【from第四部】サーモンとほうれん草のクリームシチュー、温野菜サラダ(後編)

文字数 4,340文字

 夕方になって、勝也は夕食の支度を始めた。あたしはいつものように、カウンターの椅子に腰掛けてその様子を眺める。
 実を言うと、付き合う前からずっと、彼の料理する姿が好きだった。料理をしているときの彼は、自分では気づいていないだろうけど、とてもリラックスしてて愉しそうで、そしてどうにもこうにもセクシーだ。今も、食材を丁寧に洗い、皮を剥いたり切ったり、手際良く下処理していくのを見ていると、あたしもあのサーモンのように、彼の手に優しく撫でられたいとか思ってしまう。ん? あたしヤバいやつ? どうでもいいけど。

「――今日のドレス、最終的にどれにしたんやったっけ」
 一口大に切り分けたサーモンをガラス製のバットに並べ、ホワイトペッパーを振りながら勝也は言った。
「……結局、ちゃんと見てないんだ」
 あたしはスマホを操作して、純子ちゃんが撮ってくれた写真の一覧を開き、そのうちの一枚を選んで勝也に見せた。「これ。最後に着たやつ」
「ふーん」
「リアクション薄っ。わざわざ訊いといて、何かないの?」
「あ、綺麗綺麗」
 と勝也は笑った。ほうれん草を洗い、火にかけていた片手鍋のお湯が沸騰しているのを確認して、塩一つまみとともに入れる。それから玉葱を手に取って皮を剥き始めた。
「もう……」
「似合ってるよ」
 玉葱を薄切りにしながら勝也は言った。
「本当?」
「うん。俺もそれが一番いいと思った」次はマッシュルームをスライス。
「良かった……」
 あたしは思わずホッとため息をついた。だって、勝也は試着のあいだじゅう、ずっと居心地が良くなさそうだったから。
 選んだドレスはマーメイドラインのビスチェタイプで、ビジューやスパンコールがあしらわれたチュールのオーバートレーンが華やかさをプラスしている、上品な一着だった。両肩と背中に刺繍の入ったインナーレースで清楚な演出もできる。レンタル料金は少し高かったけれど、これを試着したあとはもう選ぶのをやめた。
「純子ちゃんもイチオシだったものね。彼女、センスがいいのよ」
「そうなんかな」
 勝也はほうれん草を鍋のお湯ごとザルに上げた。そこに水をかけてから絞り、五センチほどに切っていく。
「――純子ちゃんと言えば」
「ん?」
「あたしの勘だから、あてにはならないんだけど――」
 あたしは勝也をじっと見つめた。「妊娠してるんじゃないかしら」
「えっ」勝也は人参の皮を剥くピーラーの手を止めた。「そうなん?」
「たぶんだけど。表情がいつも以上に柔らかかったっていうか。今日会ったとき、最初にそう思って」
「ウェディングドレスを見に行くのに、硬い表情の女子ってあんまいてないと思うけど」
 勝也は人参もまた薄くスライスして、玉葱、マッシュルームと同じバットに入れた。それから別の両手鍋を取り出して火にかけ、バターを投入する。
「それはそうだけど。あと、ヒールの低い靴を履いてたし、ゆったりしたシルエットの服も着てたでしょ」
「そうやったっけ?」
 勝也はあっけらかんと言った。サーモンを鍋に入れて両面を返しながら焼き色をつけ、料理酒を回しかけて蓋をし、火力を弱める。そして冷蔵庫の野菜室からブロッコリー、さつまいも、大根、ズッキーニを、冷蔵室からは牛乳を取り出して作業台に並べた。サラダを作るのかな。
「もう。ホント相変わらずね」あたしは顔をしかめた。「鈍いって言うか、無関心って言うか」
「結婚した妹の服装をいちいちチェックする兄貴っている? 少なくとも俺はせぇへんよ」
「……まあね」
 勝也は鍋の蓋を開け、サーモンを取り出した。キッチンペーパーで鍋底の汚れを拭くと、新たにバターを溶かす。それから玉葱、マッシュルーム、人参のスライスを入れて炒め始めた。
「それに、ホンマにそうやったら言うんと違うか」
「まだ早いと思ってるのかも」
「なんで」
「なんでって……何か事情があるんじゃない。たとえば、まだご主人には言ってないとか」
「そう言えば、旦那はつい最近まで東京へ長期出張に行ってたみたいや。帰ってきたの、数日前やったかも」
「でしょ。だったらまだ言ってない可能性だってある。やっぱり最初はご主人に伝えるべきだし」
「それはそうやな」
 鍋の火を弱め、ストッカーから小麦粉を取ってひと匙入れ、さらに炒める。ホワイトソースを作り始めたみたい。
「そうだ、だから食事の誘いを断って早く帰ったのよ。それに、今日は三月にしては少し寒いじゃない。大事を取ったのかも知れないわ」
「そうなんかな」
「だとしたら勝也、もうすぐおじさんじゃない」
 あたしは冷やかすように言った。勝也はブイヨンの液体が入ったカップを取り、鍋に入れる前にちらりとあたしを見た。そして――
「じゃあおまえはいずれおばさんや」
「…………」
 あたしはちょっと絶句した。おばさん。確かにそうなんだけど、すんなり許容し難い。
「――え、なに。おばさんは受け容れられへん?」
 勝也はブイヨンの入った鍋の中身をゆっくりとかき混ぜながら、微かな笑みを浮かべた。――いまさらだけど、いちいち分かっちゃうんだ。だけど、それだけじゃない。
「……まあ、反面、嬉しくもあるかな」
「というと?」
「あたし、一人っ子じゃない? おまけに父が結婚直後にアメリカへ渡ったことで、生まれも育ちも海外。十八歳で日本に来るまで、両親の親戚とは疎遠で過ごしてきたわ。それに、研究に生涯を賭けようって思ってたから、結婚願望もなかったし、あたしはいずれきっと、家族のいない、孤独な晩年を過ごすことになるんだろうなって、漠然と考えてた」
「従妹の真澄(ますみ)がいるやないか。姉妹(きょうだい)みたいに仲がいい」
「そうよ。そしてその彼女には、結婚によって新しい家族と親戚ができた。それはあたしにとっては遠戚にはなるかも知れないけど、それ以上の繋がりはない。でも彼女は、その新しい縁の中でこれからずっと生きていく。今日、来られなくなったのもそのためだし、それで正しいの。そこが姉妹とは違うところなのよ。言っとくけど、決して根に持ってるわけでも、僻んでるわけでもないからね」
 鍋にサーモンを戻し入れた勝也は、火を弱めて蓋を締めるとあたしを見た。「まためんどくさいこと考えて」
「めんどくさくなんてないわ。極めて明快なことよ」
「……で? そこがちょっと寂しかったってわけか」
「うん。まあ、そうかな」あたしは頷いた。「だから、自分にもそういう家族と親戚ができるのが素直に嬉しいって言うか」
「ならおばさんも受け容れると」
「――おばさんは、純子ちゃんの子供に言われるのは容認する。周りに言われるのは嫌だけど」
「それは俺もそうかな」
 勝也はさっき冷蔵庫から取り出した野菜を洗い、それぞれ切って行く。ブロッコリーとさつまいもはひと口大に、大根と、シチューを作る際に取り分けておいた人参は千切り、ズッキーニは薄く小口切り。それからさっきほうれん草を茹でた片手鍋にもう一度水を入れて火にかけた。どうやらそれらの野菜を茹でるみたい。分かった、温野菜のサラダだ。
「もしそうだとしたら、いつ頃生まれて来るのかしら」
「訊いてみたら?」
「……だから。それは彼女のタイミングに任せようって話よ」
「あ、そうやな」
「ったく……聞いてんの? 人の話」あたしはため息をついた。
 ごめんごめん、と勝也は笑って、お湯の沸騰した鍋に切り分けた野菜を投入していく。さつまいもだけは電子レンジ用の蒸し器に入れ、キッチンボードに置いたオーブンレンジに入れた。
 その手際の良い動作を眺めながら、あたしは言った。
「ねえ」
「ん」
 茹であがった野菜をザルにあげる。水気を切り、蒸したさつまいもと共にボウルに入れた。
「……子供は欲しい?」
「え、俺?」
「そうよ。他に誰がいるのよ」
「……なに、何か試してる?」
「別に。なにも試してない」
 勝也は牛乳パックを開封しながらじっとこっちを見た。そして得意げにふふんと笑うと、牛乳をシチューの鍋に注いで言った。
「……要らんと決めてるわけでもなければ、結婚したら子供を持って当然、なんて思ってるわけでもない」
「うん。そうよね」それは分かってる。
「ただ――」
 あ、ほら来た。
「いい父親になる自信がない」
 鍋にほうれん草を入れながら勝也は言った。――やっぱり、そうなるか。
「……それは、どうして?」
 あたしはあえて訊いてみた。すると勝也は、大きくため息をついてあたしを見た。
「身近に、ろくでもない方の見本しかなかったから」
「……やっぱそう来る」
「分かってんなら訊くなって」
「お父さま、そんなに悪い見本だとは思わないわ――」
「それはおまえの見解。否定はせえへん。けど当事者の俺は違う」
 勝也は

に言うと、鍋の中身をかき混ぜ、手を止めて塩と胡椒を振る。小皿にひと口分取って味見をし、火を止めた。
「……だったら、反面教師にするしかないわね」あたしは諦めて言った。
「そのつもりや」
 勝也は投げやりに言い、冷蔵庫から明太子のチューブとマヨネーズ、プレーンヨーグルトを出した。それらを目分量で小さなボウルに入れ、手早く混ぜながら訊いてきた。
「そういうおまえはどうなん。子供、欲しいんか」
「うーん……そうね」
 あたしは少し考えて、ふと思いついた。「料理の出来ない女の子以外なら」
「それこそ反面教師やな」
 と勝也は笑った。出来上がった明太マヨソースとサラダをそれぞれのガラスの器に移し、ソースにはティースプーンを添えて顔を上げた。「完成」
「テーブルセッティングをするわ」
 あたしはにっこり笑った。
 ダイニングテーブルにカトラリーを並べていると、キッチンから香ばしい匂いが流れてきた。買ってきたパンを焼いているみたい。
 やがて勝也が盛り付けたシチューとサラダをカウンターに置いた。それから、斜めに切ったバゲットの上にリンゴのスライスとシロップの乗ったトーストも。あたしはそれをテーブルに運び、席に着く。勝也はワイングラスと白ワインのボトルを持ってキッチンから出てきた。シチリア産の辛口・ダリラだ。
 勝也が席に着くのを待っていただきますと手を合わせ、彼がワインを開けてグラスに注ぐのを見ながら、あたしはメインディッシュをひと口頬張る。勝也はあたしの顔をじっと見た。
「美味しい。優しい味」
「良かった」
 勝也は満足気にワインを飲んだ。

 その夜、あたしは勝也に優しく撫でられた。優しく、しっとりと撫でられて、女性ホルモンがたっぷり分泌するのが分かった。なるほど、だからサーモンはあんなに美味しかったんだ。

《recipe 2 おわり》

 ☆サーモンとほうれん草のクリームシチュー
 ☆温野菜サラダ・明太マヨソース
 ☆リンゴとメイプルシロップのバゲットトースト

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