文字数 2,000文字

物心ついた時から、慧はいつも隣にいた。慧はいつも僕に命令し、それは僕の心臓にほろ苦くて甘い痺れをもたらす。この声にだけ従えばいい心地よさ。
でも、そのうち慧の周りに人が増え、僕の入る隙間はなくなった。けれど、僕の心の大部分は既に慧に占領されて、会えないほどに僕の中身は欠けていき、慧への思いは募った。

慧、僕だけを見て。

「その願い、本気で叶えたい? 対価と引き換えに望みを叶えよう」

思わず口をついた呟きに、悪魔が応えた。
僕は願った。慧と一緒にいたい。そんなこと起こるはずがないと知っていたから。

「対価は関係が終わるまでの見物、途中下車は禁止。どう?」

悪魔は口角を上げて暗く笑い、返答を促す。魂はいらない?

「そんな役に立たぬもの、もらったって仕方ない。契約は成立。君の望む慧を」

最初、僕は浮かれた。
朝、慧と話し、ご飯を食べてデート。なんて幸せ。僕の心は満たされた。偉そうな慧、微笑む慧。どの慧も可愛い。1日は風のようにすぎ、明日が待ち遠しい。
でもすぐに、僕は気づいた。慧が僕が望む通りにしか動かないこと、瞳から夜空に輝く一等星の瞬きが失われたこと。夕焼けで朱色に染まった慧の横顔にキスしたいと見惚れていると、慧はこちらを向いてゆっくりと瞳を閉じた。

強烈な、違和感。
慧じゃない。僕の慧はこんなことはしない。そもそも慧は僕に優しくないし、望みなんて聞いてくれない。幸せな時間を終わらせたくなくて目を瞑ってた。けど、もう耐えられない。
僕は逃げた。

「全く愚か。君だけを見る慧。そんなものはそもそも存在しうるのか? 本当の慧は君を好きになる存在なの? これが君が望んだ『慧』」

慧が僕だけを見るはずがないことはわかってた。遠くから見るだけで満足していたのに、僕は悪魔に誘われるまま契約した。

「違う、僕はもとの慧が好き。願いは叶わなくていい。僕の好きな慧を返して」

「途中下車は禁止」

ニッと笑って悪魔は消えた。

そこからは、地獄の始まり。
僕は慧が大好きで、気持ちは止まらない。だから『慧』は僕と一緒にいてくれて、目の前の『慧』は僕に微笑み、僕を誘い、笑顔で僕の大好きな慧はお前が消し去ったんだと僕を責めたてた。
ごめんなさい、許して、慧、大好き、もう一度会いたい、声が聞きたい。

いつからか、涙が止まなくなった。過呼吸でうまく息もできない。
僕と会う慧は、僕の様子など気にもせず、僕が望み、望まぬままに、微笑み語りかける。
僕の好きな慧は僕に微笑まない。止まらない涙を抑えて青い顔で話を聞く僕と、優しく話を続ける『慧』。僕らは周りからはさぞ奇妙に見えただろう。
大好きな慧、僕が壊した慧。僕の目の前にいる君は誰? 慧を返して?
『慧』はにこりと僕に微笑む。

食べ物も喉を通らなくなった。
罪悪感に押しつぶされる思考、茫洋とふらつく頭、途切れない嘔吐感。僕は動けなくなり嘔吐を繰り返す。えずいても胃液と血以外何も出ない。乾ききった唇。湿って貼りつく濁った汗。部屋から出られなくなり、代わりに、変わり果てた『慧』は会いたいという僕の気持ちに呼応して僕の部屋を訪れる。『慧』は変わらず僕に微笑み、慧の消失を執拗に、残酷に僕に悟らせた。
大好きな慧。会いたい。気持ちが止まらない。『慧』じゃない、会いたくない、苦しい、ごめんなさい。大好き。助けて。

「大丈夫か?」

『慧』とは違う、少し冷たい声が響く。本物の慧の声? 幻聴?
目を開けると『慧』が微笑んでいる。
そんなことが、何回か。意識が混濁する間際、本物の慧の声がする。これは僕の望みを『慧』が叶える呪い。だから望まなければ慧は元に戻る? でも、機能不全な僕の頭は慧のことばかり。いっそ死のうと包丁を手首に当てた時、途中下車は駄目、と悪魔が囁き体は動かなくなった。
僕のせいで、慧は壊れたまま。慧、ごめん。頭にぐゎんぐゎんと変な音が鳴り響く。このまま完全に壊れれば、慧は自由になるかな。

あれ? 何だっけ。そうだ、慧。『慧』が僕の頭をなでていた。大好き、気持ちいい。でも、慧はそんなことしない。気持ち悪い。息苦しい。古い記録映像のように全てが曖昧。『慧』が僕の頬に手を触れる。冷たくて気持ちいい。でも慧はそんなことをしない。慧、会いたい。好き。これ以上僕の慧を壊さないで。あれ、慧ってなんだっけ? 『慧』が僕の頬にキスをする。やめて。

「私も玲が好き」

嬉しい、でも、これは僕の妄想で願望で。溢れた涙が視界を奪う。許して、お願い。唇が近づく。やめて、そんなこと望んでない、はず、多分。でも。嫌だ、慧、やめて。大好き、キスしたい。でも、唇が僕に触れてたら慧は永久に戻ってこない、そんな気がする。でも、キスしたい。でも。心が引き裂かれる。助けて。僕が大好きな、慧

イっやぁ…

意識は、途切れた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み