文字数 6,288文字

 

 由芽は目が覚めると、硬い椅子に座らされている。
 椅子の背もたれに沿って背筋をぴんと張り、両手をひざの上に置いている。説教部屋で訓戒を受けているような気分になった。
 真っ白い部屋だ。
 壁も床も天井も、真珠のような透き通る白。優しい明るさに包まれている。テレビで見た高級エステの部屋みたいだ。独特の浮遊感があり、まるで雲の上にある、雲でできた部屋という感じがする。
 空気が気持ちいい。遠足で登った高尾山の頂上みたい。
 目の前に若い女性がいる。
 革張りの回転椅子に座り、デスクに向かって何かを書き込んでいる。背を向けているので顔は見えないが、後ろ姿だけで美女だと分かる。さらさらして艶のあるショートカットの黒髪。弾力のある白い肌。透明感のあるうなじから伸びるなで肩。すべてのフォルムが完璧で、はっと息を飲むような神々しさがある。
「髪、伸ばそうかな」
 前髪に触れながら、女性は言った。
 口笛を吹き、リズムに合わせて体を揺らしている。ペンを置き、紙に力強くスタンプを押して、「済」と書かれたファイルボックスに放った。
「ま、こんなもんでしょ。迷ったら地獄でいいんだ。今日も残業はなし。パッパッパッと片づけていこう」
 まるでオペラのような伸びのある声だった。ピアノの高音のような美しい音色で、子猫の鳴き声っぽくもある。
 女性は振り向いた。
 面食らうほどの美女だった。目が合った瞬間、呼吸をするのも忘れてしまうくらい、その美貌に引き込まれた。
 ぱっちり開いた宝石のような瞳、鋭く高い鼻、シャープなあごのライン。美形でありながら、日本刀のようなキレのある顔立ちだ。その光量の強い瞳で見つめられると、背筋がぞくっと震える。美しさの奥に怖さがあり、矛盾なく同居している。奇跡という言葉がなんら誇張にならないくらいの存在感だった。
 由芽が今まで見たなかで、一番かわいかったのは丸美麗奈だが、足元にも及ばないくらいの桁ちがいの美女である。
 十代後半くらいか。でも顔は童顔なのに、人生を一周回ったような貫録がある。年齢というくくりでは測れない。
 花柄がプリントされたブルーのオフショルのトップス。透け感のある黄色のミニスカート。長く伸びた生足の先に、オレンジの厚底スニーカー。左耳に、涙のしずくのイヤリング。すべて自己主張の強いアイテムだが、そのバラバラになりそうな個性を、彼女のセンスで掌握している。奇抜なのに計算されていて、一ミリずれたら破綻するようなぎりぎりのバランスでまとめている。
 しかしなにより目立つのは、背中にはおっている真っ赤なマントだった。彼女の体格には大きすぎるうえに、その濃い赤が否応なく血を連想させる。視神経を刺激し、目が毒されていくような不吉な赤である。赤は赤だが、別の名前をつけたくなるくらいの特殊な赤だ。たとえばポイズンレッドとか。
「閻魔堂へようこそ。向井由芽さんですね」
「あ、はい、こんにちは」
「こんにちは」
 女性は、手に持っているタブレット型パソコンに目をやった。
「まだ中二なのか。にしちゃあ、でかいな」
 ふむふむ、と女性はうなずく。
「あなたは父・向井鉄矢、母・知歌里のもとに生まれた。父は売れない画家、事実上の無職で、母が働いて生計を立てていた。母は介護職に就いていて、肉体的にハードなうえに給料は少ない。おまけに夫は働かず、家事育児もしない。娘は娘で、元気がありあまってよく泣き、よく暴れ、口答えもしてくる手のかかる子だった。それでも十年以上頑張ったが、蓄積した疲労と我慢のせいで感情がパンクし、ノイローゼになって家出した。以来、父と娘の極貧暮らし」
「はい。マジで貧乏です。日本の底辺です」
「父はともかく、娘も置き去りにして母が家出したことに、あなたは少なからずショックを受けている。しかし結果的に、この過酷な環境があなたを強くした。父がダメなので、自分がしっかりしなければという自覚が芽生えた。お金がないので、髪は自分で切っている。身長が伸びても、制服を買いかえることができず、ボディコン並みにパツパツのセーラー服をむりやり着ている。破れた靴下は縫う。靴に穴があいたらガムテープでふさぐ。塾に行くお金も、参考書を買うお金さえないが、与えられた学校の教科書だけで勉強し、成績上位をキープしている」
「ええ、まあ、なんとかやってます」
「貧乏を言い訳にせず、できるかぎりのことを工夫してやろうとする。中二にしては強靭なメンタルを持った向井由芽さんでよろしいですね」
「はい」
「なるほど」
 女性はタブレットに目をやった。唇をとがらせ、思案顔を浮かべている。
 今、気づいた。なぜか手足が動かない。
「あれ、なんで動かないんだ?」
 それどころか感覚さえない。動くのは首から上だけ。見る、聞く、話す。できるのはこの三つだけで、あとは何もできない。
「あの、ここはどこですか。あなたは誰ですか?」
「ここは閻魔堂。私は沙羅といって、閻魔大王の娘です」
「サラ?」
「さんずいに少ない。悪鬼羅刹の羅」
「沙羅ですね。閻魔というのは、あの地獄の閻魔大王のことですか?」
「そうです」
「ええと、それは、そういう設定のコスプレかなにかですか?」
「設定ではありません。閻魔大王は、人間の空想上のものではなく、実際に存在するもう一つの現実なのです―」
 沙羅の説明は続いた。
 人間は死ぬと、肉体と魂が切り離され、魂のみ、ここ霊界にやってくる。ここは閻魔堂といって霊界の入り口にあたる場所で、死者はここで生前の行いを審査され、天国行きか地獄行きに振り分けられる。
 本来であれば、ここには沙羅の父・閻魔大王がいる。しかし今日は見たい野球中継があり、無断欠勤しているそうだ。そこで沙羅が代理を務めている。
 沙羅の説明は分かりやすい。一度の説明できれいに脳に入ってくる。
 理解はできた。つまり由芽は死んだということだ。だが、実感がない。というのも、なぜ死んだのかが思い出せない。
「つまり、私は死んだということですね」
「そういうことです。理解が早くて助かります」
「でも、なぜ死んだんですか。まったく思い出せないんですけど」
「ええと、撲殺ですね」
「撲殺?」
「はい。尼川神社の階段で、石で殴られて」
「……あっ」
 死の瞬間がフラッシュバックされて、すべて思い出した。
 突然、背後から腕で首を締めつけられ、ナイフを突きつけられた。その脅迫者は立ち去った。由芽は自宅に帰ろうと、階段を一段下りたところで、「おい!」と後ろから声をかけられた。振り向くと、石。よけきれず、こめかみに当たった。転倒したところで、ふたたび石で殴られた。そこまでの記憶しかない。

「おい!」
 背後からかけられたあの声。
 男の声っぽかったが、女が男に見せかけるために声を低くしたようにも聞こえた。わざとくぐもらせて、声質をごまかしたような声だった。
 一瞬のことで、しかも暗かったため、犯人の顔も体格も分からなかった。振り向いた瞬間には殴られていた。凶器が石だったのは間違いない。ソフトボールより少し大きいくらいの、そこらに落ちている自然石だった。
 意味が分からない。なぜ自分が殺されなければならないのか。
「あの、犯人は誰ですか? なぜ私が殺されなければならないんですか?」
 沙羅はタブレットを見ている。由芽の質問は無視した。
「あの、聞いてますか。私はなんで―」
「答えられません」
「えっ、なんで?」
「霊界のルールで、あなたが生前知らなかったことは教えてはいけない決まりなんです。知ろうが知るまいが、結果は同じですしね」
「そんな……。でも沙羅さんは犯人を知っているんですよね」
「もちろん。閻魔ですから」
 沙羅は質問を打ち切った。
「では、審判にまいります。まだ十三歳で、恋愛も仕事もしないまま死んじゃって、自分の真価が問われるような経験もないですから、評価のしようもないけど。まあ、貧しい家庭に育ちながらも、その境遇に負けずに前向きに生きてきたとは言えるかな。自分のせいでもたらされたわけではない苦難に対しても、逃げずに立ち向かったか。それがその人の真価です。勝ったか負けたかは重要ではありません。逃げずに戦い、誰も見ていないところでも努力を続けたか、その過程が大事」
「…………」
「子供が死んだ場合、よほどのことがないかぎり、天国行きにするのが慣例です。人生これからってときに死んじゃって、気の毒でもあるし。天国でいいね。今回は十三歳で幕を閉じてしまいましたけど、輪廻転生といって、半年ほどで生まれ変わりの順番が回ってきます。たぶん今回よりは恵まれた家庭に生まれるはずですから、それを期待して天国で待機していてください」
 いつのまにか、壁にドアができていた。
「では、そちらのドアへ。そのドアを開けると、天国に続く階段があるので、そこを昇っていった先に―」
「待ってください。私は誰に殺されたんですか?」
「教えられません」
「なんで私が殺されなきゃならないんですか?」
「気持ちは分かるけど、先ほども言った通り、霊界のルール上、教えるわけにはいかないんです。破ったら、私が罰せられます」
「そうなんですか」
「そうなんです。ですから、どうぞ天国へ」
「でも」
「天国はすてきな場所です。勉強も仕事もしなくていい。学校も会社もなく、試験もノルマもなく、事故も犯罪もない。飢えも病気もなく、悩みもコンプレックスもない。生まれ変わったら、あんなダメ親父のところではなく、お金持ちでインテリの両親のもとに生まれるように便宜を図ってあげますから―」
「やだ」と由芽は言った。「あ、ごめんなさい。でも、私の親をあまり悪く言わないでください。あんなのでも、いちおう親だし、ダメ親父だけど、あれはあれなりに私を育てようと頑張っていたので」
 母が家出してからは、バイトして働き、パン屋に行ってパンの耳をもらい、居酒屋に行ってあまった食べ物をもらってきた。他の父親とは方法がちがうけれど、父なりのやり方で由芽を飢えさせないようにしてきた。
「ふうん」沙羅は感心したようにつぶやいた。
「あの、私を生き返らせてくれませんか?」
「は?」
「犯人が誰かも気になるけど、父のことも心配なんです。あの人、本当にダメ人間で、どうしようもないクソ親父ですけど。ろくに働かないし、汚いし、万引きもするけど。それでも、誰かが近くにいてあげないとダメなんです。一人じゃ寂しくて生きていけないんです。だからお母さんは、私を置いていったんです。父のために。そうじゃなきゃ、あの人、生きていけないから」
「へえ」
「お願いします。私を生き返らせてください。私が近くにいてあげないとダメなんです。じゃないと、お母さんも戻ってこられないし」
「意外と優しいんだね。普段、父親の顔を踏みつけたりしているから、あなたがそんなふうに考えていたとは知りませんでした。まあ、私の父親も空前絶後、超絶怒涛のダメ親父なので、同病相憐れむというか、それに振りまわされる可憐な娘の気持ちも分からないではありませんが」
 沙羅は、流し目で由芽を見つめた。
 美人すぎて近寄りがたく、その鋭利な目つきとロジカルな話し方のせいで怖い印象があったけど、目の奥には温かさもあった。
「そっか」沙羅は唇をとがらせる。「でもなあ、だからといって安易に例外を認めるわけにはいかないし」
 沙羅は足を組んだ姿勢で、あごに手を置いた。
「分かりました。では、あなたをテストします」
「テスト?」
「先ほども言った通り、あなたが生前知らなかったことを教えるわけにはいきません。これは例外のない、絶対的なルールです。しかし、あなた自身が推理して言い当てるぶんにはかまわない。あなたが誰になぜ殺されたのか、その謎を自分で推理して解くことができたら、望み通り、生き返らせてあげましょう」
「自分で推理して謎を解けたら?」
「はい」
「でも、まったく訳が分からないんです。犯人の顔も見てないし」
「そんなことはありません。今あなたの頭の中にある情報だけで、ちゃんと推理して真相を導きだすことができます」
「そうなんですか」
「じゃないとアンフェアですから。名づけて、死者復活・謎解き推理ゲーム。どうしますか、やりますか?」
「ちょっと待ってください。少し考えさせてください」
 沙羅の言うことが本当なら、由芽が死んだ時点での頭の中にある情報だけで、謎が解けるということだ。パズルのごとく、バラバラな情報のピースを正しく組み合わせれば、由芽が誰になぜ殺されたのか、犯人の名前と動機がちゃんと導きだせる。だが、今の時点では見当もつかない。
「本当に今ある情報だけで答えを出せるんですか?」
「はい。特別な知識は必要ありません。純粋な推理力だけで解けます」
「でも私、推理小説なんて読んだことないし」
「それも問題ありません。奇抜なトリックなんて出てきませんから。推理小説をたくさん読んでいて、不可能犯罪のトリック類例に精通していたとしても、この事件に関してはまったく役に立ちません。それも含めて、特別な知識はいりません。問われるのは、本当の意味での頭のよさです」
「本当の意味での頭のよさ?」
「学校の勉強ができるかどうかも関係ありません。頭がいいというのは、英単語や年号をたくさん覚える記憶力ではなく、また、決まった解答パターンを頭にすりこむ受験テクニックでもありません。本当の意味での頭のよさとは、一見すると無関係に見えるあることとあることの意外な結びつきを偶然的に発見する能力です。すなわち、点と点をつないで線にすること。一見すると無関係に見える点と点とのあいだに因果を見つけ、線を引いてそこに意味を発見することができるか、その柔軟な抽象的思考力です。それがあれば小学生でも解けますし、なければ大人でも解けない。学歴や年齢はいっさい関係ない。無関係に見える点と点とのあいだに、まだ見えない線を発見できるか。問われるのはその頭脳センスのみ。それがあなたにあるかないかを試します」
「…………」
「これはテストです。特に取り柄のない小娘を、ちょっとかわいそうだからといって、いちいち生き返らせるわけにはいきません。あえて生き返らせるからには、それだけの根拠が必要です。こいつ、現世に戻してみたら面白いなと、閻魔が思えるかどうか。あなたにその価値があるかを、このゲームによって試します。私も忙しいので、制限時間は十分とします。ただしリスクは負ってもらいます。失敗したら、閻魔に無駄な時間を使わせた罰として、地獄に落とします」
「……地獄」
「やるかやらないかは、あなたの自由です。自信がないなら、どうぞ天国へ。あのダメ親父のことは忘れなさい。天国に行くなら、向井由芽という名前も記憶も失い、別の人格となって生まれ変わります」
 自分の胸に問うてみた。
 生き返る価値があるか。この試練を突破するだけの力があるか。
 分からない。分からないけど……。
「本当に、今ある情報だけで謎は解けるんですね」
「ええ」
「こいつが犯人だと、はっきり断定できるだけの証拠があるということですね」
「そういうことです。ただし刑事裁判ではないので、物証はなくてもいい。私が聞いて納得できるだけの論拠があれば充分です」
 このまま死にたくない。父と母を置いて、先には逝けない。
 なにより、私はまだ人生を生ききっていない。こんな訳の分からないまま、人生を終わらせたくない。
 たとえ地獄行きのリスクを負っても、自分に賭けてみる。
「どうしますか。やりますか?」と沙羅は言った。
「やります」
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