第7話
文字数 1,645文字
鵠沼海岸を歩く。松川は寄るとこあるから、といつもよりも早くさよならを交わした。松川はいつもよりさっさと歩いていってしまった。ざあ、ざあ、と波の音が空間に飽和している。今日は風が強い。砂が目に入って思わず目を擦ると、「鎌谷!」と僕を呼ぶ声がした。透き通るようなのに、よく通る声。
中原さんは、今日は深い緑色のワンピースを着ている。風が吹くたびに裾がふんわりと膨らんで、波みたいだと思った。
「鎌谷、今日ここくると思ってたんだ。ねえ、私のはなし、聞いてくんない?」
はい、と返すと、彼女は急に僕の顔を覗き込んだ。なんだ、泣いてるわけじゃないのか。そう言った後、彼女は隠しもった黒板の四分の一くらいの、大きなキャンバスを僕に見せた。きれいな絵だ。しかも、この人物は僕だ。なにか、苦しそうな、迷っているような、そんな表情をしている。蓮の咲き乱れる池の中心に、僕がいる。でも、なんだか僕じゃないみたいだ。こんなにすごいものをつくる人だったのか、と慄いた。
「どう? 鎌谷をモデルにした作品を見せるのは初めてだったでしょ」本当は結構いっぱい作ってたんだけど、これが一番いいやつだからと微笑んでみせた。
「……すごい、きれいな絵だね」
僕の表情をじっくりと見つめた後、彼女はありがとう、とだけ言った。その後、頬をばちんと叩いて、とても真剣な表情になった。
「あのね、私、この街を離れることにした」
言い終わった途端、彼女は苦しそうに笑った。枯れそうな蕾みたいだった。
「なんで、……」
彼女の安寧はこの町にあると思っていた。いや、思い込んでいたのかもしれない。無限にも感じられる鵠沼海岸のまろやかな青。狭いけれど優しく広がるはす池。彼女の持つガレージとその中に広がる彼女の世界。どうして? 血が沸いて体から出て行ってしまいそうなほど、頭が熱い。
「私、両親とは結構距離を置いてたんだけど。この絵ができた時、両親に会いに行って、絵を見せて、それからたくさん話をしたの。」
モデルにしている僕のこと。作品のこと。今までちゃんと家族と向き合えなかった過去を後悔していること。何日も話したあと、彼女は両親の知り合いの画家と、作品の制作旅行に行くことを提案されたという。
「その人と会って、私、ここから出なきゃって思ったの。でも、出る決心がついたのはあなたのおかげ」
私って案外臆病だから。鎌谷に会えてよかったなあ! ラッキーだったよ。そう言って今度は、咲いたばかりの花のように笑った。
僕は腕を抱くようにして身体を守るようにして、こっそりと歯軋りをする。この人は、僕がこれまで思っていた何十倍も、したたかにうつくしく生きる人だったのだ。僕は? 今まで、どう生きてきたんだろう。明日、どうやって、決断をして、そういうのを繰り返して大人になっていくのだろう。恐怖が僕を包み込んで、目の前が真っ暗になる。
「鎌谷は、もう、高校三年生になるんだよね」すぐに、大人になっちゃうね。私なんかすぐ飛び越えていっちゃうような?
「ちがうよ! ……違う」
涙が溢れる。もどかしい。どうして言葉が出てこないんだろう。中原さんは呆然とした後、我に帰ったように固い表情になった。
僕の目を見ている。言葉を待っている。そう感じた。
「まだっ僕は、……何にも、わが、んない。でも、少しずつっ、だよ」
……少しずつ。成人しても、高校を卒業しても、大きく自分の立場が変わったとしても、僕はすぐに身を翻して今までの僕を捨てることがきっと、できない。彼女は目を見開いた後、深く息を吸って、吐いた。
「そうだよね、そう。少しずつ、ゆっくり」
私もそうだったのに、忘れちゃってたな。彼女は小さくつぶやく。波が砂を運んでは、海の方に引きずりこむ。今日は、雲が空に敷き詰められていて、でも晴れ間がちゃんと見える。
「三日後、第一はす池で。多分しばらく会えなくなるけど、きてね」
そう言い残して中原さんは去っていった。ざく、ざく……彼女の砂を踏みしめる音だけが僕の耳に響いていた。
中原さんは、今日は深い緑色のワンピースを着ている。風が吹くたびに裾がふんわりと膨らんで、波みたいだと思った。
「鎌谷、今日ここくると思ってたんだ。ねえ、私のはなし、聞いてくんない?」
はい、と返すと、彼女は急に僕の顔を覗き込んだ。なんだ、泣いてるわけじゃないのか。そう言った後、彼女は隠しもった黒板の四分の一くらいの、大きなキャンバスを僕に見せた。きれいな絵だ。しかも、この人物は僕だ。なにか、苦しそうな、迷っているような、そんな表情をしている。蓮の咲き乱れる池の中心に、僕がいる。でも、なんだか僕じゃないみたいだ。こんなにすごいものをつくる人だったのか、と慄いた。
「どう? 鎌谷をモデルにした作品を見せるのは初めてだったでしょ」本当は結構いっぱい作ってたんだけど、これが一番いいやつだからと微笑んでみせた。
「……すごい、きれいな絵だね」
僕の表情をじっくりと見つめた後、彼女はありがとう、とだけ言った。その後、頬をばちんと叩いて、とても真剣な表情になった。
「あのね、私、この街を離れることにした」
言い終わった途端、彼女は苦しそうに笑った。枯れそうな蕾みたいだった。
「なんで、……」
彼女の安寧はこの町にあると思っていた。いや、思い込んでいたのかもしれない。無限にも感じられる鵠沼海岸のまろやかな青。狭いけれど優しく広がるはす池。彼女の持つガレージとその中に広がる彼女の世界。どうして? 血が沸いて体から出て行ってしまいそうなほど、頭が熱い。
「私、両親とは結構距離を置いてたんだけど。この絵ができた時、両親に会いに行って、絵を見せて、それからたくさん話をしたの。」
モデルにしている僕のこと。作品のこと。今までちゃんと家族と向き合えなかった過去を後悔していること。何日も話したあと、彼女は両親の知り合いの画家と、作品の制作旅行に行くことを提案されたという。
「その人と会って、私、ここから出なきゃって思ったの。でも、出る決心がついたのはあなたのおかげ」
私って案外臆病だから。鎌谷に会えてよかったなあ! ラッキーだったよ。そう言って今度は、咲いたばかりの花のように笑った。
僕は腕を抱くようにして身体を守るようにして、こっそりと歯軋りをする。この人は、僕がこれまで思っていた何十倍も、したたかにうつくしく生きる人だったのだ。僕は? 今まで、どう生きてきたんだろう。明日、どうやって、決断をして、そういうのを繰り返して大人になっていくのだろう。恐怖が僕を包み込んで、目の前が真っ暗になる。
「鎌谷は、もう、高校三年生になるんだよね」すぐに、大人になっちゃうね。私なんかすぐ飛び越えていっちゃうような?
「ちがうよ! ……違う」
涙が溢れる。もどかしい。どうして言葉が出てこないんだろう。中原さんは呆然とした後、我に帰ったように固い表情になった。
僕の目を見ている。言葉を待っている。そう感じた。
「まだっ僕は、……何にも、わが、んない。でも、少しずつっ、だよ」
……少しずつ。成人しても、高校を卒業しても、大きく自分の立場が変わったとしても、僕はすぐに身を翻して今までの僕を捨てることがきっと、できない。彼女は目を見開いた後、深く息を吸って、吐いた。
「そうだよね、そう。少しずつ、ゆっくり」
私もそうだったのに、忘れちゃってたな。彼女は小さくつぶやく。波が砂を運んでは、海の方に引きずりこむ。今日は、雲が空に敷き詰められていて、でも晴れ間がちゃんと見える。
「三日後、第一はす池で。多分しばらく会えなくなるけど、きてね」
そう言い残して中原さんは去っていった。ざく、ざく……彼女の砂を踏みしめる音だけが僕の耳に響いていた。