嫌いの反動形成
文字数 5,935文字
純粋だかなんだか知らないが、 無力な存在の子供が嫌いだ。
こちらの気持ちなど知りもしないで、 思った事をただ口にして無邪気に笑って…… そんな子供が俺は嫌いだ。
「でもさぁ、
丸椅子の上で体育座りになり、 クルクルと椅子と自分を回転させて遊びながら、 同期の
ここは小児心臓外科の准教授室。 つまりは俺の部屋だ。
「
「ボクの用事が大した用事かそうじゃないかはオマエが決めることじゃ無いよね? ボクが決めることだよね?」
「ではその大した用事とやらを言ってもらおうか」
「オマエの部屋でオマエがお菓子を食べてオマエの珈琲を飲んで売店で買った漫画を読みながらオマエをからかって」
「…… もういい」
大真面目な顔で菓子をボリボリと食べる貝塚に掌を向け、 言葉を制した。
医者である俺が言うのも何だが、 医者には“変わり者”が多い。 その中でも群を抜いた異端児がこいつ、
貝塚真緒
であると言っても過言では無いだろう。なんて事を貝塚に言おうものなら、 こいつはきっと……
『あはは、 変わってるオマエに言われちゃおしまいだね』
大方、 こんな言葉を返してくるに違いないから俺は言葉を飲み込むしかなかった。
無駄に広い准教授室で優雅に寛ぐ貝塚に目を向けながら、 俺は手に持っていた分厚い論文の資料を机に放り投げた。
貝塚はふわふわと掴み処の無い性格をしているが、 たまに確信を衝いた人の無意識の領域に踏み込んでくる。 それも土足でズカズカと入って来る。
俺はそんな貝塚と話すのがどうにも苦手だった。 学生時代から今に至るまでずっとそうだ。
貝塚と話していると、 心を見透かされている様な不思議な錯覚に捉われる。 その瞬間が、 たまらなく嫌だった。
麻酔科と救急医を兼任しているが、 本当は精神医療の領域の方がこいつに合っているのではないかと何度思ったことか。
そんな貝塚の姿を見ていると、 俺は一人の患児を思い出す。
俺が子供嫌いになる火付け役となったその患児は、 助かるかもしれない手術を拒否して自分の意思を貫いた、 十五歳の少女だった。
*** *** ***
その日の俺は、 非常に機嫌が悪かった。 残っている診察も論文も全部放り投げて、 場末の酒場で気を失うほど酒を浴びたい様な、 荒んだ気分だった。
しかし、 衝動と自制が頭の中で鬩ぎ合い、 勝ったのは勿論自制心だ。 自分に課せられた仕事を全てやり終えた俺は、 体に沁み付いた病院独特の薬品の臭いを風で洗い流そうと、 屋上へと向かった。
一人になって、 彼女の言葉をもう一度、 整理させたかったのも理由だった。
夕食の配膳車が慌しく院内を行き交うこの時間帯は、 屋上を散策する患者も面会に来た家族も居なくなる為、 一人になるには穴場のスポットだった。
昇降口の扉を押し開くと人影が見えた。 憩いの場に先客が居た事を知り、 俺は顔を顰めた。
その先客が俺が今この世で一番会いたく無かった人物だと気付いた時、 自分で言うのも何だが、 仏頂面がさらにひん曲がるのが分かった。
沈みゆく夕闇を仰ぎながら、 淡い栗色のウエーブがかった髪を靡かせる彼女は、 俺の気配に気付いてゆっくりと振り返った。
彼女は風に揺れる髪を手で押さえながら、 年齢にそぐわない大人びた笑みを俺に向けた。
「あら、 怖い顔ね。 原因はわたしかしら?」
俺が何故こんな顔になっているのかを、 彼女は分かっているのだ。
そう。 俺がこの日、 ずっと不機嫌さを背負って仕事に望まなければならなかったのは、 他ならぬ彼女が原因だった。
俺は昇降口の扉を閉めて彼女の横まで歩いた。
「俺を怒らせている自覚があるなら是非とも手術を受けてほしいものだな」
「わたし、 手術は受けないって言ったでしょう?」
悪びれる様子も無く彼女は笑みを携えたまま言った。
あぁ、 思えばこの会話を、 何度彼女と繰り返したことだろう。
彼女は俺が担当する患児の一人。 生まれつき心臓が弱く、 発作を起こしては生死の境を彷徨い、 入退院を繰り返す人生を送っていた。
家に居る時間と病院に入院している時間とを比較したら、 病院で過ごした時間の方が長かったに違いない。
―― 手術をしなければ、 二十歳までは生きられない。
若干五歳で宣告されて十年。 彼女は常に死と隣り合わせの生活を送ってきた。 一体、 どれほど恐かっただろう。 苦しかっただろう。 完治不能な爆弾を抱えながら生きてきた彼女の心中を察することは、 俺には出来ない。
告知から十年間手術を行わなかったのは、 当時は手術方法が確立されていなかった事もひとつの理由だが、 もうひとつの理由は虚弱な彼女の心臓が長時間の手術に耐える力が無いと判断された為だった。
いつ散っても可笑しく無かった彼女が今日まで生きてこられたという事実を、 奇跡という表現以外に相応しい言語があるなら、 是非とも教えて欲しい。
そんな奇跡が幾つも折り重なって、 彼女は十五歳を迎えた。
時代の発展と共に、 彼女の病に対するアプローチも変わっていった。
当時は不可能だった手術が、 不可能では無くなったのだ。 神の領域とも呼べる難解な術式ではあったが、 当時、 その論文が発表された時は歓喜に震えた。 彼女を救える手段が見つかった事を仲間と喜び合った。
手術記録を世界中から掻き集めた。 彼女の手術に備えて院内で選りすぐりのスタッフが集められてチームが結成された。 あらゆる事態を想定して綿密なカンファレンスが行われた。 全ては彼女を生かす為、 彼女の命を未来に繋げる為の行動だった。
定期検査の結果、 手術が可能であると判断した。 全ての準備を整えて彼女と彼女の唯一の肉親である父親を呼んだ。
今回の手術の内容と術後の治療方針について、 二人に説明を行った。
彼女の父親は手術が可能である事を知って喜んだ。 全ての説明が終わって、 彼女に意思を確認した。 彼女は淡い笑みを浮かべて言った。
『手術は受けません』
説明が足りなかった為に、 不安を抱かせてしまったのだろうか? そう思って、 再度術式や治療方針の詳細を告げた。
彼女は表情ひとつ変えること無く、 幼さの残る甘い声で、 強く言った。
『先生、 父さん、 わたしは手術を受けるつもりはありません』
それから、 何度も説得を試みたが、 彼女が頷くことは無かった。
これまで色んな患者と出会ってきた。 手術を拒否した患者も居たし、 別に彼女だけが特別では無い。 しかし……
平静を保ったまま手術を拒否する彼女の姿は、 まるで自分が辿る運命を悟っているかのようで、 俺は言い知れぬ恐怖を抱いた。
どうして、 拒絶するのだろう。 希望を掴もうとしないのだろう。
彼女の心を理解しようと試みた時、 苛立ちが生まれた。
この苛立ちは、 手術を受けて欲しいが故の、 思い通りにならなかった事への苛立ちなのか。 それとも彼女の思いを理解できない自分への腹立たしさなのか。
胸に痞える違和感の意味には辿り着けないが、 俺の不機嫌の原因は彼女が関係している事は言うまでもない。
自分の頭の中を整理する意味でも、 この屋上で秋の香りを感じる風にあたりたいと思っていたのに。
そう、 俺の目の前には彼女が居る。
花のような笑みを、 その端麗な容姿に宿しながら。
「ひとつ、 聞いても構わないか? 」
「なに? 」
「何故そうまでして頑なに手術を拒否するんだ? 手術が怖いのか?」
先ほどは、 拒否の理由を聞いても彼女は答えようとはしなかった。こちらも深くは聞かなかった。
少し時間を置いて、 再度彼女に意思を問うつもりでいた。 チーム内でそう決めた。 でも俺は聞かずにはいられなかった。
―― 彼女の心には、 強い信念の様なものが感じられる。
時間を置いたから「やっぱり手術を受けます」 という流れになるとは、 とても思えなかったのだ。
こんな事を、 この場で彼女に問うべきでは無かったのかもしれない。 医者としてあるまじき行動に出たのかもしれない。
でも知りたいと思った。 彼女の心に秘めたるものを……。
彼女は目線を、 少しだけ下に移した。 束の間の沈黙の後、 綺麗な金色の瞳が俺の瞳とぶつかった。
「運命に抗わずに、 今ある命を最期まで咲かせたいの」
俺は首を傾けた。
彼女は目を逸らさず、 言葉を続ける。
「手術を受けて大人になれて…… 大好きな人と結婚ができて……。 そんな奇跡が起こったらとても素敵ね。 でも、 いつこの世界とお別れしても不思議じゃなかったわたしが、 十五歳になるまで生きることができたの。 それが奇跡なの。 わたしはもう、 たくさんの奇跡をもらった……。 だからいいの。 わたしは幸せだから。 今この瞬間が幸せだと思えるから……」
彼女が淡く微笑む。
「わたしは神様から与えてもらった限り在る命を、 ありのまま、 最期まで咲かせたいの。 それが願いなの」
「だから手術を受けず、 どれだけ生きられるか分からなくても、 それで良いと? それが自分の幸せだと言い切るのか?」
彼女が笑顔で頷いた瞬間、 俺の中で、 何かが音を立てて切れた。
「生きたいと思わないのか!?」
俺はフェンスを強く殴りつけ、 声を荒げた。
彼女は相変わらず表情ひとつ変えず、 俺を見据えている。
俺はますます自分が判らなくなった。 俺は一体彼女に何を言おうとしているんだ?
頭で考えるよりも、 言葉は口から次々と溢れ出てきて……
「俺が助ける。 君を百歳まで生きさせてやる! 生きて良かったと、 手術を受けて良かったと思える奇跡を必ず起こす! だから自分の人生を決めてしまうな! 幸せなんて生きていれば、 いくらだって感じることができるはずだから、 その年で死を受け入れるなんて悟ったような事は言うな!」
「先生、 わたしが死んだら哀しい?」
フェンスに顔を埋める俺に彼女が問う。
俺は、 答えられなかった。 彼女は首を傾けた。
「哀しいから、
俺は言葉を失っていた。 雪花ちゃんの疑問符への解が見つからなかった。
ちがう、 そうじゃない。 答えなんて最初から解っていたんだ。 きっと。
俺は自分を皮肉る様に嘲笑った。
「哀しいだって? そうだな……。 君みたいに頑固で、 いつも先生を困らせて…… そんな君が死んだって、 俺は……」
死んだって俺は? 死なせたくない。
死んだって俺は? 死なせたくないんだ俺は。
手術を受けても雪花ちゃんの病気が完治するとは限らない。 でも可能性がゼロでは無いのなら、 俺は全霊で雪花ちゃんの命を守りたい。
けれど、 生き方を決めるのは雪花ちゃん自身だ。
彼女を救いたい…… それは結局、 俺のエゴだったのか?
情けなく俯く俺の白衣の裾を、 小さな雪花ちゃんの手がきゅっと掴む。
「先生みたいな人に哀しんでもらえて、 雪花は幸せね」
俺は雪花ちゃんを見下ろした。 無邪気な、 ただの子供の笑顔が、 そこにあった。
「ありがとう幸永先生。 わたし、先生と出会えてすごく幸せ。 雪花の命と向き合ってくれて、 諦めないでくれてありがとう。 先生、 大好き」
そう言って俺の顔を見上げる雪花ちゃんは、 まるで天使の様に穏やかで、 雪の様に儚かった。
雪花ちゃんとの会話は、 これが最後になった。
数ヵ月後の冬。 聖なる鐘の音が鳴り響く夜に雪花ちゃんはそっと、 世界と別れを告げた。
* * *
「やっぱり、 幸永は子供が好きなんだと思うよ」
俺の話しを聞いていた貝塚が、 口端を吊り上げて笑う。
俺は自分の眉間に皺を寄せた。 貝塚は手に持っていたスナック菓子を口に放り込みながら言う。
「子供が嫌いって言っちゃうのも、 つまりは反動形成なんだよね」
「抑圧した欲求に対する反動で、 反対の態度や行動を示す。 つまりお前は、 小児に対して嫌いと言っている俺の言葉が、 愛情の裏返しと言いたいのか? 」
「もっと簡単に言えばツンデレってやつなんじゃないの?」
貝塚がスナック菓子をぼりぼりと咀嚼しながら不気味に笑った。
駄目だ。 こいつと話していると、 どうも調子が狂う。
俺は呆れた様に溜め息を零し、 出口を指差した。
「出ていってくれないか。 これでも一応、 准教授という忙しい身なんだ」
「えぇ? まだお菓子全部食べてないよぉ?」
貝塚が唇を尖らせながら抗議をしてきた。 俺は出口を指差したまま、 低く「出てけ」 と言い放った。
貝塚は渋々立ち上がり、 出口へと向かう。
「あ、 そうだ」
ドアノブに手をかけた貝塚が振り返った。
「さっきの話だけど、 ボクならきっと寂しいと思うな」
「寂しい?」
「雪花ちゃんに“わたしが死んだら哀しい?” って聞かれたんでしょ? ボクならきっと哀しいより寂しいって感情の方が強い気がするのね」
「寂しいから、 お前は患者の命を救うのか?」
「うん。 だめ?」
へらり、 と笑って貝塚が首を捻る。
俺は少し考えた後、 否定の意味を込めて首を横に振った。
「医者として正しい感情とは言えないな」
「でも医者は神様じゃないんだから、 感情的になる時だってあるし、 惨めに足掻きたくなることもあるでしょ?」
「それは…… 厄介だな」
「そうだよ。 厄介なんだよね。 でもね、だから楽しいんだよ。 “人間”ってのも人生ってのもね」
ひゃひゃひゃ。 貝塚が肩を揺らして笑いながら去って行った。
貝塚の足音が部屋から遠のいていって静寂が立ちこめる。
夕陽が沈みかけた薄暗い部屋。 俺は窓のブラインドを開けた。
あの日、 彼女の背で輝いていたような赤い陽の光が、 静かな部屋をそっと照らす。
それは彼女の、 雪花ちゃんの儚い命の輝きにも似て……
『先生、 わたしが死んだら哀しい? だから雪花を助けようとしてくれているの?』
雪花ちゃん……。
哀しいよりも、 先生も寂しい、 かな?
君が遺してくれたものは、 大きくて温かくて……
『わたし、先生と出会えてすごく幸せ』
先生も雪花ちゃんに出会えて幸せだったよ。
―― 本当は内緒だけど、 先生…… 子供が大好きなんだ。
だから小児科医になって君みたいな子に未来をあげたいと思ったんだよ。