告白
文字数 6,075文字
眠りの深海から、ゆっくりと意識が浮上する。
ああ、冷え込んだから寒くて目がさめたのかと、真琴はぼんやりと考えた。
一組しかない布団を聖とわけあっているから、取り合いに負けたんだなと苦笑する。
何もかけられていない肩口が痛いほどに寒くて、布団をとり返そうと伸ばした腕が、衝撃に止まった。
(なん……で)
内腿を這う、柔らかく濡れた感触に、背筋を冷たいものが伝う。
恐る恐る布団をめくると、腹のあたりに聖の髪が見えた。
「聖……」
かけた声は、緊張にかすれていた。
腰のあたりにある明らかな違和感に、戸惑いと恐怖は急速に膨らむ。
「おい、聞こえてるんだろ、やめろ」
動揺を隠したつもりで震えを押し殺し、それでも慎司に聞かれてはならないと、真琴は必死で声を制御する。
けれど応えたのは、強さを増した愛撫だった。
「ひぅ……っ」
下着ごとスウェットパンツが下げられているのを、信じられない思いで確認すると、真琴は手加減なしで聖の髪を掴む。
引き剥がそうとする真琴の力に抗うように、聖は更に深く、真琴の性器を口中に沈めた。
自分の身になにが起こっているのか、真琴は混乱する思考をなんとかまとめようとした。
けれど、どんな理屈や可能性も、これが性行為だということを否定してはくれない。
「やだ……やだ、やめろっ」
誰にも触れられたことのない若茎を、聖の舌が執拗になぶる。言われているような快感など感じなかった。
熱と、時折当たる歯の硬い感触が、真琴の恐怖心をあおる。腹のあたりを抑えつけた聖の腕が、想像もできないような力で真琴を抑制していた。
「やめろ……なんで、こんな」
「…………ぃ」
聞きなれない声に、真琴の身体がビクリとすくむ。
それが、焦がれるほどに待っていた聖の声だとは、にわかに信じられなかった。
「ぉ…れ、ぃ」
荒い呼吸音に、ほとんど吐息のような発声が混じって聞き取りにくかったが、真琴にはそれが『お礼』に聞こえた。
絶望的な気分だった。
もし聖が真琴に『好き』だと言ったのなら、行為そのものを許すことはできなくても、気持ちまで否定する気にはならなかっただろう。
真琴も慎司に対して、やましい気持ちを持っていないといったら嘘になる。
けれど、こんなだまし討ちの卑劣と言ってもいいようなことを『お礼』だという聖の言い分を認めることはできなかった。
きつく吸われても、痛み以外を感じることはない。
頭の中で、裏切られたという思いと、そんなはずはないという弱々しい否定がせめぎあう。
眠りにつく前に慎司とかわした会話が脳裏に浮かんで、息が止まりそうなほど苦しかった。
「やめろ……っ」
この細い身体のどこにと思うほど、真琴を抑えつける聖の腕の力は緩むことがない。
けれど真琴もがむしゃらに抵抗した。男が男に力負けしたなど言い訳にもならないと、必死だった。
「うるせえ!夜中になにやってる!」
慎司の怒鳴り声が耳に届いたとき、真琴が感じたのは通り一辺の言葉では表せない感情だった。
安堵、後悔、恐怖と恨み、そして諦め。
終わりの日がくることを畏怖しつつも、見ないふりで済ますことができるほど真琴は楽観的ではなかった。けれど、真琴が何度も思い描いたイメージとは全く違う状況に、混乱の後、なにも考えられなくなる。
開け放った引き戸の先、居間の灯りを背にして、慎司の表情を窺うことはできない。でも、もし真琴が平均以上の楽天家であったとしても、半裸で拾い子に組み敷かれている光景を、慎司が笑って見ているとは思えなかっただろう。
現実はいつも、想像より遥かに残酷だ。
普段、真琴の部屋に入ることのない慎司が、はだけられた掛け布団を踏んで近づくのを、真琴は泣きたいような思いで見つめる。
慎司は黙って聖の後ろに立つと、襟首を掴んで真琴から引き剥がした。そのまま突き飛ばされた聖が、壁にぶつかって鈍い音を立てる。
横倒しになった聖の上に慎司が馬乗りになり、拳を振り上げるのを目にして、真琴はとっさに慎司の腕にしがみついていた。
「慎さん、だめだ!」
真琴の呼びかけにも、慎司は無言のままだった。慎司の下で、聖ははっきりと分かるほど震えている。
「ふざけんな! 一発殴らせろ……それとも合意か?」
慎司の吐き捨てるような言い方に、真琴は違うとかぶりを振る。
「そんなこと、あるわけない」
喘ぐように呼吸を継ぎながらの真琴の告白を、慎司はどんな気持ちで聴いたのだろうか。
しがみついた腕の中で、慎司の筋肉が固く盛り上がる。何かをこらえるように、ギリギリと歯を食いしばる音が聞こえた気がした。
真琴がやっと、慎司のほうに視線を向けると、慎司は左手で目元を押さえていた。
泣いているようだと、真琴は思う。
慎司が泣いている?何のために?誰のために?
「……くそ」
唸るようにそう口にして、慎司は聖の上から退いた。
力をなくして自分の手の中から出ていこうとする腕を、真琴は引き止めるように掴む。けれど慎司は、ためらわずに真琴を振り払った。
上着を取って家を出ていく後ろ姿を、動くこともできずに見送ってしまってから、真琴は我に返った。
ここで言い訳もしなかったら、考えうる中で最悪の結果を招くのではないか。
そう思うと居ても立ってもいられなかった。
乱れた服をざっと直し、コートを着こむ。
聖はまだ壁際に転がっていたけれど、かまっていられなかった。
「聖、お前どこにもいくなよ! 帰ったら説教だから覚悟しとけ!」
そう言い置いて玄関を出ると、およそ現実的ではない銀世界が広がっていた。
雪が音を吸い取るのか、かすかな音さえ聞こえないような静寂の中、ぽすぽすと新雪を踏む音だけが響く。
吐く息がいつもより白く感じる。足首まで埋もれそうに積もった雪が、靴の中に入り込んで足を濡らす。裸足の足指は、すぐにかじかんで痛くなった。
けれど真琴は、目の前に続く慎司の足あとを見つめて歩き続ける。
ホワイトクリスマスなんて、何の役にも立たないと思っていた。雪なんて不都合ばかりが多くて、事故でも起こった日には、現場では命に関わる。
けれど、街灯の灯りを反射してぼんやりと浮かび上がる靴あとに、慎司の居場所を教えられながら歩いていると、今日の積雪に感謝したくなった。
しばらく歩くと、思ったとおりに、アパートから離れた駐車場のバンの中に、慎司の姿はあった。
薄く積もった雪を払い、助手席側のサイドウインドウを、軽くノックする。気づいているはずなのに、慎司は真琴の方を見ようともしない。
怯みそうになる気持を奮い立たせて、真琴はドアを開けた。
ロックされていなかったことに、少しだけほっとする。
「入っていい?」
慎司は答えなかったが、無言を了解と解釈して、真琴は助手席に身体を滑り込ませる。
煙草と機械油の匂いが染み付いた車内は、以前と同じように散らかっていた。
「はは……相変わらずきたねえ」
慎司と現場に出ていた頃、真琴もこの車に乗って短くない時間を過ごした。
雨だったり、寒かったり暑かったりする時期は、食事をとるのさえこの車の中だった。
もうずっと前の事のような気がするのは、何かを諦めたからなのだろうかと、真琴は自嘲する。
カチリとライターの音がして、紫煙が漂いはじめる。慎司が何かを言うのをためらうときの癖だ。一服つける間は、黙っていることが苦痛でないから……。
「ぼうずは?」
「動かないから置いてきた」
フロントウインドウに降り積もった雪が視界を遮って、外界と車内を隔絶している。視線はその雪に預けたままで、慎司は溜息のように大きく息を吐き出した。
「なんで……あんなことになった?」
ようやく、といった様子で慎司が疑問を口にする。努めて冷静に話をしようという態度が見て取れる分、真琴は苦しかった。
もちろん真琴が望んだわけではない。けれど聖を拾わなければ、そもそもこんなことは起きようはずもなかった。
恨み言になりそうな言葉を、真琴は慎重に択ぶ。
「普通に寝てただけだ。いつもみたいに」
寒さのせいか緊張のせいか、語尾が震えるのを止めることができない。
「目が覚めたら……もう」
慎司の手の中で、煙草の箱が握りつぶされる音が聞こえる。
嫌悪されていると思うと、唇から全身に戦慄が走る。けれど、言い訳と思われても、慎司には事実を伝えなければと、真琴は言葉を続けた。
「お礼だって。あんな状況でお礼だってさ……。聖、喋ったんだ」
真琴は、どんなに辛い目にあっても、悔しい時でも、慎司の前で泣いたことはない。泣くことで解決する問題などないことを、身を持って知っていたから。
けれどいま、そんなこととは関係なく、こみ上げる嗚咽に胸を塞がれそうで声が詰まる。
一連の出来事が全て夢で、なにげない日常のなかで聖の声が聴けたのなら、どんなにか嬉しかったことだろう。
「なんで庇った」
慎司が低くつぶやく。
「だって、殴ったら、いつも聖を殴ってた奴らと同じになるじゃん」
おそらく聖は、真琴に拾われるまで日常的に暴力に晒されて生きてきたのだろうと思う。そうでなければ、真琴も声をかけようとは思わなかった。
「慎さんが、そこまで堕ちること、ない……」
笑おうと思った。何でもないことのように言わなければとも。
だから無理に笑顔をつくろうとしたが果たせず、真琴は慎司から顔を背けるしかなかった。
「前に、俺の腹の傷のこと訊いたろ?」
また、煙草に火をつける音が響く。
「俺んちも親が暴力振るう家でさ、お決まりみたいにガキの頃からぐれて、家ん中はめちゃくちゃだったよ」
慎司の告白に真琴の胸は痛む。寝食を共にしていれば、お互いに家族との縁が薄い人生なのだと、わかっていたから。
「何だったかなあ、姉ちゃんが工面してくれた学校の金かなんかを親父が持ちだそうとして」
慎司はそこで一旦言葉を切ると、自嘲に紛れ込ませるように、真琴に訊いた。
「お前は知ってるかねえ……後暗いところがある奴は、外から見えないところを殴るんだよ。で、俺も腹を殴られて、内臓に傷がついて手術したわけさ」
沈黙の後、慎司の深いため息が聞こえた。
「虐待されて育つと、簡単に暴力を振るう人間になるって言われてるだろ? だけど自分だけはそうなるまいと思ってた。現場でも、他人に手を上げたことは一度もない。だけどなあ……さっきは我慢が出来なかった」
生理的、本能的な嫌悪を考えれば、慎司が我慢出来なかったと言うことは最もだと、真琴でさえ思う。けれど、心の中でその罪を犯しているのは、ほかならない真琴自身だ。
存在の否定……恐れていたことが、現実になりつつある。
「聖がなんであんなことしたのか、本心は誰にもわからないと思うよ」
声を出すのがこんなにも苦しいのかと感じながら、真琴は続けた。
「でも……強要されてたんだと思う。代償として」
自分自身に言い聞かせるように、あえて静かに、真琴は言葉を吐き出す。
「聖がそんな風に思ってたなんて、考えもしなかったけど」
認めるのは辛かった。
同じ痛みを持つ者同士、ささやかな安寧を分け与えたいと、真琴は思っただけなのだ。
自分は幸運にも慎司と出会った。だから聖もいつか、真琴と出会ったことで救われたと思えればいいと、それだけを考えていたのに。
しゃっくりのように真琴の喉が鳴る。
「……泣くなよ」
慎司の手が、真琴の髪をかき混ぜる。
泣いてなどいないと、反論しようとしてやめた。
今夜を限りに、この温もりを永遠に手放すかもしれないと、真琴は感じていた。
一度目にした光景を、人は簡単に忘れたりはしない。それが衝撃的なものであればなおさらだ。
これが罰なら、甘んじて受け入れるしかないのだろうと、真琴は半ば投げやりな気持で、慎司が髪をまさぐるのを許した。
失くしたくないと思うものほど、たやすく手を離れるものだから。
「くそ……違うんだ。ぼうずに嫉妬したんだよ。情けねえ……」
苛々とライターをいじる音が、車内に響く。
「ずっと俺のもんだと思ってた。なのに、あんなガキに先越されて」
慎司の言葉が文字の羅列となって、真琴の鼓膜を揺らす。思いがけない告白に、真琴の心はむしろ凪いだままだ。
「なあ……俺となら、できるか?」
語尾が疑問形なのはわかる。けれど真琴は、すぐには質問の意味を理解出来なかった。
「で、できるって、何を?」
なんとか答えた真琴だったが、一瞬後には、答えたことを後悔していた。
問われたことがどういうことか理解するに連れ、急速に頬が熱くなる。鏡など見なくても、顔が真っ赤になっているのがわかった。
「慎さん……それ、俺に訊くことなの?」
真琴は耐え難い羞恥に、両手で顔を覆った。慎司の指が、ぎこちなく髪を梳いて降りてくる。
肩を掴んで向き合わされ、座席のきしみで、慎司が近づいてくるのがわかる。すぐに、目元を隠した真琴の指に、くちづけを感じた。
「マコ……」
名前を呼ぶ慎司の声が、恐らくは情欲にかすれている。指の隙間をこじ開けるように舌で探られて、くすぐったさとは違う何かに、真琴は戦いた。
ゴツゴツと荒れた慎司の手が、顔を隠した真琴の手首を捉える。ゆっくりと、けれど抗いがたい力で開かれ、真琴は固く瞼を閉じる。
湿った感触が唇をかすめ、緊張に耐えきれなくなった真琴の身体から、こわばりが消える。それを待っていたかのように、熱いぬめりが、口腔に侵入してきた。
歯列を走査していた慎司の舌が、驚くほど繊細な動きで真琴の舌に触れる。嗅ぎ慣れた煙草の匂いに、それだけで全身を愛撫されたような目眩を感じた。
真琴にとって初めてのくちづけという訳ではない。
けれど、求め続けて得難さに身悶え、失う恐怖に絶望した相手との初めての交歓は、真琴を夢中にした。
うるさいほどの、互いの呼吸音。なめらかに擦り合わされる熱。雪に閉ざされた空間で齎される温もりに、真琴は翻弄される。
「後ろに……移動するか」
慎司のつぶやきに、真琴は必死で頷いた。
もう二度とこの手を離したくないと絡めた指を、苦笑とともに慎司にほどかれて、真琴は心もとなさに震える。
すっかり弛緩した身体を座席に預けていると、一旦外に出た慎司が、強い力で雪あかりの中へと導く。
この世界にふたりきりで取り残されたような静寂の中、真琴は慎司に抱きしめられる心地よさに酔わされる。
人目を気にする余裕などなかった。
スライドドアの開閉の音が、必要以上に大きく感じられてビクリと身体をすくめた真琴だったが、後部座席に横たえられる頃には、再度のくちづけと、こんどこそ本当の愛撫に脱力するしかなかった。
ああ、冷え込んだから寒くて目がさめたのかと、真琴はぼんやりと考えた。
一組しかない布団を聖とわけあっているから、取り合いに負けたんだなと苦笑する。
何もかけられていない肩口が痛いほどに寒くて、布団をとり返そうと伸ばした腕が、衝撃に止まった。
(なん……で)
内腿を這う、柔らかく濡れた感触に、背筋を冷たいものが伝う。
恐る恐る布団をめくると、腹のあたりに聖の髪が見えた。
「聖……」
かけた声は、緊張にかすれていた。
腰のあたりにある明らかな違和感に、戸惑いと恐怖は急速に膨らむ。
「おい、聞こえてるんだろ、やめろ」
動揺を隠したつもりで震えを押し殺し、それでも慎司に聞かれてはならないと、真琴は必死で声を制御する。
けれど応えたのは、強さを増した愛撫だった。
「ひぅ……っ」
下着ごとスウェットパンツが下げられているのを、信じられない思いで確認すると、真琴は手加減なしで聖の髪を掴む。
引き剥がそうとする真琴の力に抗うように、聖は更に深く、真琴の性器を口中に沈めた。
自分の身になにが起こっているのか、真琴は混乱する思考をなんとかまとめようとした。
けれど、どんな理屈や可能性も、これが性行為だということを否定してはくれない。
「やだ……やだ、やめろっ」
誰にも触れられたことのない若茎を、聖の舌が執拗になぶる。言われているような快感など感じなかった。
熱と、時折当たる歯の硬い感触が、真琴の恐怖心をあおる。腹のあたりを抑えつけた聖の腕が、想像もできないような力で真琴を抑制していた。
「やめろ……なんで、こんな」
「…………ぃ」
聞きなれない声に、真琴の身体がビクリとすくむ。
それが、焦がれるほどに待っていた聖の声だとは、にわかに信じられなかった。
「ぉ…れ、ぃ」
荒い呼吸音に、ほとんど吐息のような発声が混じって聞き取りにくかったが、真琴にはそれが『お礼』に聞こえた。
絶望的な気分だった。
もし聖が真琴に『好き』だと言ったのなら、行為そのものを許すことはできなくても、気持ちまで否定する気にはならなかっただろう。
真琴も慎司に対して、やましい気持ちを持っていないといったら嘘になる。
けれど、こんなだまし討ちの卑劣と言ってもいいようなことを『お礼』だという聖の言い分を認めることはできなかった。
きつく吸われても、痛み以外を感じることはない。
頭の中で、裏切られたという思いと、そんなはずはないという弱々しい否定がせめぎあう。
眠りにつく前に慎司とかわした会話が脳裏に浮かんで、息が止まりそうなほど苦しかった。
「やめろ……っ」
この細い身体のどこにと思うほど、真琴を抑えつける聖の腕の力は緩むことがない。
けれど真琴もがむしゃらに抵抗した。男が男に力負けしたなど言い訳にもならないと、必死だった。
「うるせえ!夜中になにやってる!」
慎司の怒鳴り声が耳に届いたとき、真琴が感じたのは通り一辺の言葉では表せない感情だった。
安堵、後悔、恐怖と恨み、そして諦め。
終わりの日がくることを畏怖しつつも、見ないふりで済ますことができるほど真琴は楽観的ではなかった。けれど、真琴が何度も思い描いたイメージとは全く違う状況に、混乱の後、なにも考えられなくなる。
開け放った引き戸の先、居間の灯りを背にして、慎司の表情を窺うことはできない。でも、もし真琴が平均以上の楽天家であったとしても、半裸で拾い子に組み敷かれている光景を、慎司が笑って見ているとは思えなかっただろう。
現実はいつも、想像より遥かに残酷だ。
普段、真琴の部屋に入ることのない慎司が、はだけられた掛け布団を踏んで近づくのを、真琴は泣きたいような思いで見つめる。
慎司は黙って聖の後ろに立つと、襟首を掴んで真琴から引き剥がした。そのまま突き飛ばされた聖が、壁にぶつかって鈍い音を立てる。
横倒しになった聖の上に慎司が馬乗りになり、拳を振り上げるのを目にして、真琴はとっさに慎司の腕にしがみついていた。
「慎さん、だめだ!」
真琴の呼びかけにも、慎司は無言のままだった。慎司の下で、聖ははっきりと分かるほど震えている。
「ふざけんな! 一発殴らせろ……それとも合意か?」
慎司の吐き捨てるような言い方に、真琴は違うとかぶりを振る。
「そんなこと、あるわけない」
喘ぐように呼吸を継ぎながらの真琴の告白を、慎司はどんな気持ちで聴いたのだろうか。
しがみついた腕の中で、慎司の筋肉が固く盛り上がる。何かをこらえるように、ギリギリと歯を食いしばる音が聞こえた気がした。
真琴がやっと、慎司のほうに視線を向けると、慎司は左手で目元を押さえていた。
泣いているようだと、真琴は思う。
慎司が泣いている?何のために?誰のために?
「……くそ」
唸るようにそう口にして、慎司は聖の上から退いた。
力をなくして自分の手の中から出ていこうとする腕を、真琴は引き止めるように掴む。けれど慎司は、ためらわずに真琴を振り払った。
上着を取って家を出ていく後ろ姿を、動くこともできずに見送ってしまってから、真琴は我に返った。
ここで言い訳もしなかったら、考えうる中で最悪の結果を招くのではないか。
そう思うと居ても立ってもいられなかった。
乱れた服をざっと直し、コートを着こむ。
聖はまだ壁際に転がっていたけれど、かまっていられなかった。
「聖、お前どこにもいくなよ! 帰ったら説教だから覚悟しとけ!」
そう言い置いて玄関を出ると、およそ現実的ではない銀世界が広がっていた。
雪が音を吸い取るのか、かすかな音さえ聞こえないような静寂の中、ぽすぽすと新雪を踏む音だけが響く。
吐く息がいつもより白く感じる。足首まで埋もれそうに積もった雪が、靴の中に入り込んで足を濡らす。裸足の足指は、すぐにかじかんで痛くなった。
けれど真琴は、目の前に続く慎司の足あとを見つめて歩き続ける。
ホワイトクリスマスなんて、何の役にも立たないと思っていた。雪なんて不都合ばかりが多くて、事故でも起こった日には、現場では命に関わる。
けれど、街灯の灯りを反射してぼんやりと浮かび上がる靴あとに、慎司の居場所を教えられながら歩いていると、今日の積雪に感謝したくなった。
しばらく歩くと、思ったとおりに、アパートから離れた駐車場のバンの中に、慎司の姿はあった。
薄く積もった雪を払い、助手席側のサイドウインドウを、軽くノックする。気づいているはずなのに、慎司は真琴の方を見ようともしない。
怯みそうになる気持を奮い立たせて、真琴はドアを開けた。
ロックされていなかったことに、少しだけほっとする。
「入っていい?」
慎司は答えなかったが、無言を了解と解釈して、真琴は助手席に身体を滑り込ませる。
煙草と機械油の匂いが染み付いた車内は、以前と同じように散らかっていた。
「はは……相変わらずきたねえ」
慎司と現場に出ていた頃、真琴もこの車に乗って短くない時間を過ごした。
雨だったり、寒かったり暑かったりする時期は、食事をとるのさえこの車の中だった。
もうずっと前の事のような気がするのは、何かを諦めたからなのだろうかと、真琴は自嘲する。
カチリとライターの音がして、紫煙が漂いはじめる。慎司が何かを言うのをためらうときの癖だ。一服つける間は、黙っていることが苦痛でないから……。
「ぼうずは?」
「動かないから置いてきた」
フロントウインドウに降り積もった雪が視界を遮って、外界と車内を隔絶している。視線はその雪に預けたままで、慎司は溜息のように大きく息を吐き出した。
「なんで……あんなことになった?」
ようやく、といった様子で慎司が疑問を口にする。努めて冷静に話をしようという態度が見て取れる分、真琴は苦しかった。
もちろん真琴が望んだわけではない。けれど聖を拾わなければ、そもそもこんなことは起きようはずもなかった。
恨み言になりそうな言葉を、真琴は慎重に択ぶ。
「普通に寝てただけだ。いつもみたいに」
寒さのせいか緊張のせいか、語尾が震えるのを止めることができない。
「目が覚めたら……もう」
慎司の手の中で、煙草の箱が握りつぶされる音が聞こえる。
嫌悪されていると思うと、唇から全身に戦慄が走る。けれど、言い訳と思われても、慎司には事実を伝えなければと、真琴は言葉を続けた。
「お礼だって。あんな状況でお礼だってさ……。聖、喋ったんだ」
真琴は、どんなに辛い目にあっても、悔しい時でも、慎司の前で泣いたことはない。泣くことで解決する問題などないことを、身を持って知っていたから。
けれどいま、そんなこととは関係なく、こみ上げる嗚咽に胸を塞がれそうで声が詰まる。
一連の出来事が全て夢で、なにげない日常のなかで聖の声が聴けたのなら、どんなにか嬉しかったことだろう。
「なんで庇った」
慎司が低くつぶやく。
「だって、殴ったら、いつも聖を殴ってた奴らと同じになるじゃん」
おそらく聖は、真琴に拾われるまで日常的に暴力に晒されて生きてきたのだろうと思う。そうでなければ、真琴も声をかけようとは思わなかった。
「慎さんが、そこまで堕ちること、ない……」
笑おうと思った。何でもないことのように言わなければとも。
だから無理に笑顔をつくろうとしたが果たせず、真琴は慎司から顔を背けるしかなかった。
「前に、俺の腹の傷のこと訊いたろ?」
また、煙草に火をつける音が響く。
「俺んちも親が暴力振るう家でさ、お決まりみたいにガキの頃からぐれて、家ん中はめちゃくちゃだったよ」
慎司の告白に真琴の胸は痛む。寝食を共にしていれば、お互いに家族との縁が薄い人生なのだと、わかっていたから。
「何だったかなあ、姉ちゃんが工面してくれた学校の金かなんかを親父が持ちだそうとして」
慎司はそこで一旦言葉を切ると、自嘲に紛れ込ませるように、真琴に訊いた。
「お前は知ってるかねえ……後暗いところがある奴は、外から見えないところを殴るんだよ。で、俺も腹を殴られて、内臓に傷がついて手術したわけさ」
沈黙の後、慎司の深いため息が聞こえた。
「虐待されて育つと、簡単に暴力を振るう人間になるって言われてるだろ? だけど自分だけはそうなるまいと思ってた。現場でも、他人に手を上げたことは一度もない。だけどなあ……さっきは我慢が出来なかった」
生理的、本能的な嫌悪を考えれば、慎司が我慢出来なかったと言うことは最もだと、真琴でさえ思う。けれど、心の中でその罪を犯しているのは、ほかならない真琴自身だ。
存在の否定……恐れていたことが、現実になりつつある。
「聖がなんであんなことしたのか、本心は誰にもわからないと思うよ」
声を出すのがこんなにも苦しいのかと感じながら、真琴は続けた。
「でも……強要されてたんだと思う。代償として」
自分自身に言い聞かせるように、あえて静かに、真琴は言葉を吐き出す。
「聖がそんな風に思ってたなんて、考えもしなかったけど」
認めるのは辛かった。
同じ痛みを持つ者同士、ささやかな安寧を分け与えたいと、真琴は思っただけなのだ。
自分は幸運にも慎司と出会った。だから聖もいつか、真琴と出会ったことで救われたと思えればいいと、それだけを考えていたのに。
しゃっくりのように真琴の喉が鳴る。
「……泣くなよ」
慎司の手が、真琴の髪をかき混ぜる。
泣いてなどいないと、反論しようとしてやめた。
今夜を限りに、この温もりを永遠に手放すかもしれないと、真琴は感じていた。
一度目にした光景を、人は簡単に忘れたりはしない。それが衝撃的なものであればなおさらだ。
これが罰なら、甘んじて受け入れるしかないのだろうと、真琴は半ば投げやりな気持で、慎司が髪をまさぐるのを許した。
失くしたくないと思うものほど、たやすく手を離れるものだから。
「くそ……違うんだ。ぼうずに嫉妬したんだよ。情けねえ……」
苛々とライターをいじる音が、車内に響く。
「ずっと俺のもんだと思ってた。なのに、あんなガキに先越されて」
慎司の言葉が文字の羅列となって、真琴の鼓膜を揺らす。思いがけない告白に、真琴の心はむしろ凪いだままだ。
「なあ……俺となら、できるか?」
語尾が疑問形なのはわかる。けれど真琴は、すぐには質問の意味を理解出来なかった。
「で、できるって、何を?」
なんとか答えた真琴だったが、一瞬後には、答えたことを後悔していた。
問われたことがどういうことか理解するに連れ、急速に頬が熱くなる。鏡など見なくても、顔が真っ赤になっているのがわかった。
「慎さん……それ、俺に訊くことなの?」
真琴は耐え難い羞恥に、両手で顔を覆った。慎司の指が、ぎこちなく髪を梳いて降りてくる。
肩を掴んで向き合わされ、座席のきしみで、慎司が近づいてくるのがわかる。すぐに、目元を隠した真琴の指に、くちづけを感じた。
「マコ……」
名前を呼ぶ慎司の声が、恐らくは情欲にかすれている。指の隙間をこじ開けるように舌で探られて、くすぐったさとは違う何かに、真琴は戦いた。
ゴツゴツと荒れた慎司の手が、顔を隠した真琴の手首を捉える。ゆっくりと、けれど抗いがたい力で開かれ、真琴は固く瞼を閉じる。
湿った感触が唇をかすめ、緊張に耐えきれなくなった真琴の身体から、こわばりが消える。それを待っていたかのように、熱いぬめりが、口腔に侵入してきた。
歯列を走査していた慎司の舌が、驚くほど繊細な動きで真琴の舌に触れる。嗅ぎ慣れた煙草の匂いに、それだけで全身を愛撫されたような目眩を感じた。
真琴にとって初めてのくちづけという訳ではない。
けれど、求め続けて得難さに身悶え、失う恐怖に絶望した相手との初めての交歓は、真琴を夢中にした。
うるさいほどの、互いの呼吸音。なめらかに擦り合わされる熱。雪に閉ざされた空間で齎される温もりに、真琴は翻弄される。
「後ろに……移動するか」
慎司のつぶやきに、真琴は必死で頷いた。
もう二度とこの手を離したくないと絡めた指を、苦笑とともに慎司にほどかれて、真琴は心もとなさに震える。
すっかり弛緩した身体を座席に預けていると、一旦外に出た慎司が、強い力で雪あかりの中へと導く。
この世界にふたりきりで取り残されたような静寂の中、真琴は慎司に抱きしめられる心地よさに酔わされる。
人目を気にする余裕などなかった。
スライドドアの開閉の音が、必要以上に大きく感じられてビクリと身体をすくめた真琴だったが、後部座席に横たえられる頃には、再度のくちづけと、こんどこそ本当の愛撫に脱力するしかなかった。