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 その後、出棺と火葬も粛々と滞りなく終わり、小さくなった祖母を連れて一度葬祭場へ顔を出してから涼佑達はやっと自宅に帰ってきた。祖母を仏壇に置いてから一息吐く。少ししてから母が「コーヒーでも淹れようか」と言い出し、その一言を皮切りに皆各々の日常へと戻っていった。



 翌日、涼佑達の住む八野坂町は大型の台風に見舞われた。幸い、近くの川が氾濫する程では無いようだが、大事を取って学校は休校となるらしい。スマホに入っているトークアプリ・メイムで知った涼佑は「よっしゃ」とガッツポーズを取った。急遽できた休日をどう過ごそうかと考えようとしたところで、玄関に仕事へ向かおうとしている父親の背中を見付けた。

「おはよ」
「おお、起きたか。涼佑」
「え、父さん。台風来てんのに行くの?」
「社会人には台風なんて関係無いからなぁ。涼佑も今のうちに学生を満喫しておくんだぞ」

 冗談っぽく言って靴を履き終えた父は「行って来ます」と言い残して、車に乗り込んでいった。それを台所から出てきた母と一緒に見送りつつ、昨日自分のアパートへ帰った姉のことを思い浮かべる。父と同じく社会人の姉はきっと今頃、仕事へ向かっているのかと思うとまぁ、可哀相にと心にも無いことを思った。
 窓の向こうは朝から激しい雨が降り、時折激しい音を立てて窓に雨粒が打ち付けられる。こんな日に外出しようなどとは一切思わなかった。



 ざあざあと激しく振り続ける豪雨の中、八野坂町を横断するように架けられた橋の上で、樺倉望は一人、濁流となった川を見つめていた。手には縦に裂かれた一匹の蛇の死骸。血が付くことも構わずに彼女はそれを両手に持ち、まじまじと見つめていたかと思うと、うっとり、と恍惚に笑った。



 幸い、朝のニュースでは一時危ぶまれた川の氾濫は無いと知らされ、今日から登校が始まるとあって、涼佑とみきは「残念」と互いに言い合った。友達に会いたくない訳じゃないが、如何せん授業がかったるいと思っていたのだ。二人分の弁当をテーブルに置いた母に「ほら、早く食べちゃいな」と急かされるもみきは髪型が気に入らないのか、洗面所に向かいながら「後で食べるー」と呑気な返事をしていた。

「もう、冷めちゃうってのに……」
「みきが食わないなら、食っていい?」
「バカ。涼佑も時間大丈夫なの? お弁当忘れないようにね」
「へーい」

 トーストの最後の一欠けを口に入れてから涼佑は鞄に自分の弁当を入れる。今日はウィンナーが入ってたら良いなと考えながら時計を見た。朝の七時半。涼佑の家から学校までは真っ直ぐ行って橋を渡れば、着いたも同然。始業時間は八時十五分だし、まだまだ余裕はある。みきが通っている中学校も高校のすぐ近くなので、朝食の時間を多少削れば、時間内には着く距離だ。まだ洗面所でヘアアイロンを武器に寝癖と戦っているみきの背中へ「んじゃ、お先に」と声を掛けてから涼佑は家を出た。背後から「お兄ちゃん、うっさい!」と悔しそうな悲鳴と母の「行ってらっしゃい」が聞こえたが、涼佑は妹を無視して玄関を閉める。
 丁度、橋の手前で涼佑は背後から背中へ強かに衝撃を受けた。直樹のラリアットの腕が見事にめり込んだからだ。流石に朝から不意打ちを食らってバランスを崩し、転びそうになるもすんでのところで踏ん張って耐えた。

「うおっ!? びっくりした…………何だよ、直樹」
「よっすよっす、涼佑。元気してるー?」
「うっざ。なんだ、そのノリ」
「おれさぁ、通夜ん時、うっかり言い忘れてたことあってさ」
「え、何?」
「今日、数学、小テスト」

 歩きながら「てへっ」と舌を出してウィンクする直樹の脇腹を、腹立たしさのままに涼佑はぶん殴った。「お゛あ゛あ゛ぁぁ……っ」とそこそこ苦しむ直樹に更に収まらない怒りを言葉でもぶつける涼佑。

「お前ふざけんなよ、マジで。フリでも何でも無く、マジで何もやってねぇわ」
「ごめん。おれも忘れてた。だから、オソロっちじゃん?」
「お前はせめて覚えとけよ。なに点数オソロにしようとしてんだ」
「オセロだったら、ワンチャンあんのにな」
「はは、面白いこと言うな。ちょっと黙ってろ」

 まさか葬式明けに小テストがあるなんて思っていなかった、と涼佑は先程上がったテンションを無理矢理下降させられる。隣で「涼佑せんぱい、こわーい」と気持ちの悪い女子声で勝手に盛り上がっている直樹を放っておいて、涼佑は溜息を吐きつつ、何となく周囲に目を向けた。そこは丁度橋の中程で、周りは昨日の台風の影響か、水溜まりがぽつぽつとできている。時間に余裕があるせいか、同じ制服姿が結構いた。下の川は未だいつもより勢いがある。それを視界に入れて、何気なく涼佑は零した。

「昨日、雨凄かったな」
「ああ、でも氾濫までは行かなかったじゃん。警報は一応鳴ったけどさ」
「あれ、ビビったわ」
「な。音でけぇんだもん。もうちょい心臓に悪くない音にして欲しいわ」

 そんな話をしていると、ふと、ある欄干が目に留まった。一見、見逃しそうになる場所に何か普段とは違う汚れのようなものが付いている。

「…………ん?」

 よくよく見ると、それは縦に筋が入ったような汚れで、欄干の中の一本に巻き付くように付着している。茶色の、ペンキのような汚れだった。こんなところにこんな汚れなんかあっただろうかと考えてみる涼佑だが、普段そんなに周囲を注視して橋を渡ったことが無いからか、よく分からなかった。

「どした?」
「んー…………何か、ここ汚れてんなと思って」

 直樹も一緒に見たが、特に興味も無さそうに「サビか何かじゃね?」とだけ言って先に行こうと促す。それに返事をして涼佑はその場を通り過ぎて行った。



 いつものように教室に入って来た松井は少し沈んだ表情で「早く席に就け」と静かに言った。いつもとだいぶ違うその様子に、普段松井と仲良くお喋りしている数人の女子生徒が「先生、どうしたの?」と訊くと、松井は言いにくそうな顔で「あー……」と意味の無い声を発した後に告げた。

「まだ、決まった訳じゃないんだけどな。昨日、隣のクラスの、樺倉望を見た奴はいるか?」

『樺倉望』という名前にぎくり、と涼佑の体は強ばった。折角忘れていた一昨日の出来事を否応なしに思い出してしまう。彼女に告白されて断ったことを。彼女の身に何かあったのだろうかと、別に何も悪いことをした訳ではないのに、妙な緊張感に襲われ、少し気分を悪くしていると、そんなことは一切知らないクラスメイトが質問した。

「樺倉さんに何かあったんですか?」
「あー――そう、だな。うん。…………今朝、樺倉のお母さんから連絡があって、昨日から家に帰ってないんだそうだ。だから、今は少しでも情報が欲しい。誰か、何か知らないか?」

「昨日って……」「あの台風の中?」とひそひそ口々に言い合う生徒達の声で教室内はざわめきに満ちる。そんな中、涼佑はまるでとんでもない罪を犯してしまったのではないかと錯覚していた。自分が彼女の告白を断ったから、彼女はいなくなってしまったのではないか、と思わざるを得なかった。自分のせいで。松井は情報が一切出てこないクラスに残念そうな顔をしたが、これ以上、不安にさせないようにと思ったのか、にっと笑って「今は樺倉が無事だと信じて、いつも通りを心がけような!」と無理矢理明るく振る舞い、朝のホームルームが始まった。そんな空気の中で涼佑は言いようのない不安に駆られ、俯くことしかできなかった。
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