【from第一部】海老とブロッコリーのリゾット、魚介のマリネ風サラダ(後編)

文字数 3,959文字




 身体を起こした勝也は、モッツアレラチーズを一切れつまんで大きく開けた口に放り込むと、ワイングラスを持って立ち上がった。キッチンに戻り、吊戸棚の底にある作業台の照明スイッチを入れる。いよいよ夕食の用意を始めるらしい。あたしもグラスとカプレーゼのお皿、それにカクテルの缶を持ってキッチンカウンターの椅子に移動した。
「え、まだまだやで。今からゆっくり準備するし」勝也は言った。
「いいの。ここで見てる」あたしは頬杖を突いた。「勝也が料理してるとこ見るの、好きなの」
「手伝う気ゼロ?」
 勝也はお米を計ってボウルに入れ、手早く洗いながら笑って言った。
「いいの? 手伝っちゃって」
「いや、要らん」勝也は慌てたように首を振った。「あぶな。台無しにするとこやった」
「でしょ」
 あたしは料理はまるでダメ。勝也曰く、あたしが作ったものは『地獄(メシ)』だって。失礼しちゃうけど、まあ的確な表現と言わざるを得ない。絶望的にセンスがないんだと思う。ちょっと哀しい。
「それで、どうする」
「結婚のこと?」
 勝也は黙って頷いた。冷蔵庫からいくつかの小さめのタッパーとブロッコリー、レタスを出し、その隣に置いてある木箱から玉ねぎを一つ取って作業台に置いた。
「勝也はいつくらいがいいと思ってるの?」
「うーん、秋くらいかな」小さめの鍋に水を入れて、火にかけた。「十月とか」
「あたしの誕生日があるから?」
「まぁ、それもある」
 勝也は頷くと玉ねぎを半分に切り、その一つを手早くみじん切りしながら顔を少し上げて「お母さんの喪も明けてる」と言ってあたしを見た。
「……そうね」
 あたしの母は、去年の九月に父と暮らしていたアメリカで交通事故に遭い亡くなった。高校卒業以来日本に住んでいるあたしは、母の死に目には会えていない。
 母はあたしたちが学生時代に勝也とも面識があり、生きていればあたしが彼と結婚することを大喜びしてくれたと思う。
 カクテルを飲もうとしてやめ、ワイングラスをカウンターに置いた。母のことを思うと、やはり辛くなる。思わず深いため息を漏らしたところで、前から勝也の手がすっと伸びてきてあたしの手に重なった。
 あたしはその手をしばらく眺めると、もう片方の手を乗せて「大丈夫」と小声で言った。
「ごめん」
 勝也はほっとしたように言って短く息を吐き、沸騰したお湯に小房に分けたブロッコリーを入れた。それから残り半分の玉ねぎをスライスして水に晒し、レタスを千切って水洗いした。
「――十月だったら、今からだと余裕あるわよね」あたしは明るく言った。「式は――する?」
「いやそらするやろ」
「洋式? 和式?」
「あ、え、まぁ……」
 勝也はじっとあたしを見て、それから慌てたように手元に視線を戻し、にんにくの皮を剥きながら「ど、どっちでも」と早口で言った。
「あー、いま想像してドキッとしたでしょ」
「は、いまさら」
「任せて。どっちも綺麗だと思う」
「うぬぼれ」
 勝也は笑って、フライパンにオリーブオイルを垂らしてにんにくと玉ねぎを炒め始めた。いい香りが広がる。
神戸(こうべ)に、雰囲気のいい教会があるの。そこで挙げてみたいかな」あたしは言った。
異人館(いじんかん)の?」
「そう。知ってる?」
純子(じゅんこ)が結婚するとき、候補に上がってた」
 純子というのは、去年の十一月に結婚した勝也の妹さん。披露宴にはあたしも招待を受けた。
「純子ちゃんが挙げた教会も、素敵だったわよね」
「最初は、相手の出身大学のチャペルでって話が進んでたんやけどさ。披露宴会場のキャパがどうしても小さくて。それで結局、あの式場に」
 勝也はブロッコリーの鍋を火から下ろし、ザルにあけた。その鍋にもう一度水を入れて火に戻す。それからフライパンにお米を投入してさらに炒め、その合間にトマトの缶詰を開けて計量カップで使う分量を測り、残りはストックバッグに入れて冷凍庫にしまった。こういう手際の滑らかさが、あたしにはまるで真似できない。
「そう言えば、あたしたちにだって大学のチャペルで挙げるって選択肢があるわよね」
「え、京都やで。いろいろめんどくさくない?」トマトと顆粒のコンソメをフライパンに入れながら勝也は顔をしかめた。「しかも秋の京都。極力近づきたくない」
「んー、やっぱそうよね」
「一度その異人館のとこ、行ってみるか?」
 沸騰したお湯にむきエビとイカとベビー帆立を入れて勝也は言った。「見学できるんやろ」
「そうね。資料請求とかもできるのかしら」スマホを取り、検索をかけた。「――うん、できそう。取り寄せるね」
 資料請求のフォーマットに必要事項を入力していると、勝也が「あ」と言った。
「なに?」
 スマホから顔を上げると、勝也はフライパンを見つめていた。
「……なんか俺、大事なもん忘れてるかも」
「え、そうなんだ」
 首を伸ばしてフライパンの中を覗いたけど、当然、あたしには何が足りないのかさっぱり。
「今からでもリカバリー可能?」
「え? ああ、料理(これ)やない」そう言うと勝也はフライパンを揺すった。「これは完璧。我ながら拍手したくなる」
「じゃなに」
「……怒らへん?」と勝也は上目遣いであたしを見た。
「あー、そういう卑怯な事前承諾(prior consent)はナシよ」あたしは首を捻った。「先に(ゆる)す約束なんて出来ないわ」
「手厳しいよな、昔から」
「いいから。何を忘れたの」
「……婚約指輪(エンゲージリング)
 茹で上がったシーフードをザルに上げ、勝也はため息をついた。そしてフライパンの火を弱め、作業台に両手をついて頭を下げた。
「……ごめんなさい。その存在を完全に忘れてました」
「……なんだ。そんなこと」あたしもため息をついた。「必要? それ」
「え、そう来る?」勝也は目を丸くした。「指輪ですけど。いろいろと重要な意味のある」
「あるの?」グラスにカクテルを注いだ。「それなりに経済的価値はあるのは分かるけど。給料の何ヶ月分とかだっけ。でもそれだって個人差あるわよね」
「……ははは」勝也はよろりと一歩下がって額に手を当てた。「まさかこんなにドライやとは」
「合理的って言ってよ」ふんと鼻を鳴らした。「って言うか勝也、あんたもしかしてやりたかったの? プロポーズしたあと、指輪のケースをパカって開けて中身を見せるやつ」
「それがやりたいわけやない。そもそもやりたかったら忘れへんやろ」
 水切りしたレタスとオニオンスライスをサラダボウルに入れ、ざっくりとかき混ぜながら勝也は言った。「ほんなら、要らんって言う合理的理由は?」
 あたしはちょっと考えた。でも最適かつ無難な言葉が浮かんでこなかったから、勝也をじっと見て言った。「オブラートに包まなくていい?」
「ええよ。嫌な予感しかせぇへんけど」
「なら遠慮なく」
 あたしは口元に握り拳を当て、わざとらしくコホンと咳払いをして背筋を伸ばし、そして言った。
「……ただの、邪魔……?」
「……合理的を通り越してもはや絶望的」
 勝也はガックリと項垂れた。「……もうやだわこの女性(ひと)
「だって、婚約指輪ってたいてい何らかの宝石(いし)が付いてるんでしょ? それって物理的に邪魔じゃない。だから普段は着けてない人多いわよね。だったら要らない」
「…………」
 勝也は黙ってフライパンにブロッコリーと茹でたむきエビの一部を投入して何度かかき混ぜ、蓋を閉めた。そして残りのシーフードはサラダボウルに入れてこちらもざっくりと混ぜ、抽斗から取り分け用のトングを出して添えた。
「出来上がり?」あたしは訊いた。
「食べるときにドレッシングを足す。作ってある。マリネ風」勝也は憮然と答えた。
「何よ、怒ってるの?」
「怒ってねーわ。絶望してんだわ」勝也は吐き捨てた。「おまえの殺伐とした思考回路は理解してたはずやけど、さすがにここまでとは思ってなかった」
「殺伐としたとは失礼ね。そう言うあんただって忘れてたじゃない」
「あ、まぁな」勝也は肩をすくめた。
「とにかく、結婚指輪は分かるけど、婚約指輪はホント無用だからね」
「……とりあえず保留や」
 勝也は言うと、フライパンの蓋を開けて小さなスプーンで一匙すくい、味見をした。少し塩胡椒を足し、フライパンの底から大きくかき混ぜて火を止める。それから食器棚からお皿を取り出して盛り付け、粉チーズと乾燥パセリを振って一つ頷くと、顔を上げた。「完成」
 あたしはうんと頷いた。「美味しそ」
 出来上がった料理をキッチン横の丸い小さなダイニングテーブルに運んで、あたしはカウンターからカクテル缶とグラスを取って席に着いた。勝也は冷蔵庫から出したドレッシングの瓶とワイングラス、そしてワインを持って向かいに座る。二人同時にいただきますと手を合わせ、グラスを重ね、勝也が二つの取り皿にサラダを取り分けるあいだ、あたしはメインディッシュをひと口頬張る。勝也はあたしの顔をじっと見た。
「Molto buono《超美味しい》」とあたしは指でほっぺを突いた。
「Bene《良かった》」
 勝也は満足気にワインを飲んだ。

 その日、婚約指輪の件はもう話には上がらなかった。勝也は保留と言ったけれど、あたしは本当に必要ないと思ってる。思い出に残る式とささやかなお披露目会、それと結婚指輪だけでいい。
 あれ、ちっとも“だけ”じゃないわよね。ふふ。


《episode 1 おわり》

 ☆エビとブロッコリーのリゾット
 ☆魚介のマリネ風サラダ



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