第1話

文字数 1,990文字

 初めて見た遺骨は母方の祖母のものだった。まだ六十代の若さだったが、病に倒れた祖母は体調を崩しがちになり、晩年は入退院を繰り返していた。
 訪れた病室での祖母は、痩せこけて生気がなかった。小柄ながらもツイードのジャケットをすらりと着こなす粋な姿が、私の脳裏に強く残っている。変わり果てた姿に、目を合わせて話すことも難しかった私は、母がせわしなく身の回りの世話をする横で、窓の外のクスノキばかり見て面会時間をやり過ごした。
 そのまま祖母は亡骸となって、棺桶の中に収まった。
 私は高校生になったばかりだった。それまで葬儀に参列したことはなく、焼き場に来たのも初めてだった。通夜の間も、式の最後に花を手向ける際にも、祖母はそこにいた。眠っているだけのようだった。息を引き取ろうとも肉体がある限り、祖母の存在は確かに感じられるものだった。
 本当に焼いてしまうのだろうか、私は不思議でならなかった。涙がこみ上げる、というわけではなかったが、ここで叫び、吐き出してしまわなければ一生後悔するような、激しい感情のかたまりが喉のすぐそこまで迫ってきては、私の身体を小刻みに震わせていた。
 葬儀場では祖母に話しかけたり、嗚咽を漏らし別れを惜しんだりしていたにもかかわらず、大人たちは突如慣れっこ、みたいな空気を漂わせ始める。私はひとり不安と怖れを抱きながら、火葬炉の扉の奥に消えていく祖母を見送った。
 ところが、再度熱を帯びた骨となった祖母と対面した時、驚くと同時に、私はひどく安心したのだ。
 なんて美しいのだろう、と。
 潔癖で自責的な持って生まれた性質に加え、思春期特有の憂鬱が、世界の素晴らしさや輝かしさよりも、汚さや醜さの方ばかりに私の目を向けさせる。私は日常を生きるのにも困難を抱えていた。自身に向ける視線も厳しいものとなり、はれぼったいまぶたや低い鼻などといった容姿に対しては当然のこと、同調圧力に屈するあざとさや不特定多数に紛れ込む狡猾さなどに、我ながら耐え難い思いを抱いていたのだ。
 結束をより強固なものにするために交わされる陰口や噂話、嫌だと思っても止めよう、と言う勇気もなければグループを抜けて一人で過ごす根性もない。
 行き着くのは、最も汚らわしいのは私自身だ、という結論で、それはひどく私を苦しませもしたが、無理解に基づく心無い反応が返ってくる可能性に怯え、誰かに相談することもできなかった。一人で向き合う作業は辛く、いつしか私の主語は大きくなる。
 醜い、人間は醜い、汚い、この世は汚い、私は心の中で唱え続けていた。想念はそのまま世界を形作る。私の世界は邪悪を寄せ集め、十六年目にしていよいよ生きるに値しないものへ変貌を遂げようとしていたのだ。
 それなのに目の前の祖母の骨は清らかでとても美しかった。
 何もない、と私は思う。痛い痛いとさすっていた筋もなければ痩せ衰えた肉もない、苦痛に歪んだ表情もなければ、寂しそうな背中もなかった。
 そこには無だけが広がっていた。
 骨粗鬆症にも罹患していた祖母の骨は脆く、つまむはしからほろほろと崩れていったが、それでも穢れなく白く、安らかだった。
 こんな風に骨にしてもらえるのなら、と私は考える。
 多少醜かろうが、生きていてもいいかもしれない、最後はちゃんとあんな綺麗な骨にしてもらえるのなら。
 私は生きることを許された気がした。
 純粋で難しいことなどないはずなのに、複雑でやっかいに感じられるこの世の(ことわり)を、祖母が自ら身をもって示してくれたかのようだった。渦を巻いていたこみ上げてくる感情は霧散し、ただ感謝だけが溢れる。私は安堵に包まれながら、ぐるぐると台の周りをまわっては箸を受け取りお骨を拾った。
 火夫(かふ)は細心の注意をもって骨壷に収まった祖母の喉仏を座らせる。最後に頭蓋骨がかぶせられ、ことり、と蓋が閉まって静かになった。


 冷蔵庫に祖母がいる。牛乳を出そうとする度、あれ、おばあちゃんどうしてこんなところにいるの、と思う。小さなチャック袋に収まって、ピカチュウのマグネットで扉に留められている。正確に言うとそこにいるのは祖母ではなく、祖母の遺骨だ。小指の爪ほどの、小さな白い欠片。
 母はあの日、骨壷に収まりきらなかった台の上に残った骨をくすねてきた。帰宅して、このちょっとした暴挙が父の知るところとなった時母は、肌身離さず持っていたかっただけだ、今はペンダントにしてくれるサービスがある、などと釈明した。祖母はペンダントにならずに冷蔵庫にずっといる。
 こんなところにはりつけられて、祖母はどんな風に思っているのだろう、と、疑問に思わなくもないが、母も私もこうして毎日会えるし、これはこれでいいという気がしている。キッチンを行き来するたび祖母が目の端に映ることは、もう私の日常に溶け込んでいて、私は意識せずとも今日も勢いよく冷蔵庫の扉を開ける。
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