第4話 それでいいのだ

文字数 1,429文字

 男はようやくフェンスの頂上を越えた。あとはゆっくりと無事に降りることができれば、どこかへただ走る。ひたすら走る。それだけだ。
 四メートルあるフェンスを降りていく男。手はもちろんのこと、足にも耳にも鼻にも唇にも、もう感覚はほとんどない。気力だけで男はこのフェンスを降りている。それは極悪囚の気力だ。
 男は、ここを逃げ切れば何をしようかと考えていた。また先進国の銀行をいくつかブチ破って、貧しい国に金をばらまこうか。ギャング組織の首を取って、世界を股に逃亡生活でもしようか。
 男は思った。
 俺は自由だ。
 俺は、まだ生きている。
 男は思った。
 アイツらは死んでしまったが、俺はまだ、生きている!
「ここはいい。まるで天国だ」
 ホットココアをすすりながら、微笑ましい表情でそう言うアイツら。
 天国で生きていくことを受け入れた時点で、お前らは死んでいる。魂を売ってしまった。売った魂の対価で生きているお前らは、天国でどんなに輝かしい生活をしていようが、それは死人であるのに変わりはない。
 俺は死なない。死んでも死なない。この魂は、絶対に売らない。
 あと数歩降りれば、地に足が付くところだった。そこで男は、絶望的な様子を目にしてしまった。
男の開けた重厚な扉から、ぶ厚い防寒を施した追手たちが、猟銃を持って次々に出てきたのだ。男が外へ逃げたと報告を受け、いったん中で、外に出る準備をしてきたのだろう。外は零下八十度、世界地図のどこにも載っていない禁足地。それはまるで、近くに未確認の凶悪生物でも出没したかのような緊迫感だった。
「逃がさんぞ極悪囚めが!」
 施設の看守たちは、囚人にとっては友達だった。先生だった。理解者だった。しかし男がいま見ている防寒服の看守たちは、施設の中でいつも見るあの看守の剣幕ではなかった。それがこの施設における、看守という者の真の姿だった。
「逃がすな!」
「とっ捕まえろ!」
「殺してもいい! いつでも許可は得ている!」
 パンッ!
 たった一発の銃弾に、男は見事に撃ち抜かれた。救いようもなくあっという間の出来事だった。
男の手はフェンスから離れ、二も三もなく、そのまま背中から地面へと落ちていった。落ちるたった零コンマ数秒の間に、人はこうも容易に死ぬのだな、と男は思った。
 がはっ——。
 口から吐いた血反吐が周囲の雪へ飛び散った。撃ち抜かれた箇所からドクドクと血が滲み出した。顔面には血反吐でできた赤い斑点がポツポツとできていた。
 寒さで既に弱っていた男を絶命させるのに、銃弾の一発は余分過ぎるほどのダメージを与えた。男の命はもう短かった。
 かすむ視界の中で男は考える。
 ——ここはどこだ?
 フェンスの外。施設の外。
 外の世界。
 寒いも痛いももうよく分からない。ただ眼を開けて、ピントの合わない寒空のグレーを、ポカンと見上げているだけ。
 喉の奥に血反吐が溜まってきて、やがて呼吸も出来なくなる。
 男は残された時間で、人生を振り返った。
 たくさん人を殺してきた。たくさん罪を犯してきた。
 施設の外の世界に落ちて、偽物の天国から抜け出して、男はいま、やっと本物の極悪囚に戻れた気がした。
 俺は、最後の最後まで、この魂を売らなかった。
 それでいい。
 それでいい。

 それでいいのだ……。

 男は、これから死にゆく己に、強く、そう唱えた。
 ついに男の目が光を失う間際、しかし男は、いまも温かい施設の中で幸せそうに生活するアイツらのことを、無意識に思い浮かべていた。
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