VI

文字数 902文字

 Sと別れて数日後に、Kは始めてあの夢を見た。そのときからKは、いわば自分の生き方として、理想を保留し現実を優先するという方針を公式に取り入れたのだった。その方針に魂を売った、と言ってもいい。だから、先に事業のことをかたずける、などというのは言い訳に過ぎなかった。自分の事業を始めるずっと以前から、Kはすでに、あの「考えるべき」ことを考えないようにしてきたのだった。
 Kは今になってようやくそれら一連の経緯のことを思い出し、すべてを理解したように思った。Sの言ったことの意味を、それもその直接の意味ではなく、その議論が暗示する本当の意味を、当時それを言った本人が把握していたかどうかには関わりなく、Kは今になって理解したように思ったのだった。Sは正しかった。店長を、客を説得すべきだったし、こちらから提案もすべきだった。抗うべきだったし、それが現実となることに希望をつなぐべきだったのだ。それをしないことで、現実に早々に見切りをつけることで、自分の人生は根幹から変わってしまったのだ。あり得たかもしれない現実の半分を自分から見捨ててしまったのだ。
 Kが最初にあの夢を見た日から、もう三十年以上がたっていた。そのことを思うと、Kはまるで自分の人生自体が夢であったかのような気がするのだった。あの金髪のアルバイトも、自分の年になれば、人生は夢のようだったと感じるのだろうか? あの日見捨てた現実の半分を取り戻すのには、もう遅すぎるのだろうか? 考えるべきことを考えるのには、もう手遅れなのだろうか?
 だが、人は変わり、世の中も変わる。Mの金髪は今ではすっかり店になじんでいる。彼の昔の髪の色を思い出すのも難しいほどだ。なぜあれほど髪の色にこだわっていたのか、Kは自分でも分からなくなっている。あれほど現実を知らないとSには言っておきながら、自分はいったい現実のことをどれほど知っていたのだろう。
 Kはいまでも起きがげに夢を見る。目の覚めるころには内容はすっかり忘れている。しかし内容を忘れてしまうからといって、悲しみで心が疼くことはもうない。たとえ人生が一つの夢だとしても、その夢はいままた始まったばかりだ。
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