吾輩は霊である。名前はもう無い。

文字数 2,000文字

 吾輩は霊である。名前はもう無い。日本国で著名な作家だった訳でも無い。生きていた時に齧った程度の文学知識だけで、こうして語っている。語る、と言うからには自我がある。吾輩は死んでなお未練を残し、令和と呼ばれる時代を魂のみでさまよっていた。

 吾輩には入れ込んでいる女が居る。肉付きは悪く、無造作に長い黒髪が荒れ果てている。足を三角に立てて微動だにしない日々を続けており、気味が悪くて人っ子一人寄り付かない。部屋は不潔で、捨て損ねたゴミが散らばっていた。女はその一部だった。
 女は、生きていた頃の吾輩が世話になった恩人たちの娘だ。最近、その夫婦が事故で他界してしまった。吾輩の方がとうの昔に死んでしまっていたのだが、彼らの忘れ形見がどうにも心配になって動く霊魂になってしまったという経緯(いきさつ)である。

 女は食べ物が喉を通らないようだった。両親の突然死が心に抜けない杭を刺してしまったのだ。仕事を休み、死者も同情するほど死んだ数日を過ごしている。
 吾輩が生まれた頃なんて、真っ当に食べられる物も無かった。恩人に助けて貰うまで、あるかもわからない飯を探してゴミ箱を漁る日々だった。しかし女は恵まれた時代に生まれ、金にも困っていない。なのに自分のことも気遣えないなんて、ダメなやつだ。
 一応、近くで出来合いの物は買ってあるらしかった。小さな机の上には薄い袋に入れたままの握り飯が見える。吾輩はやれやれと首を振りながら、それを弾き飛ばした。
「きゃっ」
 女は何時ぶりかの声を上げた。上擦って掠れていたが、岩より硬かった体の起爆剤にはなったようだ。女は吾輩が机から蹴落とした握り飯を見て、おっかなびっくり手を伸ばす。
「ああ、そっか。何か食べないと……」
 女は包装を雑に破くと、針を飲むような顔をして米を飲み込む。苦しそうな表情は変わらなかったが、胃袋に物を入れると空腹を自覚し、貪る勢いで握り飯を食べ切った。そして腹を満たしたら、汚い部屋に倒れて眠った。
 吾輩は空気も要らない体で溜め息を吐き、再び女の横に居座った。せめてもと周りのゴミも蹴飛ばし、寝返りが打てるようにしてやる。まったく面倒をかける娘だ。

 そんな日々を続け、暫くが経った。女はやがて食に味を求め、髪を気にし、笑顔を取り戻した。思い出したように仕事へ行き始めると、疲労でよく眠ることができるようになった。
 すっかり飯を食うようになった女は、綺麗にした部屋に一人の男を連れ込むようになった。傷心に漬け込んだ悪漢ならば驚かせて追い返してやろうと見定めていたのに、男は誠実だった。菓子折りの手土産は、半透明のポリ袋に鍋の材料を詰めてくるようになり、吾輩の仕事はなくなった。

 ある日、二人は大規模な片付けを始めた。その最中、男が仕舞われていた小さな写真に興味を持った。少し豪華な食卓に若い夫婦が一組と、妻に抱かれて寝ている三毛猫が一匹。猫は笑顔に囲まれて腑抜けた顔をしている。男が尋ねた。
「写っているのはご両親?」
「そうよ。若い頃のね」
「猫を飼っていたんだね。名前は何て言うの?」
「実は、知らないの。私が生まれる前には亡くなっちゃった子らしくて。子どもの頃に聞いた気がするんだけど……忘れちゃった」
 女は吾輩の名前を知らない。だから吾輩の呼び名は、この世で不要になった。
 恩人夫婦は吾輩が死んでから、それこそ女のように悲しんでいたので、あまり話題に出さなかったのだろう。その代わりと言わんばかりに娘を溺愛した。死んだ側からすれば、大切な人たちにはすっぱり忘れてもらえて良かった。足取りは軽く人生を謳歌して欲しかったからだ。
「僕らも引っ越したら猫を飼おうか」
「良いわね。そうしたらきっと、この子も寂しくないわ」
 女は優しくお腹を撫でた。その手がかつて自分に乗せられていたものとそっくりで、吾輩は安堵した。娘はもう大丈夫だろう。新しい家族たちを霊ごときが怖がらせる訳にいかない。
 ひっそりと立ち去ろうとしたが、未練が髭を後ろ向きに引っ張ってくる。背中では新たな夫婦が幸せそうに寄り添っていた。せっついて飯を食わせる必要は無いのだから、いい加減に還らなければ。女は立ち直った。吾輩が現世に留まる理由はなくなったのだ。

 空へと伸びる道を歩く。人間よりずっと小さく、多い足跡が無意味に伸び続けた。終わりはいつだろう。
「おいで、××」
 俯いていたら突然、懐かしい声に驚いた。吾輩にしかわからない、吾輩を呼ぶ名前だ。瞬きも忘れて前を向くと、写真立ての姿よりもずっと老けた恩人たちが、あの頃と同じ笑顔で待っていた。
「好きだった鰹節、用意してあるからね」
「にぁあ」
 似合わない鳴き声を惜しげも無く放つ。こうすれば拾われた頃のように甘えさせてくれると知っていた。飯を食った後は、小難しい文学作品の子守唄で眠りにつく。永い眠りになることだろう。目が覚めたら、また面倒を見られるのも悪くない。
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