灯り

文字数 3,362文字

あいつの店の灯りが点いていない日が続いていた。帰り道に前を通るので、少し気にかかっていた。貼り紙がしてあったので見てみると、どうやら休業するらしい。理由が書いていなかったので、共通の友人に連絡を取ってみると、体調が芳しくないのだという。まあお互い歳だしな、お前も気をつけろよ。そんなやりとりを軽くして、電話を切った。ひとりで店をやっているのだから、そりゃあ体調くらい崩したって仕方ないだろう。これを機に休んでくれりゃいい。またいつか灯りが点くだろう。そう思ったのがちょうど一か月前のことだった。
大事な仕事を任されて、かなりいっぱいいっぱいになっていたときだった。一週間後には大事な会議があり、そこでどうにか自分の抱えている案を押し切らなければならない。何週間もかけて準備をして、綿密に案を見直して、完璧なものを仕上げた。後は数日かけて見直しをして、当日を迎えるだけだった。そろそろ寝ようとしていた、ちょうどそのタイミングで携帯が鳴った。一ヶ月前に話したきりの友人からだった。内心不思議に思いつつ電話を取った。
あいつの店が閉業するらしい。
へえ、そうか。まあ、長く空けとくのもあれだしな。特に驚きはしなかった。体調が悪いのはどうしようもない。
がんなんだってさ、食道がん。もう、見つかったときには手遅れなんだと。
……そうか。今度は、驚いた。というより、なにも言えなくなった。がん、がんか。
電話が切れた。その前になにかやりとりがあったと思うが、頭には残っていなかった。明日の予定もなにもかも、全てどこかへ消えていった。
ソファに身体を預けて深く沈む。見舞いなどには行けるのだろうか。行けないのなら、手紙が書きたい。だが、何を書こう?そういえば、飲みに行く約束をしていたな。『まだ飲みに行ってないから戻ってこい』……いや、独りよがりだ。紛れもない本心だとしても。『あのときは世話になった』……生きている奴に送るのはあんまりじゃないか?終わっていないんだ、あいつは。
何を語るにしても、あいつがどう思うかがわからなかった。できるなら先の話をしたい。帰ってきて欲しい。したい話がまだある。聞きたい話も。
だが、その全部が、俺の思う全部が、死に行くあいつには負担になるんじゃないか?惨めな気持ちにさせるんじゃないか?まだ生きている俺から、あいつにかける言葉なんて本当にあるのか?
妙に鼓動が大きくなる。自分の心音で鼓膜が震えるたび、動く己の心臓を自覚する。
はやし立てられるような気持ちでベッドにもぐり、目をつむった。夢にはあいつが出てきた。
出会いは随分前だが、親密になったのはわりと経ってからだった。あいつは昔から物静かで、ひとりで何かをじっと考えているような奴だった。話し下手で、会話というよりは、思いつく話をぽつぽつと語っているのが正しい。俺はそれをずっと聞いていた。遠くの大学に行って哲学を専攻していたと聞いて、あいつらしいと笑った。だが何を思ったか、奴は大学を中退し、地元に帰ってきて小料理屋を開いた。苦労が絶えなかったろうが、数年もした頃には成功したと言えるほどの客足があった。自炊のできない男のひとり暮らしだった俺は、開店してすぐのときからよく通っていた。昔馴染みなのを良いことに、店じまいをするあいつの横で酒を飲んだりしていた。よく許してくれていたものだ。
彼女ができてからはあまり行かなくなった。彼女は料理ができたし、店で食ってばかりでは金が貯まらなかったからだ。それでも、月に一度は顔を出していた。夕方にのれんをくぐっては、閉店後の無人になった店内であいつの話を聞いていた。
支度を終わらせたあいつが、カウンターから出てくる。レジ前の回転椅子に座って、俺の方にくるりと身体を向けて、グラスを持っている。あいつが話す。国政のこと、税金のこと、店のこと、客のこと。思い出したように俺の近況を尋ねる。聞いたくせに、返事もそこそこに別の話を始める。旅行に無理やりついてきた旧い友人のこと、小さな楽団でラッパを吹いていたときのこと、コンビニのものに対抗して作った美味いチゲ鍋のこと。昔観た映画のこと、それを観てから死と覚悟について考え眠れなくなったこと、眠るために毎晩酒を飲んでいたこと、大学時代にずっと食べていたラーメンのこと。視線は机の上に置かれた小さな特撮のフィギュアに注がれている。時計を見て、腰を上げる。じゃあ、また──。
目覚ましが鳴った。朝だ。まだぼんやりとする頭を振り切って、支度をする。朝食は軽めに済ませて、仕事へ向かう。特に変わりのない日常だ。パソコンと向かい合い、人の話を聞いて、それを繰り返す中で、心のどこかであいつのことを考えている。受けた恩を返したい、俺が受け取ったものの一端を知ってほしい。病床のあいつは何をしているだろうか。今にも死にそうなのか、意識はあるのだろうか。それとも案外元気で、いつものようにノートに何かを書きつけているのだろうか。手紙に書く内容は、一週間が経っても決められずにいた。
何かにつけて、手紙を書くことを先延ばしにしていた。大きなものが先に待っていたから、それは言い訳になり得たが、それと向き合うには、真剣に考えるには未だ覚悟がきっと足りていなかった。
いよいよ明日に件の会議が迫った夜、ソファで作った資料を見返していた俺に、また電話がかかってきた。その画面を見たとき、嫌な予感がした。確信に近い、冷たい何かが心臓を撫でた。五つ目のコールで、出た。掠れた声で、どうした、と言った。
予想は当たっていた。
通夜は身内で明日、行うらしい。縁があるから、自分から言えば行けるがどうする、と言う友人に、俺は否定で返した。終始淡々と話していた彼は、最後に「早すぎたよな」と涙混じりの言葉を残して切った。
悲しむ気持ちの中に、妙な安堵があった。何をしていても頭から離れなかった、手紙の内容から解放されたのだと。そう感じる自分の浅ましさが苦しかった。悲しむだけでいられない今という時も呪った。
通夜に出ている自分を想像する。棺に横たわるあいつの顔はどうだろうか、痩けた頬で眠っているだろうか。俺の記憶の中のあいつは横顔だった。彫りの深い、ちょうど歴史の教科書で見たネアンデルタール人のような高い鼻と突き出した眉。生来くせ毛なのだという黒髪と、鼻先に引っ掛けたメガネ。瞳だけが曖昧だ。どんな目であいつは見ていたんだっけ、そもそも、何を見ていたのか。輪郭が、滲むようにぼやける。声は、どんな風に俺を呼んでいた。今は鮮明なあの風景も、同じように忘れていくのか。
忘れていくのだ。
全部。痛む心臓の音すら忘れるほどに遠く、遠く、忘れていくのだ。
わかっている未来だ。それが辛い。
もう一度シャワーを浴びて、布団に入った。無音が耳の奥で鳴っていたので、曲をひとつ聞いてから寝た。夢の中で逃避行をする歌だった。
目覚ましが叫ぶ。惰性で止めて、息をつく。
ベッドから降りると、机の上に広げっぱなしの紙束が見えた。頭を掻いて洗面所に向かう。顔を洗って、鏡を見る。跳ねた髪が、のびのびと好きなようにつるを伸ばしている。プラスチックの安いブラシを濡らして、雑に髪を撫でつける。言うことを聞かないやつは後に回す。朝食はいつもトーストで済ませる。今日は気合いを入れるため、買っておいたししゃもを焼く。二匹並べて置いて、コンロをセットする。その隙にトーストにバターを塗り、トースターに入れる。冷蔵庫からいちごジャムを出して机の上に置いておく。皿にトーストとししゃもを乗せて、椅子につく。飲み物に手を伸ばして、出すのを忘れていたことに気づき席を立つ。やかんで煮出して作った麦茶をグラスに注ぐ。立ったまま飲みきってしまったので、また注ぐ。ようやく朝食にありつく。トーストの焼き加減は最高で、ししゃもは卵と脂身が絶品だった。トーストの耳をくわえながら、今日の資料に目を通す。ざっと見て、空になった皿をシンクに置く。洗面所で着替えて、生意気にも跳ねたままの毛と格闘する。勝利を収めてから玄関へ向かう。靴箱の上の鍵を取って、ドアを開けた。
ふと、青い空が目についた。上の階の出張った床と、無骨なコンクリートの柵の隙間から、嫌味なくらいの晴天が覗いていた。
夏の空だった。
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