文字数 16,738文字



 秋風が強く吹いていた。気温が下がり、夏服から冬服に切りかわるころ。
 尼川中学、二年二組の教室。
 昼休み。教室のベランダで、向井由芽はあぐらをかいて座っている。制服のスカートが乱れ、太いふとももが丸出しになっている。
 隣には堀之内亜美がいて、スマホを見ている。学校にいるときは携帯の電源を切っておく決まりだが、守っている生徒はいない。亜美は、好きな女性芸能人のインスタグラムを見ていた。
 代わりばえのしない、いつもの日常。
 ベランダのこの場所は、由芽たちのグループのテリトリーになっている。各グループで集まる場所はだいたい決まっている。
 二学期の中間テストが近いせいか、教室の雰囲気はどこか冷めていた。学校はつまらないわけではないが、楽しくもない。行きたくないほど嫌いでもないが、どうしても行きたいほど楽しい場所でもない。
 由芽はなんとなく、亜美のスマホの画面をのぞいていた。
 そこに栗竹七菜香がやってくる。由芽、亜美、七菜香は小学校からの友だちだ。中二になり、また同じクラスになった。
「ねえねえ、これ見て」
 七菜香はにやついている。自分のスマホの画面を見せてきた。
「なに?」
 由芽は顔をあげた。亜美も顔を寄せてくる。
 スマホには写真が写っていた。二人の中年の男女がいる。場所は、ホテルのエントランスのように見えるが。
「なにこれ?」
「よく見てよ、二人の顔」
 七菜香はスマホの画面をタッチして、二人の顔を拡大する。
亜美が言った。「あ、これ、駒野じゃん」
遠くから撮られた写真のため、拡大すると画像が粗くなる。だがよく見ると、確かに男は担任教師の駒野秀明だった。
「ホントだ。じゃあ、こっちは奥さん?」
 駒野は既婚者だ。小学生の子供が二人いる。
「ふっふっふっ」七菜香は怪盗ルパンのように笑った。「ところが、ちがうんだな。よく見てよ。これ、聖也のお母さんだよ」
「えっ……。あ、ホントだ」
 クラスの同級生、江藤聖也の母、未羽だった。
 聖也とは同じ小学校出身で、小六のときにも同じクラスだった。江藤家は、地元では有名な一家だ。聖也の父・恒男は、東大卒の弁護士。ひと昔前はテレビによく出ていたが、暴力団との関係が指摘されて、テレビ界からは消えた。しかし仕事は順調だ。依頼人が悪人だろうが引き受けて、力ずくで黒を白にする。都合の悪い証拠は握りつぶし、弱者を足蹴にする法廷戦術で、山ほど稼いでいる。
 一方、未羽は元モデルだ。現在は専業主婦だが、美人ママとして有名である。
 とはいえ、優秀な父と美しい母に生まれた息子が、親からそれぞれよいほうの遺伝子を受け継ぐとはかぎらない。短足でいかつい顔の父と、頭はよくない母の、それぞれ悪いほうを受け継いだ聖也は、背が低くて暗くて人気のない生徒だった。現在はある事件をきっかけに、ひきこもり中である。
「でもなんで、駒野と聖也の母親がこんなところで会ってんの?」
「もう一枚あるんだ。衝撃写真が!」
 七菜香が画面を指ではじくと、次の写真が表示された。
「あ!」由芽と亜美は同時に声をあげた。
 キス写真だった。駒野と未羽がキスをしている。
「ということは、不倫?」
 教師と、担当する生徒の母親との禁断の不倫。
 七菜香が言うには、ここは駅前のホテル。二人はエントランスで待ち合わせ、会うなりキスをし、奥に消えていったという。
「なんでこんな写真、撮れたの?」と亜美が聞く。
「昨日、塾をさぼって、夜の街を歩いてたの。そしたら駒野を見かけて、尾行していったらホテルに入っていって、待ち合わせていた女の人といきなりキスしたから、思わず写真を撮ったってわけ。そのときは奥さんかと思ったけど、あとで写真をよく見てみたら聖也のお母さんだった。マジで驚いた」
 昨日、水曜日の午後八時ごろだという。
 七菜香と亜美は、同じ塾に通っている。成績順にクラス分けされていて、亜美はA組、七菜香はD組だ。実績のある塾だが、そのかわりハードで、月・水・金は午後六時半から九時半まで。土・日にも授業がある。クラスで塾に通っている生徒は、ほとんどこの塾に入っている。
 いずれにせよ、駒野と未羽は不倫しているのだ。
「で、どうするの、それ」と由芽は言った。
「どうするって?」と七菜香。
「たとえば週刊誌に売るとか。聖也の父親は有名人でしょ。奥さんが不倫していて、しかも相手は息子の担任教師だよ。週刊誌ネタになるかも」
「週刊誌に売ったら、いくらかになるの?」
「情報提供料は、五万くらいって聞いたことある」
「なんだ、そんなものなのか。あ、でも……」
 七菜香はぺろっと舌を出して、唇をなめた。悪賢そうな顔をした。
 亜美が言う。「七菜香。その写真、私のスマホにも送って」
「いいよ」
 七菜香はスマホを操作して、亜美にメールを送った。亜美はそのメールを開き、駒野と未羽のキス写真を見て、「うふふ」と笑った。

 学校が終わり、すぐに自宅に帰った。
 アパートのドアを開けると、居間から大いびきが聞こえてくる。でかい図体の男が、大の字で寝そべっている。大口を開けて、よだれを垂らしているその顔に足の裏を乗せて、全体重をかけてぐりぐり踏みつけた。
「邪魔だ。起きろ、ダメ親父」
「うぐっ」
 びっくりして目を覚ましたのは、父・向井鉄矢。四十三歳。
「あ、おかえり」
 無精ひげに、乱れた長い髪。よれよれの長襦袢。ファッションではなく、出不精でこうなっている。父は愛する娘の顔を見て、にっこり笑った。
 由芽はため息をつく。
 父は売れない画家だ。ラーメン屋でバイトしているが、月の収入は十万ほど。バイトのない日は、公園の遊歩道に行って、絵を描きながら、無許可で展示販売している。まれに売れることもあるが、月一万はいかない。
 家賃四万のボロアパートは、雨漏りがひどい。水洗トイレはあるが、風呂はない。大家はこのアパートを取り壊したいと数年前から言っていて、立ち退きを迫ってくるが、図太く粘って居座っている。
 母は生活苦に耐えられず、三ヵ月前、家を出ていった。知人のところに身を寄せるという書き置きを残して。警察に捜索願いを出したが、事件性はなく、今も消息不明である。そのときは大変だった。父は書き置きを見て、母が家出したことを知り、慌てて由芽に知らせに学校に来た。
 五時限目の授業中。突然、教室のドアが開いた。
「由芽、大変だ! 母ちゃんが出ていった!」
 半泣き顔の父が大声で叫んだ。おかげでクラスの笑いもの。母がいなくなったショックより、恥ずかしさのほうが大きかった。
 父が居間で寝ていると、座る場所もない。「どいて」と言ったら、父はすみやかに場所をあけた。内職のDMシール貼りをやっている途中で眠ったようだ。DMの束がテーブルに散らかっている。
 宛先が記されたシールをハガキに貼る仕事。一枚五銭。
「もう、内職やってないじゃん」
「悪い悪い。やってたら眠くなっちゃって」
「一日に何時間寝るのよ」
 父はよく寝る。一日の半分は眠っている。
 由芽は洗面所に行って、手を洗った。気温が下がってきて助かる。風呂がないので、汗をかいてもタオルをぬらして拭くだけ。洗濯機もないので、服は手洗いだ。夏が終わり、その回数が減るだけでも助かる。
 セーラー服を脱ごうとした。だが、うまく脱げない。サイズが小さく、ぴちぴちなのだ。スカートにいたってはミニスカート状態になっている。
 ここ一年で急激に身長が伸びた。サイズはMからLLに。小学生までは早生まれのせいもあって、背は低いほうだった。中学に入って突如、成長期に入り、ここ一年で十五センチ伸びた。百七十センチを超えて、まだ伸びている。母方の祖母が高身長だったらしく、どうやら隔世遺伝である。
 かといってこの経済状況では、制服を買いかえられない。このセーラー服は、近所のお姉さんからもらったお古だ。LLサイズの制服を持っている人は近所におらず、買うしかない。だが、あと一年半で着なくなるものを、高いお金を出して買う気にはならない。なんとか卒業までもたせたい。
 ジャージに着替えて、あぐらをかいた。DMのシール貼りをする。由芽がいらついているのを察してか、父がご機嫌うかがいをしてくる。
「お疲れさま。勉強、疲れたでしょ。肩でも揉もうか?」
 父は背後に立ち、由芽の肩を揉みはじめる。
「お腹すいた? おやつをどうぞ」
 父はコップに水道水を入れて持ってきた。パンの耳を油で揚げて、砂糖をまぶしたものを皿に載せて運んでくる。近所のパン屋からただでもらってくるパンの耳。時にはこれが主食になる。
 成長期なので、お腹は減る。由芽はパンの耳をかじった。
 こんな生活でも、父は幸せなのだ。
 お金がないことは父にとって不幸にならない。好きな絵が描けて、愛する家族と暮らしていけるだけで、あとは好きなだけ寝て、最低限食っていくことができれば、どんなに貧乏でも苦しくない。
 ちなみに、食べ物にはそれほど困らない。父はただで酒を飲む天才だ。夜、繁華街に行って、お金を持っていそうな人に取り入る。よいしょして、へいこらして、時には物乞いみたいな真似をして他人の同情を買い、酒をごちそうしてもらう。お調子者なので、どのような場でも楽しく振る舞える。そして余った料理を、タッパーに入れて持ち帰ってくる。からあげなど、酒のつまみばかりだが。
 父には世間体のようなものはない。人の目などまるで気にしない。ゴッホ級の変人なのに、絵の才能には恵まれていない。なぜこの生活に不安を覚えないのか、我が父ながら、まるで理解できない。
 由芽はため息をつき、DMのシール貼りを続けた。

 一週間が過ぎた。
 中間テスト後の最初の数学の授業。
 駒野が答案を返していく。
「じゃあ、テストを返すぞ。名前を呼ばれたら前へ。相沢」
 五十音順に名前が呼ばれ、答案を取りに行く。由芽の番が来て、答案を受け取って席に戻った。八十八点。由芽にとっては普通だ。お金がないので塾には通っていないが、独習でなんとか成績を保っている。
 クラス全員の答案を返したあと、駒野による模範解答の解説が続いた。
 授業が終わり、ふと後ろを振り向く。
 後ろの席に亜美がいる。机の上には数学の答案が載っていた。百点だった。
「あ、百点。すごいじゃん、亜美」
「う、うん……」亜美は浮かない表情。
「どうしたの?」
「これ、間違ってるんだよね」
「は?」
 亜美の答案をよく見てみた。すると、確かに亜美が書いた答えは間違っているのに、なぜか正解になっている。しかも三問も。四点の問題が二つ、三点の問題が一つ。つまり亜美の本当の点数は八十九点ということになる。
「どうしよう。訂正してこようか」と亜美は言った。
「は? なんで?」
「だって間違いなのに、正解になってるから」
「リンカーンか。いいじゃん、黙ってれば。駒野が勝手に間違ったんだから、ありがたく百点ちょうだいしときな」
「…………」
 亜美は浮かない表情のままだった。せっかくラッキーで百点を取ったのに、正直に訂正に行こうかと悩むところが亜美らしい。自分が嘘をついているような気持ちになっているのかもしれない。
 成績順でいくと、亜美、由芽、七菜香の順になる。亜美はすべての科目で九十点台。しかし苦手な数学が足を引っぱっていて、八十点台か、時には七十点台に落ちてしまう。亜美は推薦で私立高校を狙っている。内申点は少しでも高いほうがいい。苦手な数学が百点なら、学年一位になってもおかしくない。
 結局、亜美が訂正に行くことはなかった。
 その日の授業が終わり、ホームルームになった。
 駒野は言った。「では、学芸会の演劇の配役を決めます」
 秋の学芸会で、二年生は演劇をやることが決まっている。
 二組でやるのは「七夕の恋」。
 由緒正しき家柄のお嬢様が、七夕の夜に出会った根なし草の不良少年と恋に落ち、周囲の反対を押しきって駆け落ちするという物語。オーソドックスな少女漫画的ラブロマンスで、主人公のヒロイン役とその恋人、ヒロインの両親、友だち、執事、マフィアのボスと子分、浮浪者、妖精などの役がある。
 すでに、希望する役の第二候補までを書いて提出してある。
 由芽の第一候補は、小道具係(定員2)。第二候補は大道具係(定員3)。人前に立つのが好きではない亜美も、由芽と同じにしていた。
 立候補が重なった場合は、クラスの投票で決まる。とはいえ、実際に投票が行われることはない。クラス内で談合があり、誰が何役に立候補するかはあらかじめ決まっているからだ。重なった場合は、スクールカーストの序列で決まってくる。序列の上位者から選んでいき、下位者は身を引いて譲ることになる。
 小道具係には二人の立候補しかなかったので、すんなり決まった。
 波乱が起きたのは、ヒロイン役だった。
 二人の立候補があった。丸美麗奈と栗竹七菜香。
 教室がざわついた。
「なぜ……」由芽は思わずつぶやいていた。
 後ろの席の亜美とも目を見合わせた。亜美も驚いている。
 まさか七菜香がヒロイン役に立候補しているとは思わなかった。
 七菜香がヒロイン役をやりたがっているのは察していた。七菜香が片想いしている徳永晃平が、恋人役に決まっているからだ。この学校で一番のイケメン。恋人役は晃平しかいないという感じで自動的に決まっていた。
 しかしこのクラスにはもう一人、絶世の美少女がいる。それが丸美麗奈。彼女は演劇部で、女優志望である。ヒロイン役は当然、麗奈で決まりという感じだったので、そこに割り込んでくる猛者がいるとは思わなかった。
 投票になったら、七菜香に勝ち目はない。クラスは男子十四人(本当は十五人だが、不登校中の聖也はのぞく)、女子十三人の計二十七人。うち女子票は半分に割れるかもしれない。しかし男子票は、まず麗奈に入る。七菜香はでしゃばりで、男勝りで、容姿的にもきつい顔なので、男子ウケがよくない。
 勝てるわけないのに、なぜ無謀な立候補を試みたのだろう。
 由芽も亜美も、まったく聞いていなかった。
 負けたらみじめだ。プライドの高い七菜香が、笑いものになるリスクを冒してまで、麗奈に戦いを挑むとは思わなかった。
 教室はまだざわついていた。
 ちらと七菜香を見る。なぜか自信ありげな顔。
 立候補が重なったのはヒロイン役だけだった。みなに投票用紙が配られた。由芽は友だちの義理で、栗竹七菜香と書いた。
 駒野が用意した投票箱に、投票用紙を入れた。全員が投票を終えたあと、駒野が投票箱に手を入れて一枚ずつ取りだし、書かれている名前を読みあげていく。今日の日直が、黒板に「正」の字でカウントしていく。
「丸美、丸美、栗竹、丸美、栗竹、栗竹、丸美……」
 麗奈の圧勝を予想していたが、意外な接戦。
 開票が終わったとき、教室がどよめいた。栗竹十六票、丸美十一票。
 駒野が言った。「ヒロイン役は栗竹七菜香に決まりました」
 七菜香は机に座ったまま、表情を押し殺していた。だが長い付き合いの由芽には、七菜香が心の中でにんまりしているのが分かった。
 一方で麗奈は、茫然自失とした顔だ。クラスも騒然となっている。全員の頭にクエスチョンマークが浮かんでいる。
 しかし投票前の、七菜香のあの自信ありげな顔が、はったりとは思えなかった。七菜香はきっと票読みしていて、勝算ありと踏んでいたのだ。そうでもなければ、やはり立候補はしないだろう。
 でも、なぜ? 麗奈は実は男子に嫌われていた、とか。
 分からない。
 ホームルームが終わったあと、七菜香に「おめでとう」と言った。七菜香は「いやあ、勝てるとは思わなかったよ」と照れ笑いしていた。
 内職があるので、すぐに家に帰った。
 自宅アパートのドアを開けると、突然、
「おかえり、由芽」
 父の陽気な声が返ってきた。そして、漂ってくるおいしそうな食べ物の匂い。居間に行くと、信じがたい光景が広がっていた。
「え、え、え、なにこれ?」
 テーブルの上に、寿司、しゃぶしゃぶ、ピザ、特大イチゴケーキが載っている。父は芋焼酎を飲んで、顔を真っ赤にしていた。
「なんなの、これ?」
「由芽の誕生日パーティーだよ。ずっとやってなかったから、今日やろうと思って。待ってろ。ロウソクに火をつけるから」
 父はマッチをすり、ケーキのロウソクに火をつけた。
「ちょっと待ってよ。この料理はなに? お金はどうしたの?」
「ああ、絵が売れたんだ」
「は?」
「ジャーン!」
 父は、トランプのババ抜きみたいに紙幣を持って、見せびらかした。
「俺の大作『美しき青春』が三十万で売れたんだ」
「嘘っ!」
 父の話によると、今日、公園の遊歩道で絵を描いていたら、日傘をさし、サングラスをかけた一人の高貴なご婦人が足を止めたという。展示していた「美しき青春」にいたく感動し、現金三十万で即決購入したという。
「嘘だ。信じられない。あんな紙くずが三十万で売れるなんて」
「バカにするな。見る人が見れば、価値が分かるんだ。ものすごくきれいで、上品なご婦人だった。きっとすばらしい血筋の、教養のあるお嬢様にちがいない。分かる人には分かるんだよ、俺の絵の美しさが」
 由芽にはさっぱり分からない。やつれた顔の少年が風に吹かれながら、どんより暗い海を見つめているだけの、今にも入水自殺するのではないかと憂鬱になってくる絵だ。あんなものに三十万の価値があるわけない。
 由芽はあぐらをかいて座り、トロに手を伸ばした。
「すげえうまい」
 うますぎて涙が出てくる。寿司を食べたのは久しぶりだ。いつもパンの耳や揚げ物ばかり。感動で涙があふれてくる。
「でも、だからって、いきなりこんな無駄づかいして」
 父が持っている札束をすべてむしり取った。数えてみる。三十枚あるはずなのに、二十六枚しかない。もう四万円も使ってしまっている。
「はい、全部没収」
「そんな、せめて半分は俺のこづかいに」
「ダメダメ。お人好しの大家につけこんで滞納している家賃だって、もう半年以上払ってないんだから」
「五万だけでも」
「ダメ」
「じゃあ、三万」
「ダメだって」
 父はお札に手を伸ばして食い下がってくる。由芽は父の腕をつかみ、一本背負いで担ぎあげて、力まかせに畳に投げ飛ばした。

「親父の絵、売れたんだよね」
 いつもの教室のベランダで、七菜香や亜美と話をしていた。
「へえ」と亜美。「いくらで?」
「三十万」
「えーっ!」亜美が大声をあげた。「あんな絵が? ……あっ、ごめん」
「いいよ。私も同意見だから。でも、売れたのはマジなんだよね」
 あまりにも信じがたかったので、偽札でないこともちゃんと確認した。
「誰が買っていったの?」と七菜香。
「私は会ってないんだけど、父によれば、きれいで高貴なご婦人だって」
「ふうん」
 七菜香は窓枠に座って、腕組みしている。
 その一件以来、父を見る目が少し変わった。
 父は変人だ。まともには生きていけないダメ人間である。しかし才能とは、往々にしてそういうものではないか。ピカソもダリも山下清も、絵を描く才能がなければ、ただの変人だし、ダメ人間とさえ言っていい。
 由芽に芸術を見る目がないだけで、実は父の絵は、見る人が見れば、三十万を出しても惜しくないくらいの価値があるのかもしれない。つまり父に才能がないのではなく、まだ発見されていないだけ。だとしたら、問題はすぐに解決する。持っていくべきところに持っていけばいいのだ。ダメ元でも、どこかの画廊に持っていくか、あるいはコンテストに出してみるのもいいかもしれない。
 などと欲が出るが、やはりあんなものに価値があるとも思えず。
 父の絵は、太い線で書きなぐった乱雑な絵だ。大胆な筆致で、迫力はあるが、稚拙だ。これは人で、これは目で、これは鼻で、これは口というのは分かるが、全体として見ると抽象画のような絵である。
 見方を変えると、父にしか描けない絵だと思う。他には類がない。ノーコンだが、百六十キロ出ている速球みたいに、心のミットにズシンとくる。三十万で売れたと聞いてからは、なんだか味があるようにも思えてきた。
 臨時収入が入ったので、サイズの合った制服を買おうかとも思った。しかし貧乏人のサガで、あと一年半しか着ない消耗品にお金を使いたくないという気持ちが勝ってしまう。スカートはかなり短いが、まだパンツが見えるほどではない。仮にパンツを見られたところで、死ぬわけではない。
 その日の授業を終えて、教室を出た。職員室に用があり、向かった。職員室のドアをノックして開けたところで、
 ちょうど女性が出てきて、ぶつかりそうになった。
「あ、ごめんなさい」由芽は謝った。
 女性は私服だった。肩のあいたボーダーのシャツに、細長い足が強調されたデニムパンツ。がっちりメイクに、赤の口紅が映えている。先生かと思ったが、教師にしては派手すぎる。よく見ると、聖也の母、江藤未羽だった。
「あ、どうも、こんにちは」由芽は愛想笑いをして、頭を下げた。
 未羽はとまどったような表情を浮かべた。誰か分からなかったようだ。しかし顔をじっと見つめて、やっと由芽だと認識した。
「あっ」
 未羽は、聖也が小六のとき、クラスの役員だった。由芽はクラスの代表委員を務めていたので、少し関わりがあった。しかし未羽が知っているのは、まだ背が低かったころの由芽である。ひと目では分からなかったのだろう。
「こんにちは」由芽はもう一度言った。
 だが次の瞬間、未羽はきつくにらんできた。その顔には敵意がにじんでいた。なにかされるのではないかと怖くなった。未羽は表情を硬直させたまま、由芽を無視して、黙って横を通りすぎていった。
 やっぱり怒っているんだ、と思った。
 実は、聖也のひきこもりの原因を作ったのは由芽なのだ。
 発端は一年前である。一年三組の丸美麗奈の体操着のズボンがなくなったことがきっかけだった。
 その日、体育の授業があり、終わったあとに教室に戻って、女子は体操着から制服に着がえた。次の授業が理科で、理科室に移動した。それが終わって教室に戻り、麗奈がふと体操着入れを持つと、軽い気がした。開けてみると、ズボンがなくなっており、盗まれたと騒ぎになった。
 体操着がなくなったのは、着がえたあと、理科の授業が終わって戻ってくるまでのあいだだ。犯人探しがはじまった。
 そこで由芽が思い出した。みなが理科室に移動したあと、なぜか聖也が理科室を出ていったこと。数分して、授業開始のチャイムが鳴った直後に、ぎりぎりで戻ってきたこと。数分というのは、理科室と教室を往復するのに充分な時間だ。そのことを由芽が指摘すると、容疑は聖也に向かった。
 麗奈は、クラスの男子のアイドル的存在である。男子の中でもっとも体格がよくて、不良っぽい子が言った。
「聖也。麗奈の体操着、盗んだだろ」
「いや、そんなことしないよ」
「じゃあ、なんで理科室を出ていったんだよ」
「筆箱を取りに行っただけだよ」
「嘘つくな。おまえが犯人だ!」
 その男子は、麗奈の前でかっこつけたい気持ちがあったのだろう。ひと回り体の小さい聖也の胸ぐらをつかみ、壁に押しつけて、自白させにかかった。聖也は無罪を主張した。「じゃあ身体検査だ」と誰かが言った。聖也のバッグや机の引き出しが引っぱりだされたが、何も出てこなかった。悪ノリした別の男子が「パンツの中に隠してんじゃねえか」と言った。「脱がせ、脱がせ」と別の男子がはやしたてた。男子数人で聖也をはがいじめにして、服を脱がせ、パンツを脱がせた。別の男子がその姿を写真に撮る。女子もいるなかで裸にされた聖也は泣いていた。
 結局、麗奈の体操着は見つからなかった。翌日、麗奈と一緒に着がえていた友だちの体操着入れの中から見つかった。間違って友だちの体操着入れに入ってしまったというのが事の真相だった。
 聖也の容疑は晴れたが、心の傷は癒えず、翌日から学校に来なくなった。
 噂では、ひきこもって以来、部屋から出ていないらしい。その事件が一年生の一学期のことなので、もう一年以上になる。
 裸にしたのは男子たちだ。由芽は直接の加害者ではない。しかし聖也が犯人だと最初に指摘したのは由芽である。なんとなく由芽が悪いという雰囲気になった。事の経緯は未羽も聞いているはずで、由芽を恨んでいたとしてもおかしくない。いや、あの顔を見ると、やはり恨んでいるのだ。
 未羽は足早に歩き去っていった。
 ひきこもりの子供を持つ母親は大変だ。担任やスクールカウンセラーなど、そのつど相談のために学校に来る。高校進学をどうするかも問題だ。
 ふいに思い出す。中間テストがあったので忘れていたが、未羽と駒野は不倫しているのだ。担任に息子の相談をしているうちに不倫関係になったのだとしたら、それもめぐりめぐって由芽のせいということになる。
 職員室で用をすませ、帰宅しようと靴箱に向かった。
 上履きを脱いで靴箱に入れ、靴を取ると、何かが足元に落ちた。
「ん、なんだこれ?」
 封筒だった。ラブレターかと思い、心臓がはねた。封筒には何も書かれていない。封もされていない。開けると、五枚の写真が入っている。
 上から順に見ていく。
 一枚目に、父が写っている。たぶん最近の写真だ。どこかのスーパーの菓子売り場に立っている。
 二枚目。父は商品棚に近づき、首をきょろきょろさせる仕草をしている。
 三枚目。父は商品棚に手を伸ばし、チョコレートの箱を取る。
「あっ!」
 四枚目を見て、思わず声をあげた。そのチョコレートの箱を、自分のリュックにこっそり入れている。
 五枚目は、父がその場を立ち去る写真だった。
「ま、万引き……」
 父が万引きしている決定的な証拠写真だった。おそらく動画か、連続写真で撮影したものである。封筒に入っていたのは五枚のみ。手紙は入っていない。宛名も差出人も書いていない、普通の無地の封筒だ。
「誰だ、こんなことをするのは?」
 差出人に心当たりはない。しかし父が万引きしているのは確かだ。
 由芽は全速力で自宅に帰った。玄関のドアを開けると、いつものようにダメ親父が内職を放ったらかして、居間で寝ていた。その顔を、足の裏で思いきり体重をかけてぐりぐり踏みつぶした。
「おい、こら、起きろ。このダメ親父!」
 父は、足の裏で口をふさがれて、もがいている。
「ううっ……。あ、おかえり、由芽」
「おかえりじゃねえ。このクソ人間が! これを見ろ」
 五枚の写真を投げつけた。父はもぞもぞと体を起こし、写真を拾った。一瞬で目が覚めたようだ。顔が青ざめていく。
「これはなに? どういうこと?」
「あ、いや、これは、なんというか……」
 父は、言われるまえにすでに正座していた。トイレではない場所でおしっこをしてしまった子犬が、飼い主のご機嫌をうかがうような上目づかいで、由芽を見てくる。その顔で分かった。父は間違いなく万引きをしているのだ。
「ねえ、どういうこと? あんた、万引きしてんの?」
「いや、その……」
「万引きしてんのかって聞いてんの。イエスかノーで答えろ」
「……イエス」
「いつから?」
「ええと、最初にやったのは小二かな」
「そんな昔のことは聞いてない。これはいつ?」
「たぶん昨日。夕方ごろ。尼川スーパー」
「誰に撮られたのか、分かる?」
「分からない。ぜんぜん気づかなかった」
「いつもやってんの?」
「たまにだよ、たまに。転売はしない。自分が食べるぶんだけ」
「だから、いいってわけじゃないでしょ」
「はい、その通りです」
「もう金輪際、万引きはしないと約束して。もし次やったら、私がこの証拠写真を持って警察に突きだすから」
「分かりました。もうしません。約束します。ごめんなさい。勘忍して」
 父は土下座した。平身低頭、謝っている。
「ねえ、他に犯罪とかやってないでしょうね」
「やってない、やってない。万引きだけ」
「あの三十万は? 本当に絵が売れたの? それとも空き巣でもやってるんじゃないでしょうね」
「それは本当。あの三十万は本当に絵が売れたんだ。それだけは信じて」
 実際のところ、由芽が学校に行っているあいだ、父がどこで何をしているのかは分からない。ダメ人間ではあるが、人を傷つけたり、罪を犯したりすることはない人だと思っていた。それも見込みちがいだったようだ。
 それはともかく、写真を撮ったのは誰なのか。その目的はなにか。
 たまたま父の万引き現場を見かけて、写真で撮った。でも警察には持っていかず、店側にも知らせず、ネットに流すこともなく、ただ父が警察に捕まるまえに万引きをやめさせなさいと、由芽に善意で忠告してくれたのだろうか。由芽たちに対して害意がなさそうなのは幸いだが。
 父はまだ土下座を続けていた。

 父の万引き事件から、四日が経った。
 教室では「七夕の恋」の通し稽古が続いている。
 麗奈はメイド役に落ち着いた。本人は不本意そうで、やる気が見えない。晃平も、恋人役が七菜香だからか、気乗りしていない様子だ。七菜香だけ気合いが入りまくっていて、一人で空回りしている。
 役者陣が稽古を続けるなか、由芽と亜美は小道具を作っていた。段ボールに緑色のペンキを塗り、草むらを作っている。
 だが、作業に身が入らない。父のことが尾を引いていた。
 あれから何の音沙汰もない。写真を撮ったのが誰なのかも分からないまま。何もないのだから、特に他意はなかったのかもしれない。たまたま父が万引きしているところを写真に撮ったが、警察に密告するのも気がとがめ、万引きをやめさせるように由芽に忠告してくれた善意の人だと思いたかった。
 通し稽古は続いた。衣装も着て、本番さながらの稽古だ。
 ちなみに衣装は自腹で買うか、作るのが決まりだ。小道具は学校の費用だが、本人が着る衣装は自分で用意する。由芽が小道具係を選んだのは、自腹で衣装を用意するお金がないことに尽きる。
 通し稽古もいよいよクライマックス。
 七菜香と晃平のキスシーン。パーティーの途中で晃平が現れ、ドレスを着ている七菜香を連れだし、駆け落ちするシーンだ。そして晃平の胸に抱かれて、永遠の愛を誓ってキスをする。
 本当にキスをするわけではないけれど、ぎりぎりまで顔を近づける。
 七菜香がピンクのドレスを着て、登場した。
「えっ」
 由芽は思わず声をあげた。七菜香が一瞬、本物のお嬢様に見えた。
 まるでウェディングドレスのような、すてきなドレスを着ている。晃平は父親のスーツをタキシード風に着ているだけだし、他も似たりよったりで、仮装大賞レベルの衣装なのだが、七菜香だけ本物のドレスだった。
「ねえ亜美。あの七菜香の衣装、どうしたの?」
「買ったんだって」と亜美。
「嘘? いくらしたの?」
「十万まではいかないけど、それくらいはしたらしい」
「なんで七菜香がそんなお金、持ってんの?」
 七菜香の家は、由芽ほどではないが、けっして裕福ではない。団地に住んでいる、ごく普通のサラリーマン世帯だ。
「さあ」亜美は首をかしげる。「でも最近、羽振りいいんだよね。スマホも新しい機種に買いかえるって言ってたし」
「なんで急に……。まさか援交でもしてるんじゃないでしょうね」
「さあ」
 通し稽古が終わった。
 由芽、七菜香、亜美の三人で帰ることになった。七菜香はドレスをたたんでスーツケースに入れた。高価なものなので、いちいち持ち帰る。
「あー、疲れたぁ」と七菜香は言った。「亜美。最後のセリフ、どうだった?」
「うん、よかったよ」
「難しいんだよね、感情を乗せてセリフをしゃべるのって。でも、最後のあのセリフはびしっと決めないと、劇が壊れちゃうし」
 七菜香はすっかり女優気取りだ。公平に見て、七菜香の演技はうまくない。思いきりはいいけど、感情表現が雑で、気持ちを入れれば入れるほど、がなり声になるという致命的な欠点を持つ。晃平や麗奈に比べると、素人感まるだし。しかし足を引っぱっているという自覚は、本人にはないようだ。
 三人で並んで靴箱まで歩いた。上履きを脱いで入れ、靴を取ったところで、何かが落ちた。封筒だった。
 また、父の万引き写真かと思った。おそるおそる封筒を拾った。
 以前のとはちがう封筒だ。少し高級になっている。しかし宛名はない。シールで封がされている。シールをはがして封筒を開けた。
 中に入っていたのは写真ではなく、手書きの便箋だった。

 突然のお手紙で、驚かせてしまってごめんなさい。唐突なお願いで、すみません。由芽さんにお話ししたいことがあります。今日の午後八時、学校裏の尼川神社に来てもらえないでしょうか。お願いします。
                               徳永晃平

「ラ、ラブレター?」声に出してしまった。
「なに?」
 近くにいた七菜香が手を伸ばし、手紙をひったくった。
「あ、ちょっと、返して」
 由芽が奪い返そうとするが、七菜香は背中を向けてブロックした。亜美も横から手紙をのぞきこむ。
「なんで晃平が……、由芽を?」七菜香の声は震えていた。
 七菜香が晃平に片想いしていることは知っていた。七菜香の表情は、驚きから怒りに変わっていた。由芽をにらみつけてくる。
「ちょっと、返してよ、もう」
 由芽は手紙をひったくった。気まずい空気になった。
「行くの?」と七菜香は言った。
「……い、いや……、どうしようかな……、アハハ」
 笑ってごまかした。が、それがかえって癪に障ったのか、七菜香は両手を伸ばして、由芽の胸を突き飛ばした。
 由芽は後方に吹き飛んで、靴箱に背中を打ちつけた。
「やめて!」亜美が止めに入った。
 怒りがおさまらない七菜香は、由芽をひとしきりにらんだあと、背を向けて、肩を震わせながら一人で玄関から出ていった。
「由芽、大丈夫?」と亜美が言う。
「うん、平気」
「亜美、帰るよ!」七菜香は、そんな奴と口を利くなと言わんばかりに、玄関の外から大声で叫んだ。
 亜美は双方の板ばさみになって、おろおろしていた。由芽は、行っていいよ、と亜美に目で伝えた。亜美はうなずいた。
「じゃあ、また明日」
 亜美は言って、七菜香のあとを追いかけていった。

 夜七時半、由芽は自宅にいた。
 父はいない。繁華街に酒を飲みに行ったのだろう。
 由芽は夕食のカップラーメンを食べ、パンの耳をかじっていた。
 開いた窓から涼しい風が入ってくる。窓際に座り、壁によりかかって、ラブレターをくりかえし読み返していた。
 どう考えても、この呼びだしは愛の告白である。
 由芽は美人というほどではないが、ボーイッシュな顔立ちと細身の高身長が、モデルみたいと言われたことはある。とはいえ、晃平が由芽に恋心を抱いていたなんて思いもしなかった。晃平とちゃんと話したことはないが、学校一のイケメンだから、気にはなっていた。でも恋愛対象としては見ていなかった。
 まるで夢みたい。だからこそ、このラブレターは本物かと疑ってしまう。誰かのドッキリで、からかわれているだけのような気もした。クラスでこういうことをしそうなのは七菜香だ。しかしあの様子を見ると、絶対にちがう。他にドッキリをしかけてきそうな人間は思い浮かばない。
 筆跡も晃平っぽい。晃平は、女性的な整った文字を書く。たぶん本物だ。
 尼川神社は、学校の裏山にある。三十段ほど階段をのぼっていった先に境内があり、運動部がよく階段ダッシュをしている場所だが、夜八時になると、ひと気はなくなる。この神社で告白すると、恋が成就するという言い伝えが古くからある。要するに、告白スポットなのだ。
 由芽は体育座りをしたまま、何度も同じ文面を読み返していた。
「なんだ、それは?」
 突然、真後ろから声がした。外にいる父が、開いた窓から顔をのぞかせていた。
「あっ」
「尼川神社に午後八時? なんだそれは? ラブレターか?」
「勝手に盗み見しないでよ。お酒を飲みに行ってたんじゃないの?」
「ああ。でも知り合いが見つからなくて、帰ってきたんだ」
 父は靴を脱ぎ、網戸を開けて窓枠から入ってくる。
「ちょっと、部屋に入るなら、玄関から入ってよ」
「その手紙はなんだ?」
 父は怒った顔である。初めて見る表情だった。
「お父さんには関係ないでしょ」
「ある。彼氏を作るなんてダメだぞ。まだ中学生なんだから」
「四十すぎて定職に就いてないおっさんに言われたくないわ」
「うっ……。とにかくダメだ。中学生にはまだ早い」
「そんなことないでしょ。まわりには付き合っている子もたくさんいるし」
「ダメだ。中学生の女の子を夜八時に呼びだすなんて、ろくな男じゃない。絶対に行かせないぞ」
 そろそろ家を出ないと、夜八時に間に合わなくなる。
「どいて」
「いや、どかん。絶対に行かせない」
 父は玄関前に立ちふさがった。横を通ろうとするが、ラグビーのディフェンスみたいに横にスライドして、通せんぼしてくる。
「どいて」
「どかん」
「どけって」
「どかん。ここを通りたければ、俺を倒してから行け」
「あっそ。じゃあ、そうする」
 由芽は父に背を向けた。くるりと反転し、その反動を生かして、父の顔面に回し蹴りを食らわせた。あごに直撃し、父は吹き飛んだ。
 白目をむいて気絶している。いちおう呼吸を確認する。息はある。
「死んでないな。よし、行くか」
 暴力は嫌いだが、なぜかこの父を殴ることに良心の呵責はない。
 由芽は家を出て、神社に向かった。

 午後七時五十分。三十段ある階段をのぼって、尼川神社に着いた。
 夜、ここに来るのは初めてだ。想像以上に暗かった。外灯は一つ、神社がライトアップされるかたちだが、その周辺はほぼ闇である。
 晃平はまだ来ていない。由芽は境内のわきに立っている木の前に立った。
 心臓のドキドキが止まらない。
 階段のほうを見る。この神社に来るには、あの階段をのぼってくるしかない。切り立った山のてっぺんにあり、急傾斜なうえに鬱蒼と生い茂った木々が柵の役割を果たすため、他に神社に上がってくるルートはない。
 つまり、もうじき晃平はそこから現れる。
 思わず想像してしまった。私の王子様が、階段を上がってきて姿を現し、由芽の顔を見て優しく微笑むのを。
 腕時計と階段を交互に見ていた。五十一分、五十二分……。
 時間の進みが遅く感じられた。心臓はますます激しく高鳴っていく。
 時計の針が、七時五十四分を指したとき、
 背後に気配を感じた。振り向こうとした瞬間、首に腕を回されて締めつけられた。蛇が首に巻きついたような感触だった。
 力ずくで喉を絞められる。
 その腕は、革の手袋をしていた。長袖を着ているが、ちょうど手首の部分だけ肌が露出していた。由芽は反射的に、その手首に噛みついた。
「うぐっ」痛みをこらえるうめき声。
 歯が肉に食い込んだ。相手がひるんだ隙に、もがいて腕から逃れようと試みた。だが次の瞬間、それを見て体が凍りついた。
 ナイフの刃。
 とがった刃先が、由芽の眼球の前に突きだされた。恐怖で身がすくみ、首を締めつけられたまま、抵抗できなくなった。
 相手は左手で刃先を突きつけたまま、右腕で首を締めつけてくる。
「動くな」
 背後の影は言った。その声は、生声ではなく、ボイスチェンジャーを使った機械的な声だった。いや、背後の影がしゃべっているのではなく、あらかじめ録音したものを流しているのかもしれない。声は続いた。
「あまり調子に乗るなよ。おまえみたいな小娘、俺たち組織の手にかかれば、いつでも始末できるんだぞ。これは警告だ。次はない」
 それだけ言うと、犯人は刃を遠ざけた。由芽の肩口をつかみ、思いきり突き飛ばした。由芽はそばに立っていた木に激突し、その根元に倒れ込んだ。犯人はそのまま階段のほうに走っていった。
 真っ暗で、影しか見えなかった。犯人は階段を下りていき、闇に消えた。足音が遠ざかっていく。やがて消えた。
「な、なに、いったい……」
 由芽は、木の根元に寄りかかったまま、しばらく動けなかった。
 いきなりナイフを突きつけられた。組織の手にかかれば? 警告? まったく意味が分からない。
 分かるのは、あのラブレターは罠だったということだ。晃平からのものではなく、由芽を呼びだして脅すための罠。でも、なぜ由芽が脅されなければならないのか。人ちがいじゃないかと思った。しかしあの手紙には「由芽」とはっきり書かれていた。犯人は間違いなく由芽を呼びだしたのだ。
 動揺がおさまるまで、そのまま木の根元に寄りかかっていた。
 手足がまだ震えている。しかし脳は正常に働いていた。こんなところにもういたくなかった。早く安心できる場所に帰りたかった。
「……とにかく家に帰ろう」
 立ちあがり、階段のほうに歩いていった。階段の手前まで来て、立ち止まった。注意深く下を見た。
 誰もいない。犯人は立ち去ったようだ。
 早く帰ろう。階段を一段下りたところで、
「おい!」
 背後から声をかけられた。くぐもったような声だった。
 びくっとして、階段の一段目で立ち止まった。振り向いた瞬間、
 何かが迫ってくる。石だ。
 とっさによけた。だが、かわしきれなかった。
 石はこめかみをかすった。くらっとなり、ひざが崩れ、バランスを失った。由芽は転倒して、階段を転がり落ちた。
 こめかみを打ったせいで、視界がゆがんだ。三半規管が揺れて、天地が分からなくなった。階段を数段転がったところで止まった。
 由芽の頭上に、影がのしかかってくる。影は石を持っていた。それを振りあげる。石がふたたび迫ってくる。
 由芽は目をつぶった。頭頂部に強い衝撃があり、意識が飛んだ―
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