第1話

文字数 4,289文字

 
 自然に足が向くというのは不思議なものだ。
 頭も体も別のことでいっぱいなのに、気づいたら馴染みの古書店の前にいた。戸は薄く開いている。風を通しているのだろう。
 僕は自分が入れるぎりぎりの幅に戸を開け、体を斜めにして滑るように店に入ると、また元通り薄く開けた状態まで戸を閉めた。
 古書店の匂いが好きだ。僕にとっては一番落ち着ける匂いだ。そして場所でもある。
 いつもレジのところで眉間に皺を寄せて新聞を読んでいる店主のおやじさんが今日はおらず、店内には客の気配もない。買い物にでも出たのだろうか。不用心だがこんな所に泥棒に入る奴もいないのだろう。
 常連の僕は以前店番を頼まれたことがあったが、開けっ放しのレジには小銭しか入っていなかった。
 今日ものぞき込むとレジは開けっ放しだ。なんだか少し力が抜けて、自分の口元がかすかにほころぶのを感じた。しかしそれも一瞬のことで、再び強烈な恐れがよみがえり、外から巨人に握りつぶされるような鋭い圧と痛みに、気が遠くなりかける。

 両腕で自分の体を抱くようにして、ようやくフウッと息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。古書が本棚の上にも山積みになっているのが見える。
 今地震がきたらここで死ぬだろうな、と思う。本に埋もれて死ぬ。悪くない。いっそ今すぐ…。僕は何も考えられなくなり、そのまま長い間ジッとしていた。しかし、どれくらい時間が経ったのか…急にコトリと音がして、振り返ってみて驚いた。

 レジのところに人がいる。おやじさんではなく、女だ。
 黒い着物を着た女が、しんなりと座っている。いったいいつ入ってきたのだろう。それとも前から居たのに気づかなかったのか。そんなはずは…。
 女と目が合った。
「こんにちは」
 女が言った。
「あ、こんにちは…。おやじさんは留守ですか?」
 僕の口が勝手にしゃべっている。
「お出かけになりました」
「そうですか…」
 女は自分がどういう立場なのか語らない。そのまましんなりと座ったままだ。女の風情はどこかで見たことがある。そうだ、竹久夢二の絵だ。なで肩のほっそりした形。女の年齢ははっきりとはわからない。二十歳とも四十歳とも言えそうな不思議な風情だ。薄暗い店内に違和感なくなじんで、なにをするというのでもなくただ座っている。
 僕は、それ以上話すことも思いつかず、少し離れて本棚の方に視線を移した。目の端には女が映っている。女を視界から外すと消えてしまうのではないかと気になる。

「なにか気になりまして?」
 急に女がたずねるのでびっくりする。体を柔らかくしならせて僕の方を見ている。その姿勢がまた竹久夢二的だ。黒猫を抱いた女。猫を抱いているわけではないのだが。
「え?、いやあの…」
 口ごもりながら、ああ本のことかと思い至る。
「こちらにはよく来るんですが…目的があってくることは少ないんです。なんとなく古い本を眺めているのが好きで。気になるものが見つかれば買わせていただいています」
「そうですの」
 女は言った。そしてまたしんなりと腰を落ち着ける。

 僕は落ち着かない気持ちで再び本棚に視線をやったが、なにも目に入らない。目の端に映る黒い着物の女が気になる。女は動かない。でもなんだかこちらに注意を向けている気がする。気のせいだろうか。自分が気にしているからか…。
 僕は少し離れて、今度は思い切って女を視界からはずして店内を歩く。
 すると例の恐れがまた戻ってくる。心臓に自分の他の内臓も肉も皮膚もすべてが吸い込まれていくような感覚だ。頭も手足も全部吸い込まれて、心臓だけになった僕がそのままさらに地に吸い込まれていく…。
 足元がぐらぐらとして眩暈を感じた僕は、本棚の下段を見るふりをしてしゃがみ込んだ。

「どうかなさいましたの?」
 女だ。いつの間に近づいてきたのだろう。足音もしなかった気がする。黒い着物の女が、隣にしゃがみ込んで僕の顔をのぞき込んでいる。真っすぐな黒い瞳。
「いえ、あの、本を見ているだけです。大丈夫です」
「そうですか…。ご気分が悪くなられたのかと思って」
 大丈夫だと言っているのに女はまだジイッとこちらを見ている。どこかで見たような、目。
「顔色がわるいですわ」
 僕はあきらめて言う。
「すみません。たしかに少し体調が悪いのです。椅子にかけさせてもらっていいでしょうか」
「ええどうぞ」
 女はレジの横まで戻ると、丸椅子の上に積み上げられていた古書をどかし、僕にすすめた。
女も近くの椅子に座る。

 僕は少し居心地わるくはあったが、さっきまでの恐れは少し遠ざかっている。心臓から解放された僕は軽く息をついて、丸椅子の上でもぞもぞと体を動かした。

「私、好きですの」
「え?」
「古書店って懐が深いというか…、誰でも何でも受け入れてくれる気がして」
「え?ああそうですね、確かに。いつまで居てもゆるしてもらえて。もちろん閉店までですけど。僕はこちらに最長七時間居ましたよ」
 僕は少し笑ってみせた。
「ふふ、私は十時間居たことありますわ」
 女も笑った。
 今のは冗談だろうか。十時間だって?開店から閉店まで、ずーっと居たというのだろうか?
僕が困惑してなんとも返答しかねていると、女は続けた。
「まぁ、こちらの古書店だけかもしれませんけどね。そんなことができるのは。商売っ気のない、いいおじさんですものね」
「あなたはお客さんなんですか?レジの所にいらっしゃったから、ご親戚か何かかと」
「あなたもレジにいらしたことあるじゃありませんか」
「あれは一度だけですよ。というか…、その時いらしたんですか?」

 女は微笑むだけでそれには答えず、耳の後ろにそっと手をやった。おくれ毛を直しているのだろうか。その仕草もまた竹久夢二の絵のようで美しい。そう…美しい女だ。
 とはいえ、この場所には絵に描いたように溶け込んでいるが、街で見かけたら違和感を感じるかもしれない。この女には、まったく現代風のところがない。

 そうだ、ここは日常の場ではないのだ。だから今だけは僕もただ僕で居てもいいはずだ…。
あの強烈な恐れは、まだ少し遠くにいるようだ。遠くから僕の様子をうかがっているが近づいてくる様子はない。
 今だけは、いい。いいことにしよう…。

 日が暮れてきた。
 西日が戸の隙間から入ってくる。暗かった店内の様子が変わる。
 女の瞳にも西日が入る。きらりと光る。光る。光る。光る…。
 宝石を見るように黒い瞳を見ていたので、見つめられているのだと気づくまでに少し時間がかかった。ドキリとしたが視線を外すことができない。
 見ているうちに光の糸でからめとられてしまったようだ。

「お礼を言いたかったんですの」
 女が一瞬だけ光の糸をゆるめ、目を逸らしてゆっくりと襟元を直しながら口を開いた。僕はなにも言えない。言葉が出ない。
「あの時、川に投げ込まれた私を助けてくださったから、八年間生きることができました。本当にありがとうございました」

 助ける?あなたを?いつ?川に投げ込まれた? 声は出ない。

「あなたがここに通われているのを知って、いつもそっと後ろから付いていって見ていました。アパートとお勤め先以外で足が向くのはここと…、あの場所だけでしたね」
 女は再び僕の目を見つめている。

「今日もあなたの後を付けていました。あの場所に入ってしばらくして出てきたあなたは、とても気分がわるそうでしたわ。私は、あなたは古書店に行くだろうと思いましたから、あなたの姿が消えてから、私もあの場所に入ってみました。玄関は隙間が開いていましたから中に入れましたの。ベッドの上で…女の人が倒れていらっしゃいました。その方の頬に触れてみたのですが動かれませんでした。少し爪を立ててもみたのですが、やっぱり動かれませんでした」

 僕の目と口は光の糸でからめとられている。声は出ない。

「でも安心なさって。悪いようにはしませんでした。あなたは私の大切な方ですから。どうぞもう心配なさらないで。これからもあなたの生活は何も変わりませんから…。ただあの場所とこの場所だけは、あなたの世界から消えてなくなります。でもそのことさえあなたは忘れてしまいますから、辛くはないはずです」

 女の目が少し細くなる。店内は少しずつ暗くなっている。

「そうするために私は、私の十年分の命を引き換えにしました。でも、そもそもなかったはずの命をいただいて八年間生きられたのですから十分ですわ。それにこうして最後にあなたと…」
 残照が女の顔に影をつくる。女の手が僕の頬に触れる。その手のしっとりとした冷たさを感じながら美しい顔をじっと見ているうちに、女の顔も古書店内も完全に暗くなった。日が暮れたのだ。

 光の糸が僕の目と口からほどけた時、女の姿は消えた。
 と同時に一匹の黒猫が戸の隙間からするりと抜け出ていった。僕はよろめきながら立ち上がり、戸を開けて猫を追おうとした。

 思い出したのだ。
 あの時の黒猫だ。

 八年前の夏、僕がまだ大学生だった頃、どこかの酔っぱらった男が川に投げ込んだ袋から、ニャーニャーと猫の鳴き声がして、僕は思わず川に飛び込んで猫を助けたのだ。
 アパートでは飼えなかったから、河川敷に置いたリンゴ箱に入れてしばらくエサもやっていたが、ある日いなくなってしまった。

 あの猫、あの猫が? 十年分の命? 
 あの場所とこの場所が、世界から消えてなくなる?
 どういうことだ?


 しかし、外に飛び出した瞬間、僕はなにも考えられなくなった。
 真っ白に。消えた。なにかが消えた。
 でも、なにが消えたのかわからない。なにがあった?なにをしようとしていた?

 夜だ。真っ暗だ。まだ月も出ていない。
 後ろを振り向くと、そこは雑草が生えた空き地になっていた。
 ただ、名づけようのない何かが、どこかからじっと見ているような、頭の先から足の先までがざわざわと揺れて、僕は途方に暮れてその場所に立ち続けていた。

 僕はなぜここにいるんだ?
 ここからどこに行ったらいいのかわからない。
 これからどうしていいのかわからない。
 大切な何かを失くしてしまったような、取り返しのつかない呆然とした気持ちだけがそこにあった。

 ……

 彼が立ち尽くしている場所からわずかに離れた空き地の草むらには、黒猫がひっそりと横たわっている。
 ようやく昇りかけた月が、薄く開いた黒猫の瞳に慈しむように光を投げかける。
 猫は光を受け取ると、最後のため息をつき、彼の罪を抱き締めたまま静かに目を閉じた…。


 一方、途方に暮れて立ち尽くす彼には、月の光は届かない。
 闇に閉ざされた心には

 永遠に届かない。



おわり

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