第二話「―彷徨える吸血鬼―その②」

文字数 3,000文字

 僕は『天国への扉』をつかむとマウンテンバイクに乗り、全速力で丘を下った。
 うねっている道の先に、鍬を担いで歩いてくる農夫の姿が見える。
 僕は大声で叫ぶ。
 「おーい!おーい!すみません」
 農夫は日に焼けたひげ面を、奇妙そうにこちらに向けた。
 「空!空、見ましたか!」
 「空?」
 「いきなり真っ暗になって、人が浮かんでましたよね!それも、普通の人じゃあなくて、「吸血鬼」が!」
 農夫は一瞬ぎょっとしたようだったが、にっこりと笑い、少し緊張した口調で、返事を返す。
 「ああ、見たよ。そうだよな、空に人が浮かんでたよな」
 そう言うと、一目散にもと来た道を走り、帰っていってしまった。
 まずい。
 危ない人だと思われたようだ。
 またマウンテンバイクを走らせる。
 次に出会ったのは、青いエプロンドレスの女の子だ。黒色の長髪で、お人形を手にスキップしてくる。あの子だったらあれを見ていたかもしれない。
 僕は、今度はできるだけ優しく問いかける。
 「空に浮かぶ人を見たかい?」
 見る間に女の子の顔は歪み、人形を胸に抱き抱え、しくしく泣き出した。
 誰も見ていないのか。
 僕は愕然として辺りを見回した。
 あのとき僕の近くには誰もいなかった。
 では、あれを見ていたのは僕だけなのか。
 農夫も女の子も、誰一人としてあの光景を見ていないのか。
 僕は叫びそうになって頭を抱えた。
 僕は確かに見た。
 空に浮かぶ吸血鬼を、確かにこの目で見たんだ!
 
 懸命にマウンテンバイクを漕いで杜王町に戻る。向かうのはもちろんピンクダーク先生の研究室だ。
 杜王町の大通りには自動車と通行人がごちゃ混ぜに行き交い、空には飛行機が悠々と飛んでいる。
 お金持ちの中には、自家用飛行機を持っている家もあり、機械文明が飛躍的な進歩を遂げようとしている今、杜王町は過去と未来が交錯する奇妙な町になっている。
 笑顔で町中を行き交う人々は、あの光景を目撃していないのだろうか。
 否。ひとたび「あれ」を目撃したら、普通の状態でいられるはずがない。僕のようにパニックを起こすことは必至だ。ひとりひとり道行く人を捕まえて、飛ぶ人を見ましたかと問い詰めたかったが、変人扱いされるのは目に見えている。
 爆発しそうな気持ちを抑え、僕はピンクダーク先生のもとに急いだ。
 杜王町の市街を外れた林のなかに、ピンクダーク先生の研究室はポツリと存在する。
 この林はいつも、奇妙な静けさに覆われている。奥に入っていくとますます、静けさの密度が濃くなってゆくような感じがする。僕のマウンテンバイクの走る音が、地面に吸い込まれていくような気がした。
 古びたレンガ造りの建物の階段を駆け上り、ノックするのも忘れ、研究室のドアを激しい音を立てながら開く。
 「先生!」
 僕は大声で呼びかける。
 暮れゆく前の弱い日差しが、研究室を薄明るく照らしていた。
 古代エジプトのタロットカードや奇妙な文字の刻まれたギリシアの彫刻、クマのヌイグルミやヒヨコのおもちゃなど、雑多な宝物やがらくたのなかで、ピンクダーク先生はにこにこしながら椅子に座っている。
 柔らかな物腰と、まるで人形のように整っている笑顔をしており、トレードマークのシルクハットと、アイロンがきれいにかけられている白いスーツに、白いマントを身に付けている。
 身長は一六〇センチほどだが、姿勢が良いせいで、貧相な感じはなく、むしろ良い家の生まれのように見える。
 これがピンクダーク先生の全体像だ。
 「やあ、康一くん。どうしたんだい、凄く慌ててるようだが」
 「とんでもないことが起きたんです。あまりに奇妙な出来事なので、信じてもらえないかもしれませんが」
 「康一くんの言うことを信じないわけがないじゃあないか。なんでも話してごらん」
 ピンクダーク先生はやさしく、僕を励ますように言ってくれた。
 僕は深呼吸をひとつしてから、勾当台で目撃した、空飛ぶ奇妙な物体のことを話した。
 だが、詳しく状況を説明するうち、だんだん妙な気分になってきた。
 確かにこの目で見たことなのに、それを言葉として口に出すと、とんでもなく馬鹿げたことのように思えてくる。だいたい人が突然現れたり、消えたりするわけがないじゃないか。
 それにもかかわらず、ピンクダーク先生は凄く真面目に話を聞いてくれた。
 「では、突然黒雲が空に湧き出て、人が現れたと言うのだね」
 「はい」
 「そして、その者を照らすように、白い光が走った」
 「はい」
 僕は力なく答え、うつむいた。あり得ない。
 空に浮かぶ人も、白い光も。
 ピンクダーク先生は顎に指を当て、黙って考え込んでいる。
 僕はなんだか、先生に申し訳なくなってきた。
 益のない嘘、口から出任せ、まるで法螺吹き男爵になった気分だ。
 僕はしゅんとして、「もういいです」とピンクダーク先生に言いかけた。
 きっと夢を見ていたんだ。
 こんなことで、ピンクダーク先生を煩わせてはいけない。
 そのとき、ドアのところで音がした。なにかと思って行ってみると、白い封筒がドアの下に差し込まれている。
 「先生。手紙が来てます」
 僕は封筒をピンクダーク先生に差し出した。先生は封筒を裏返して、意外そうに言った。
 「ああ!空条博士からじゃないか」
 手紙の主である空条承太郎博士は、ピンクダーク先生の友人に当たる。
 いつも白い帽子と白いロングコートを身に付けている海洋学者で、威張ったところはないが、少し気難しい人だ。
 封を切り、手紙を読み進めるうちに、その表情が真剣になっていく。
 いったい空条博士からの手紙に何が書いてあるのだろう。見守る僕も落ち着かない気分になる。
 ピンクダーク先生は読み終わると頭をあげ、きっぱりと言った。
 「康一くん、これから空条博士のところに行くよ」
 突然の決断に、僕は驚く。
 「いきなりどうしたんですか。博士の身になにか起きたんですか」
 「いいや。だが、康一くんが見たものの答えが分かるかもしれない。どうやら君と同じ経験をした人が、他にもいるようだよ」
 「なんですって!」
 
 僕たちはさっそくタクシーに乗り込み、杜王町市街にある空条博士の研究室に向かう。杜王町の街路は複雑だ。さらに人と車が混雑しているため、ひどい交通渋滞が引き起こされる。
 僕たちが乗っているタクシーも一度ならず渋滞に巻き込まれたが、ようやくそれを抜け、タクシーは快適に走り出した。
 並木道がうっすらと山吹色に色づき始めている。杜王町の春は美しい。もうすぐピンクやオレンジ、赤などさまざまな色が道の両側を埋め尽くすだろう。
 研究室に向かう途中、ピンクダーク先生は空条博士から来た手紙の内容を話してくれた。なんでも、空条博士の旧い友人にして、民族仮面の収集家であるディオ・ブランドーというイギリス人が、杜王町と都内を行き来する列車から忽然と姿を消してしまったという。
 「列車の個室には、空条博士あての手紙が残されていた。ブランドー氏は列車に乗っていたときに、とんでもないものを見てしまったらしい」
 「とんでもないものって、一体なんですか?」
 ピンクダーク先生は、窓の外を眺めながら言った。
 「空に浮かぶ人だよ」
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