが、己れにはあまり頓着しない。旅先で少年のレテと知り合い、引き取ることになる。

ナヴィド:藍(あお)の都エルカンドで会計士を営む。元兵士で軍時代からフォルーハルと親しい。レテの実質的な養父の一人で、人が好く割り切った性格。

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