精神の3段の変化について
文字数 4,110文字
この作品は精神の3段の変化をもとにつくられてます
駱駝とは何か。<あるがまま>を受け入れること。YES。二重の肯定、大いなる肯定。
<なすがまま>の驢馬では無い。ただ無条件に受け入れるのではなく、否定を生む、全肯定の姿勢で受け入れること。絶対服従ではなく、してもいいし、しなくてもいい。
獅子とは何か。否定。反抗。至高。理想。
赤子とは、創造、新生、純粋、無垢,白紙、ビックバン、生命のスープ、始原の混沌。
(赤ん坊は生まれた瞬間はすでに悟っているから、禅では主客未然化の自己が悟りだという)
簡単に言えば、すべてを肯定し、すべてを否定し、新しき何かをつくれ,と言うこと。
極論すれば、温故知新でもいいかもしれない。基本、応用、新発見かも。受容、工夫、超越かも。
あるがままとは、小津安二郎の笠智衆のセリフ「そうかい」「仕方がない」
「なんくるないさ」「まっ、いっか」「ケ・セラ・セラ」でもいいかもしれない。面従腹背だって無問題?
<あるがまま>は簡単であるようで難しい。だからか、それが精神の最終形態かもと勘違いされているのではないだろうか。その先にあるものが大切なのである。あるがままだけでは進歩がない。安定はあるが停滞かもしれない。
駱駝は獅子になるための下準備なのであり、いきなり獅子になることはできない
革命児や天才は獅子として現れるかもしれないが、生前は理解・評価されることはない。彼らはそれでもいいいというのかもしれない。
<獅子>とは不可能を可能にすること
リユック・ベッソン「グラン・ブルー」松本零士「スタンレーの魔女」カフカ「掟の門」
<YES>オノヨーコとジョンレノンの出会い。凄く感動した。天井に小さく一言YESと書かれただけの展覧会で、NOでなくYESとだけ書かれたことに感激する、ジョン。let it beが生まれた瞬間ではないかと錯覚した。
展覧会場をパンドラの箱にみたて、最後に残った?唯一あるのがYESみたいな
赤子に通ずる<あるがまま>であるための無垢
フェリーニ「道」のジェルソミーナ、黒沢明「白痴」の亀田青年、太宰治「人間失格」のヨシ子。
太宰は、許しの象徴であるヨシ子のあるがままの純真さを理解できない理解したくない。許されたくない、罰されたい。ダーザイン(独語ここにいる)のくせに死にたがる
永劫回帰、生々流転、卵が先か鶏が先か。
もしも世界がクラインの壺のような、底辺が頂点となり、頂点が底辺となる、メビウスの輪や円のように始まりと終わりがわからない世界なら、このような世界では現状をみつめルサンチマンを克服し今ある状況を乗り越えることが大切なのではないだろうか。
とりあえず一歩先へ、考えるより行動。「書を捨てよ、町へでよ」か。
結果が凶でもトータルで吉かも、見方を変えれば一周廻って凶も吉も同じこと。
ベクトルの右にいくのも左にいくのも同じこと、自分自身で選んだことであれば。自分にとって自由とは選択肢がたくさんあること。自由は不自由だという人は、その選択肢の多さに困惑してそう感じるのだろうが。制限を持たせることによって何か(X)は形として現れるのであろうが、制限はできるだけ自分で決めたい。時間がかかっても。時間がかかる場合は一旦棚上げして別の事をしてもいいじゃない。並列にいくつもの何か(X)が浮遊している状態で、ある刺激(情報)によってグループ分けされたり、収束されて一つの考えにまとめられて選択するのでも構わないじゃないかと思う。漠然とした思いを制限して言葉にするのは大変。わからないから取りあえず、どっちでもの状態にしておく。言葉面だけのイメージのミル・プラトー(ちゃんと読んでないから内容とは関係ない意味かも)
唯一ではなく多様性であることが自由だからねぇ。
ピラミッド(収束?ヒエラルキー)でなく、フラット・平面(分散?)
垂直でなく(執着・パラノ?バベルの塔)、水平・平行・並列(スキゾ・リゾーム?菌類)思考。作家と批評家の思考の違いかも。積み上げてつくる、解体して集積・分析するみたな。
徒競走の全員でゴールは間違っている。差異は差別ではない、個性だし。ポリコレは正しさの押し売り。ルサンチマンに満ちた逆差別。多様性なんかじゃない。
「別に」「どっちでも」が口癖だけど、あるがままに通じると思っている。
でも、たぶん違うように受け取られてる。どうでもいいとか無関心・興味がないとか、
別にいいけど。個人的に「別に」は「どんとこい」かもしれない
だから個人的に「どっちでも」は無関心ではない
別々の答えが同じに見えたとき、相手の気持ちも理解できる。
目的が同じなら手段はどんなことでもかまわない。鄧小平の社会主義に資本主義の市場経済を導入したときに使われた「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」みたいに。葉っぱで水を飲んだら、それは葉っぱだけどコップやスプーン・皿でもある。同じ機能なら意味も同じ。他人にはそう見えなく当人には同じこと。
また、違う目的がほんとうは同じ目的がだったということもある。
喩えや置換が理解の早道だと思う。代数Xみたいに。
電脳の海にダイブして溺れても(飲み込まれて一体化されても)、同化されないためのNO.自我の保全のためのNO。エヴァのATフィールドかも。
ライブや応援会場などでの一体感が嫌、気持ちがわるい。
無意識に勝手に脳内に入ってくる(覚えようとしなくても口ずさむような)cmも嫌い。
一極に収束されないために、NOも必要不可欠。
YESとNOが共存してある状態が、2重の肯定・大いなる肯定=あるがまま。
メタや多義性が好きだから画一的な言葉遣い(翻訳に必要な言葉の意味の限定)を良しとする人には意味不明な文章かもしれませんが、しょうがない、これが自分の文章だもの。
クリムゾンじゃないが混沌多様性が我が墓碑銘。
フレディのように人生はshow must go on(掛詞だよ。そして自分は舞台の3文役者・大根役者。シェイクスピアのセリフのように)
独裁者の最後の言葉ともいわれる「音楽がとまったら(終わったら)、明かりを消してくれ」も、言葉だけのイメージで発言者のイメージとは切り離されて理解されてもいいと思っている。画家に憧れ芸術家になれなかった男の最後言葉として共感してしまうので。感覚として、音楽を芸術=人生として受けとって理解しているので。違う舞台なら独裁者でなく画家を演じカーテンコールで舞台の灯りを消せたかもと思うと。
ちなみに、自分は孤高に憧れている。孤高は獅子への道である。
イソップ童話のこうもり。幼稚園のお遊戯でやった蝙蝠。
どちらでもあり、どちらでもない。悪者のノケモノ扱いだけど、共感してた。八方美人は薄情か?どちらでもあるために、どちらでもない道をえらびたい。孤高でありたい。
ちなみに、キリギリスは不幸?アリを労働者、キリギリスを遊び人と捉えれば、そうなのかもしれないが、働き者と夢追い人と考えれば不幸ではない気がする。夢は、叶わなくてもいいもの、あるだけで幸せにできるものでは。でも、垂直思考だと叶えるべきものなのか?何者かになるために。それがピラミッドになるのか。それが一般常識か。仕方がない。
カフカを可不可と書くのが気にいっている。可能性と不可能性の共生。カフカの作品みたいな名前。
カフカ「父の気がかり」オドラデク、何物でもない不確かなもの。
「掟の門」決して開けることができない自分だけの門。
いつ完成するかわからない区分け工事の「万里の長城」。賽の河原の石積のような終わりの見えない工事。
鳥かごが鳥を求める・罪が罪人を求める、アルトーの器官なき身体ではなく欲望する器官たちのような警句。意味が意味を求め。手段が目的とすり替わる。
不完全性が完成になる。例えば、何の絵かわからない正方形パズルあったとする。しかも1ピースが欠け縦横にスライドさせる穴あきパズル。欠ける事によってピースが縦横自由に動くことができ、不明だった絵が完成させることができた。これは、不完全だから完全にできた。何か不明なことは完全であるような状態より不完全・未完成の状態のほうが完全に近い・完全にできるのでは?どちらでもないがどちらでもある(完全)に近い。未完成こそ完成?「市民ケーン」バラの蕾?臥龍点睛を欠くは、ことわざとしての意味より、わざと何かを残してをくことで完成だとする芸術方面では正解では?世阿弥「風姿花伝」秘するが花が奥義のように。そう考えるとクリフハンガーも、ありか。
鼻がわるいから、呼吸が荒く、口が重いし、説明するのが面倒(漠然としているので説明しずらい)なので不言実行する。有言実行はプレッシャーがかかって無理。対面で上手く説明できる気がしない。社会人でもあがり症で子供の頃は自意識過剰で赤面症だったし。赤面症は年をとるとともに、全て受け入れ他人の思いを気にしないようになって治った気がする。個人的に応援は力ではなく、プレッシャー。学生時代まで助力は嫌だったし。他人の親切も断る方だったけど、それも受け入れる(YES)ようになって赤面症も治ったかも。あるがままを受け入れることは心の平安につながるしるしかな。
これら、同じような気持ちを抱いている人には、少しは理解してもらえるかなと、このような散漫な文章を書いている訳で。観念的でわかりにくいと言われるので、同じ気持ちになれない人には全くわからないんだろうな、とは思う。まぁ、いいか。「あかんねん!」って言われるのか。
参考までに、個人的好きな歌ベスト3は尾崎豊「存在」井上陽水「青空ひとりきり」ゴダイゴ「ガンダーラ」自分の心境がよくあらわれてる曲なので理解の役にたつかもしれません
駱駝とは何か。<あるがまま>を受け入れること。YES。二重の肯定、大いなる肯定。
<なすがまま>の驢馬では無い。ただ無条件に受け入れるのではなく、否定を生む、全肯定の姿勢で受け入れること。絶対服従ではなく、してもいいし、しなくてもいい。
獅子とは何か。否定。反抗。至高。理想。
赤子とは、創造、新生、純粋、無垢,白紙、ビックバン、生命のスープ、始原の混沌。
(赤ん坊は生まれた瞬間はすでに悟っているから、禅では主客未然化の自己が悟りだという)
簡単に言えば、すべてを肯定し、すべてを否定し、新しき何かをつくれ,と言うこと。
極論すれば、温故知新でもいいかもしれない。基本、応用、新発見かも。受容、工夫、超越かも。
あるがままとは、小津安二郎の笠智衆のセリフ「そうかい」「仕方がない」
「なんくるないさ」「まっ、いっか」「ケ・セラ・セラ」でもいいかもしれない。面従腹背だって無問題?
<あるがまま>は簡単であるようで難しい。だからか、それが精神の最終形態かもと勘違いされているのではないだろうか。その先にあるものが大切なのである。あるがままだけでは進歩がない。安定はあるが停滞かもしれない。
駱駝は獅子になるための下準備なのであり、いきなり獅子になることはできない
革命児や天才は獅子として現れるかもしれないが、生前は理解・評価されることはない。彼らはそれでもいいいというのかもしれない。
<獅子>とは不可能を可能にすること
リユック・ベッソン「グラン・ブルー」松本零士「スタンレーの魔女」カフカ「掟の門」
<YES>オノヨーコとジョンレノンの出会い。凄く感動した。天井に小さく一言YESと書かれただけの展覧会で、NOでなくYESとだけ書かれたことに感激する、ジョン。let it beが生まれた瞬間ではないかと錯覚した。
展覧会場をパンドラの箱にみたて、最後に残った?唯一あるのがYESみたいな
赤子に通ずる<あるがまま>であるための無垢
フェリーニ「道」のジェルソミーナ、黒沢明「白痴」の亀田青年、太宰治「人間失格」のヨシ子。
太宰は、許しの象徴であるヨシ子のあるがままの純真さを理解できない理解したくない。許されたくない、罰されたい。ダーザイン(独語ここにいる)のくせに死にたがる
永劫回帰、生々流転、卵が先か鶏が先か。
もしも世界がクラインの壺のような、底辺が頂点となり、頂点が底辺となる、メビウスの輪や円のように始まりと終わりがわからない世界なら、このような世界では現状をみつめルサンチマンを克服し今ある状況を乗り越えることが大切なのではないだろうか。
とりあえず一歩先へ、考えるより行動。「書を捨てよ、町へでよ」か。
結果が凶でもトータルで吉かも、見方を変えれば一周廻って凶も吉も同じこと。
ベクトルの右にいくのも左にいくのも同じこと、自分自身で選んだことであれば。自分にとって自由とは選択肢がたくさんあること。自由は不自由だという人は、その選択肢の多さに困惑してそう感じるのだろうが。制限を持たせることによって何か(X)は形として現れるのであろうが、制限はできるだけ自分で決めたい。時間がかかっても。時間がかかる場合は一旦棚上げして別の事をしてもいいじゃない。並列にいくつもの何か(X)が浮遊している状態で、ある刺激(情報)によってグループ分けされたり、収束されて一つの考えにまとめられて選択するのでも構わないじゃないかと思う。漠然とした思いを制限して言葉にするのは大変。わからないから取りあえず、どっちでもの状態にしておく。言葉面だけのイメージのミル・プラトー(ちゃんと読んでないから内容とは関係ない意味かも)
唯一ではなく多様性であることが自由だからねぇ。
ピラミッド(収束?ヒエラルキー)でなく、フラット・平面(分散?)
垂直でなく(執着・パラノ?バベルの塔)、水平・平行・並列(スキゾ・リゾーム?菌類)思考。作家と批評家の思考の違いかも。積み上げてつくる、解体して集積・分析するみたな。
徒競走の全員でゴールは間違っている。差異は差別ではない、個性だし。ポリコレは正しさの押し売り。ルサンチマンに満ちた逆差別。多様性なんかじゃない。
「別に」「どっちでも」が口癖だけど、あるがままに通じると思っている。
でも、たぶん違うように受け取られてる。どうでもいいとか無関心・興味がないとか、
別にいいけど。個人的に「別に」は「どんとこい」かもしれない
だから個人的に「どっちでも」は無関心ではない
別々の答えが同じに見えたとき、相手の気持ちも理解できる。
目的が同じなら手段はどんなことでもかまわない。鄧小平の社会主義に資本主義の市場経済を導入したときに使われた「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」みたいに。葉っぱで水を飲んだら、それは葉っぱだけどコップやスプーン・皿でもある。同じ機能なら意味も同じ。他人にはそう見えなく当人には同じこと。
また、違う目的がほんとうは同じ目的がだったということもある。
喩えや置換が理解の早道だと思う。代数Xみたいに。
電脳の海にダイブして溺れても(飲み込まれて一体化されても)、同化されないためのNO.自我の保全のためのNO。エヴァのATフィールドかも。
ライブや応援会場などでの一体感が嫌、気持ちがわるい。
無意識に勝手に脳内に入ってくる(覚えようとしなくても口ずさむような)cmも嫌い。
一極に収束されないために、NOも必要不可欠。
YESとNOが共存してある状態が、2重の肯定・大いなる肯定=あるがまま。
メタや多義性が好きだから画一的な言葉遣い(翻訳に必要な言葉の意味の限定)を良しとする人には意味不明な文章かもしれませんが、しょうがない、これが自分の文章だもの。
クリムゾンじゃないが混沌多様性が我が墓碑銘。
フレディのように人生はshow must go on(掛詞だよ。そして自分は舞台の3文役者・大根役者。シェイクスピアのセリフのように)
独裁者の最後の言葉ともいわれる「音楽がとまったら(終わったら)、明かりを消してくれ」も、言葉だけのイメージで発言者のイメージとは切り離されて理解されてもいいと思っている。画家に憧れ芸術家になれなかった男の最後言葉として共感してしまうので。感覚として、音楽を芸術=人生として受けとって理解しているので。違う舞台なら独裁者でなく画家を演じカーテンコールで舞台の灯りを消せたかもと思うと。
ちなみに、自分は孤高に憧れている。孤高は獅子への道である。
イソップ童話のこうもり。幼稚園のお遊戯でやった蝙蝠。
どちらでもあり、どちらでもない。悪者のノケモノ扱いだけど、共感してた。八方美人は薄情か?どちらでもあるために、どちらでもない道をえらびたい。孤高でありたい。
ちなみに、キリギリスは不幸?アリを労働者、キリギリスを遊び人と捉えれば、そうなのかもしれないが、働き者と夢追い人と考えれば不幸ではない気がする。夢は、叶わなくてもいいもの、あるだけで幸せにできるものでは。でも、垂直思考だと叶えるべきものなのか?何者かになるために。それがピラミッドになるのか。それが一般常識か。仕方がない。
カフカを可不可と書くのが気にいっている。可能性と不可能性の共生。カフカの作品みたいな名前。
カフカ「父の気がかり」オドラデク、何物でもない不確かなもの。
「掟の門」決して開けることができない自分だけの門。
いつ完成するかわからない区分け工事の「万里の長城」。賽の河原の石積のような終わりの見えない工事。
鳥かごが鳥を求める・罪が罪人を求める、アルトーの器官なき身体ではなく欲望する器官たちのような警句。意味が意味を求め。手段が目的とすり替わる。
不完全性が完成になる。例えば、何の絵かわからない正方形パズルあったとする。しかも1ピースが欠け縦横にスライドさせる穴あきパズル。欠ける事によってピースが縦横自由に動くことができ、不明だった絵が完成させることができた。これは、不完全だから完全にできた。何か不明なことは完全であるような状態より不完全・未完成の状態のほうが完全に近い・完全にできるのでは?どちらでもないがどちらでもある(完全)に近い。未完成こそ完成?「市民ケーン」バラの蕾?臥龍点睛を欠くは、ことわざとしての意味より、わざと何かを残してをくことで完成だとする芸術方面では正解では?世阿弥「風姿花伝」秘するが花が奥義のように。そう考えるとクリフハンガーも、ありか。
鼻がわるいから、呼吸が荒く、口が重いし、説明するのが面倒(漠然としているので説明しずらい)なので不言実行する。有言実行はプレッシャーがかかって無理。対面で上手く説明できる気がしない。社会人でもあがり症で子供の頃は自意識過剰で赤面症だったし。赤面症は年をとるとともに、全て受け入れ他人の思いを気にしないようになって治った気がする。個人的に応援は力ではなく、プレッシャー。学生時代まで助力は嫌だったし。他人の親切も断る方だったけど、それも受け入れる(YES)ようになって赤面症も治ったかも。あるがままを受け入れることは心の平安につながるしるしかな。
これら、同じような気持ちを抱いている人には、少しは理解してもらえるかなと、このような散漫な文章を書いている訳で。観念的でわかりにくいと言われるので、同じ気持ちになれない人には全くわからないんだろうな、とは思う。まぁ、いいか。「あかんねん!」って言われるのか。
参考までに、個人的好きな歌ベスト3は尾崎豊「存在」井上陽水「青空ひとりきり」ゴダイゴ「ガンダーラ」自分の心境がよくあらわれてる曲なので理解の役にたつかもしれません