文字数 1,361文字

 ルイスキャロル原作『不思議の国のアリス』を今すぐに学習指導要領に入れるべきである。なぜならば、縦穴のようなトンネルに身を放り出されたとき、どうすればよいのかわからないからだ。

 私は今、底の見えないトンネルの中を文字通り落下している。感情のジェットコースターにおいて困惑、興奮、焦燥、諦観ときて、退屈のフェーズに入りつつあり、トンネルの全長を算出するという、この世界を解明しようとする試みを空気抵抗と重力加速度という未知のパラメータの登場で放棄せざるを得なくなった私を唯一、満足させるものといえば、タイムラプスの如く変貌する夜空の情景であろう。あるいは水揚げされた牙をもつ深海魚のような鮮烈な赤、あるいはブルークォーツを思わせる透き通る青、あるいはレモンイエロの絵具をチューブから絞り出して固めた黄色。それらが落下速度に合わせてチカチカ明滅し、漆黒のカンバスを撒き散らすように彩るものだから、星座とタップダンスを踊っているような心地にさせられるのだ。カシオペア座をなぞって、ペガスス座にぶら下がる。そうやってアンドロメダ銀河の海を泳いでいるうちにトンネル特有の閉塞感は薄れていった。もっとも、落下しているという状況は変わらないが。

 ファンシーな世界観に縁もゆかりもない私とアリスとの共通点は性染色体が「XX」であることぐらいで、今後の展開を子供特有の柔軟かつ奇抜な発想力を駆使して想像することは出来ない。私はこの状況を心から楽しめる童心をあの頃に置いてきたことを後悔した。

 いよいよ絶望という二文字が脳裏にチラつきはじめた刹那、夜空が一転して水気のない紺碧の空間が広がる。眼下にはジオラマのような豆粒大の街並みとラッセンの絵画のような飛沫の純白とロイヤルブルーのコントラスト。私は港町の上空を飛んでいるのだろうか。パタパタと翻りそうになる制服スカートを片手で押さえながら、周りを見渡すと洗い清められた青色を溶かした大気が、世界を満たしていた。

 それからしばらくは大空を舞うミサゴに思いを馳せていた。眼下の街並みが拳大になっていたことに気がつくまでは。

 いつから私はこの青空を支配していたと錯覚していたのだろう。私は空を飛んでいたわけでなかった。私は所詮、ファフロツキーズ(空からの落下物)だったのだ。そう考えている間にも海との距離はどんどん狭まっていく。

「やばい!!!死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!!!」

 落下中、スカートがめくり上がりそうになったときに出したアー、とか、ウー、といった、感嘆詞とも違う母音の数々を除けば、人生ではじめて発した言葉であるが、なんと情けないものだろう。どうせなら、もっと男子高生の純情を煽るような可愛い声を出せば良かった。もっとも、中高女子校の私にとっては、そういうのには疎い。

 最後の悪足掻きで、開いた傘の塩梅でスカートを広げる。私の命運はチェック柄のスカートに委ねられた。幸いにもスカートは伝統校特有のロング丈で、このときばかりは女子校を選択した自分を褒めたたえたい。ただスカートにはこの任務は荷が重かった…いや、私が重かった。空気抵抗が何のその、私は弾丸となって海の青に肉薄する。

 視界が青一色に染まる
 トントントンツーツーツートントントン、と心音がSOSを刻む
 目の前で編まれる青藍の世界
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