気付きの月

文字数 4,730文字

 大学生になって、初めて彼氏ができた。
 こう書くと、高校のときにも中学のときにもずっと彼氏がいたが、大学になってからは初めてなのか、ふうんおモテになるのねという風に受け取る人もいるかもしれない。
 だから念のために注釈を入れておくと、私の人生初の彼氏だ。

 そんな彼と知り合ったきっかけはというと、私が日焼けサロンでアルバイトをしていたときのこと。ある冬の夜、ひと目見ただけでもぞくっとするような、青白い肌の男性が一人でお客としてやって来た。
 背が高くて細身で、でもスーツ越しにも筋肉質なのが想像できる身体付き。少し日本人離れした顔立ちは私の理想に近かった。頬がこけ気味なのがちょっと残念。もう少し健康的に見えれば最高だわ、などと考えながら受け付ける。
 私はこのときが初見だったけれども、男性はお店の会員だった。会員カードによると、由良雲英人(ゆらきらと)というお名前で、ご利用は六回目とのこと。それにしては全然焼けてないなぁ、遅くても五回目ぐらいから黒くなると聞いたのに。日焼けすれば健康的に見えていい感じになるだろうな、本人も気にして焼きに来てるのかも、なんて勝手なことを思いつつ、更衣室に案内した。あとは男性スタッフに引き継ぐ。
 およそ四十五分後、来店時と違いノーネクタイで再びカウンターに現れた彼は、全くと言っていいほど変わりがなく、日焼けしていなかった。外目から見える箇所、顔や手が青白いままなのだ。お客様にこんなことを言うのは異例というかマナー違反なんだろうけど、思わず、「あれ? 全然焼けて……」とまで口走ってしまった。
 小声のつもりだったけれども、相手の耳にはしっかり届いたらしく、「焼けてないように見えます?」と反応された。
 内心焦った私は、「も、もしかしたらマシンの不調かもしれません! 調べますので少々お待ちください!」と言って、カウンターを飛び出そうとした。
「いや、いいですよ」
 彼の声に足を止める。
「それでも念のため、調べませんと。使用状況を把握したいので、お手数ですがついてきてくだ――」
「大丈夫です。えっと、実は僕、あるテストのためにここを利用させてもらっています。商品化前なので詳しくは申し上げられないのですが、オリジナルの日焼け止めみたいな物を……」
「ああ」
 意外な話に、つい、馴れ馴れしい返事をしてしまったが、納得はできた。でもその日焼け止め、効きすぎじゃないかしらとも思ったけれども。
 その後、由良さんの来店時に私がバイトに入ることなく、ふた月ほどが経った。新歓コンパが終わって、一人で駅までの道を歩いていると、たまたま由良さんと再会した。空には、満ち足りた月が浮かんでいた。
 礼儀としてなのかどうかお茶に誘ってくれたので、ありがたく受けた。というのも、新歓コンパでは店の手違いでデザートの数が足りず、私を含む二年生数名が我慢した。そのせいで、ちょうど甘い物が欲しかったのだ。
 由良さんは某研究所に勤めていて、時折、開発した試作品のテストのため、日焼けサロンを利用していたが、違う部署に異動になったので、足が遠のいたという。
「日焼けするつもりはあったんですか」
「あんまり。似合わないし、元々、明るいのは苦手で」
「そうだったんですか。由良さんが来ないから、私、あそこのアルバイトをやめてしまいましたよ」
 ジョークと分かるように軽く目配せ。すると由良さんは大真面目に「それは大変だ。次のバイトは見付かりましたか」と言い、そこから表情を一変させて笑った。

 こんな感じで、何となくフィーリングが合って、何となくお付き合いを始めた。
 付き合い出してみると、由良さんは年上の割には、一般常識レベルの知識がぽこっと抜け落ちてるようなところがあって、そのときの反応がかわいらしかった。
 たとえば……男の人ならしょうがないのかもしれないけれども、ゆず胡椒には胡椒は入っていないんだってことを知らなかった。唐辛子よと教えてあげたら、「ゆず胡椒が少し嫌いになったかも。でも赤い色の食べ物は好きなんだ。赤唐辛子を混ぜたゆず胡椒ってある?」なんて聞き返してきた。子供みたいと思いつつ、検索するとあるみたいだったからまた教えてあげた。
 銀玉鉄砲は銀の玉が出ると思い込んでいたし、現代のオリンピックでは金メダルはほぼメッキというのも知らなかった。
 ゲームはほとんどやらない人らしいのは分かっていたけれども、将棋を知らないのにはびっくりした。ルールを知らないとかではなく、将棋そのものを知らなかったようで、新聞だったか雑誌だったかに載っていた将棋の棋譜の記事を見て、「これはひどい誤植だなあ。字が逆さまだよ」と真顔で私に見せてきた。
 「河童の川流れ」ということわざの意味を、「絶対にあり得ないこと」だと思っていた。「トンビがタカを産む」や「豚もおだてりゃ木に登る」も同様。でも、フランケンシュタインが怪物の名前ではなく、怪物を生み出した人間の名前だということは知っていた。コウモリにマスクをすると夜まともに飛べなくなることを知っていた。血液型に基づく占いは、一つの部族が全員同じ血液型という事例があるから成立しないなんてことも知っていた。偏り方がよく分からない。
 まあ、彼が知らないことって生きていくのに絶対知っていなければならない訳でもないし、その分、専門知識は豊富だった。例の日焼け止めのクリームはパッチテストの必要があり、効果の出る人と出ない人、さらには悪い影響の出る人がほぼ三分の一ずつになるから、発売は当分ないのだが、私には特別だよと言ってパッチテストを経て、使わせてくれた。おかげで日差しが怖くなくなり、感謝している。

 由良さんは休みの日でも、昼間のデートには応じてくれない。完全に夜型勤務故、生活のリズムをなるべく崩したくないし、休みの日はたっぷり休憩を取って、鋭気を養わないとだめなんだと言う。それが事実なら、私との夜のデートだって、かなり無理をしてくれていることになるんだけど、あまりにも頑なだから、ちょっぴり疑ってしまった。昼は別の女の人と会っているんじゃあないの?って。そこで、私は暇ができたときに彼の住むマンション前に張り込んだことがある。結果、日が暮れるまで、由良さんは一歩たりとも出て来なかったし、誰かが訪ねてくることもなかった。次に会ったときに申し訳なくて、疑ってごめんなさいと謝っておいた。

 するとひと月ほどして、由良さんが私の住まいの隣に越してきた。隣と言っても私はマンション暮らしで、彼はそのマンションに隣接する旧い平屋なんだけど、形の上ではお隣さんと呼べなくもない。
 それはともかく、彼が越してきたのは、私を不安にさせないためらしい。疑われて心外だと思ったのかどうかは分からないけど、「これだけ近ければ、休みの昼だって予め言ってくれてたら、ちょっとは会えるよ」と由良さんは笑った。
 実際、お言葉に甘えて数回、彼の家を訪れて、短くもそれなりに甘い時間を過ごせたんだけど、ムードはいまいちだった。だって、家が旧いのに加えて、日当たりが滅茶苦茶に悪いんだもの。私の入るマンションも入れて、四方を高い建物に囲まれているせい。私のためにこんな環境のぼろ家に住まわせてしまって、ほんと、申し訳なく思った。

 そして夏の終わり頃、私が二十歳の誕生日を迎えて以降、初めて彼と会う。
 その日もまた夜のデートを楽しんで、ディナーではお酒を飲んだ。正真正銘、初めてのアルコール飲料だったせいか、足元がふらつくほどになり、海に近い公園で酔い覚ましを兼ねて涼んでいくことになった。
「お。満月、かな?」
 ベンチに腰掛けると、ちょうど正面の空に月が浮かんでいた。満月かどうか知らないけれども、まん丸で、堂々としているように見えた。
「買って来たよ」
 由良さんは自動販売機で冷たい飲み物を買ってきてくれた。私には頼んだ通り、甘さ濃いめの紅茶。由良さんは、何やら赤いパッケージのペットボトルを手にしている。
 彼が隣に座ったところで、私は満月に視線を振った。
「ねえ、由良さん。こんな話を知ってる? 夏目漱石だか誰だか、とにかく文豪と呼ばれる小説家が、英語の『アイラブユー』を『月がきれい』と訳したって話」
「はは、僕でもそれは聞いたことある」
 ペットボトルを両手の内で転がしながら、彼は笑った。覗いた八重歯が、きら、と光を反射する。
「なーんだ。珍しいこともあるものね」
 キャップを開けて、紅茶を口に含んだ。甘みよりも冷たい喉越しが心地いい。その間に由良さんは付け加えた。
「ただ、覚えてたのとはちょっと違うな。『月がとっても青いから』だと聞いたか読んだかした気がする」
「へえ、知らない。青い月っていう方がより間接的で、いい感じかも」
「ということは、この知識勝負は僕の勝ち?」
 いつもの青白い肌が、ちょっぴり上気した風に見えた。夜空と満月による錯覚かもしれない。
「それとこれとは別だよ~。じゃ、月に関する知識その2。月が何で光っているか、知っている?」
「うん? えっと、月自体が光ってるというか、燃えてるんじゃないのは知ってるけど、何で明るく光っているのかは分かんないな」
「やった、これは私の勝ちね」
「参った。答、教えて」
 彼もようやくペットボトルの蓋に手を掛けた。私はお月様を小さく指差しながら説明を始めた。
「あれはね、太陽の光を反射してるのよ」
「……太陽?」
 信じられないとばかり、目を大きく見開く由良さん。満月を凝視して固まったかに見える。
「由良さんは月食の原理も知らない? 太陽、地球、月の順番に並んだとき、地球の影が月に映ったのが月食。月と地球との水平方向の位置関係って言っていいのかな、建物の一階と二階それぞれにいるみたいな感じで、高さに差があると、太陽の光が月の表全面に当たって光るの」
「太陽……」
 由良さんは話を聞いているのか心配になるほど、うわごとみたいに繰り返した。ベンチの肘掛けに半ば身体を預ける様にもたれかかって左肘を突き、右手は顔を覆う。
「どうしたの、そんなにショックだった? 大げさじゃない?」
 酔いが覚めてきた私は、彼の肩に触れようとした。が、由良さんは私の手を振り払い、ベンチから離れた。
「知らなければよかった」
 ううう、と唸りながら、苦しげに言う。明らかに変だ。
「由良さん? 気分悪い? 座って落ち着いた方が……」
 声を掛けても、彼はどんどん離れていく。海辺に近付き、そこにある黒い柵に寄り掛かった。
「おかしいよな。今まで平気だったのに、正体を知った途端、こんな影響が及ぶなんて」
 絞り出すような口ぶりで言うと、由良さんは私に背を向けた。こちらは何も言えず、その後ろ姿を見ていた。実際、言っている意味が分からなかった。
 やがて彼からは唸り声すら聞こえなくなった。項垂れた姿勢で、柵に寄り掛かったままでいる。
 そして、赤いペットボトルが落ち、地面を転がった。
「あの、由良さん……?」
 私は立ち上がって、駆け寄った。まだ少し酔いが残っていたけれども、足元はしっかりしている。
「具合が悪いのなら、病院に行くことも考えた方が」
 なるべく優しい口調で話し掛けつつ、彼の背中にそっと手を触れた。
 その刹那。
 私は息を飲んだ。
 彼は灰になっていた。背に触れたのがきっかけになったのか、さらさらと音を立て始め、塵のような粒がぽろぽろと落ちていく。
 崩壊は加速度的に勢いを増し、数秒と経たずに、完全に崩れ落ちた。
 彼の立っていた場所には、灰の山と衣服、靴だけが残った。

 由良雲英人は吸血鬼だった。多分。
 あのとき、血を吸わせてあげていれば、助かったんだろうか。

 幕
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