月心笑

文字数 1,949文字

 己れほどとんでもない目に会った通事はいないのではないだろうか。いや、今生までの話で、恐らくこの先には王の後継者の名前を聞き間違えたり、宣戦布告を伝え損ねたり、軌道計算がコンマずれたりする通訳者もいるかもしれないが。

 妹子さんは漢文をすらすら書くくせに、話そうとしない。謀略渦巻く朝廷で、のらりくらりと大礼とかやるほどの腹黒さのくせに、呵呵泰然とした妹子さんに誰も彼も遂には根負けしてしまう。それが大使の人となりなんですよねえ、と受け入れる太子は流石に大人物だ。だが遣隋の通訳に当てがわれた自分は、大分運が悪いと想う。預かった国書を楊帝の前で読み上げたら、余計な小序が付いていた。「日出処天子」と聞いて、隋の大帝の逆鱗触発、磔にされるかと思った。当の妹子さんはけろりとしている。ここは、ガツンと大和の建国を知らしめないとね、朝貢国として見下されちゃかなわないじゃん、とか言う。いや、隋に攻め込まれたら、和はそれこそ沈没しますからね!?

「福ちゃんは真面目だねえ、止利もだけど。国教化なんてどうでもよくない?」

 何の因果か、堅物清廉な兄と、この天邪鬼妹子さんは親友なのである。歳の離れた兄は朝廷に仕える仏師で、自分にとって若くに出家した父の代わりのような人だった。推古帝の発願で建造される元興寺の仏像に、隋と百済から仏教国として認められてお墨付きをもらうのも今回の使命なのだ。隋へ向かう船中で、珍しく波の穏やかなある夜、妹子さんはにやにやと笑って言った。

「大体さあ、朝廷が仏教推しなのは、自分たちの正統性が欲しいからでしょ。庶民にしちゃどうでもいいことだよね」

 隠し持っていたらしい酒瓶を取り出して、中天に掛かる月を仰いで飲み下す。国家の一大事を、酒のツマミ代わりにしないでほしい。

「よく知らないよ?だけどああいうのは解釈の問題なんだと思うわけ。輪廻ってのは、罪深いのは自分だけじゃないし、何度も贖罪の機会が与えられる、ってことでしょ。阿頼耶識なんてさ、人間も動物も草木も全部根本は繋がってるんなら、善も悪もみんな同じっていうことじゃない。これ以上の救いは無いもんね」

 兄さんも似たようなことを言っていた。王のために仏像は作りたくない、自分は一人一人の思いの映し鏡として仏像を作るんだ。和は統一されたばかりだ。豪族たちは王権を奪おうと策動しているし、朝廷内も分裂衝突を繰り返している。民草は戦と苦役と困窮に擦り切れていく。それでも、世界の見方を変えられたら、少しは心穏やかになれるのかもしれない。ちょっとした慰めでいいんだ、仏教なんてね。月を綺麗だと思える心の余裕ができるくらいで、いいんだ。と、うそぶく妹子さんに、私はしぶしぶ付いていく。

 いつの間にか楊帝の機嫌も直ったようで、というか東海の小国に関心も薄れたようで、妹子さんは隋でまた好き勝手やり出した。建設中の京杭運河に落っこちたり、長城の防人たちにちょっかいを出したり、科挙の問題を盗み見したり、大興城の設計図にいたずら書きしたり、この上司、どんだけだ。いろいろなところへ連れ回され、さまざまな人たちの通訳をさせられた。私の一族は渡来の者で、祖国の現状から学ぶことも感慨深いことも多かったが、隋のような文化大国でも問題を抱えていることに気付かされた。では、和はどんな国になることを目指せばいいのだろう。こちらの悩みは深まるばかりなのに、妹子さんは、まあ飲め、歌え、それでも駄目なら念仏だ、というノリである。

 その妹子さんが一度だけ激昂したのか悲嘆したのか、なんと隋からの返書を破り捨ててしまった。何が書いてあったのか、経由地の百済で何を囁かれたのか、通訳でしかない私には、知る由も無い。隋は高句麗と揉めていたし、楊帝は民心を失いつつあった。百済攻略に協力しろ、と言われたのかしれないし、楊帝謀殺に加担しろ、と言われたのかもしれない。どんなに悪びれてても、結局故郷のために働く、太子のアルカイック・スマイルに弱い妹子さんがしたことなのだから、余程な内容だったのだろう。それなのに私は、相談してくれなかったことに酷く腹を立てて、悔しくて、妹子さんと喧嘩別れしてしまった。

 返書が無くても、建仏のために賜わった黄金は、送り届けなくてはならない。兄に早く喜んで欲しい気持ちもあって、私は妹子さんとは別の帰国船に乗った。やっぱり謝っておくべきだった。どうしょうもない人だったけど、役に立ちたいと思っていたんだ。今宵はなんて綺麗な月。天上の星々も揺らして、笑っているようだ。まあいいか、生まれ変わりを繰り返せば、多分いつかまた会えるだろう。その時に、この国はどうなっているかしら。兄さん、妹子さん、仏さま、全ての人が、月を見て微笑むことのできるその日まで。
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