第6話

文字数 1,664文字

「……ん?」
「……え!?」

 思わずマフラーから顔を上げて睨むと、詩織は肩をビクつかせた。思考がまとまらない。
「んーと……どういうこと? もう一回言って」
「……だ、だからっ」
 詩織は自棄を起こしたような様子で、乱暴に自身の手から空色のミトンを剥ぎ取った。手のひらが見えるようにして、こちらに突き出す。
「見て! わたしの手、ミカンの食べ過ぎで超黄色なの! わたし、毎日吐くくらいミカンを食べちゃう、超ミカン好きなの!」
 突然のミカン中毒宣言。しかし、そう主張されても、夕暮れが辺りを支配する中では、手のひらどころか、どこもかしこも濃い黄色だ。
 詩織は目の端に涙を滲ませながらも、ほとんど怒ったような表情。
「ほ、ほう……」
 うなずくことが精一杯だ。自分たちはいったい何の話をしているのだ、と疑問に思う。
「え……? まさか、それが嫌われる理由……?」
 混乱したまま問いかけると、詩織は手を引っ込めて、ミトンをきゅっと胸に抱きしめる。眉尻をストンと下げて、涙混じりの声で言った。
「……だって、はるか言っていたでしょ、自分はミカンが得意じゃないって……嫌いなものをバカ食いする女子なんて、軽蔑されるって思って」
 言ったかもしれない。ミカンの酸味が苦手なことも、事実だ。
「バレないように、めちゃくちゃ隠していたのに。はるかの前では、できるだけミトンを外さないようにして」
 そう言えば、そうだったような気がする。そこまで意識して見てはいなかったけども。
「……別に、そんなに神経質にならなくても。自分は好んで食べないだけで、他人が好きで食べる分には、何とも思わないよ」
「え!? 嫌わない?」
 詩織はパッと顔を上げた。
「……うん」
 ミカンを食べ過ぎて、誰の目にもわかるくらい病的に顔色まで黄色く染まるようであれば、さすがに少し控えたほうがいいのでは、とアドバイスくらいはしたくなると思う。
 しかし、真剣に悩んでいたようなので、詩織には悪いけども、ミカンが大好きだと言う子を毛嫌いするほど、そもそもミカンに対して憎悪を抱いているわけではないのだ。それでは、あまりにもミカンがかわいそうだ。
「うぇえ、よかったぁ……」
「えっと……それより、このマフラーには、何かいわくが……?」
 もしかして、そのこと自体が勘違いなのか、という疑惑が腹の底から湧き上がるのを感じつつ、マフラーをつまんで示してみせる。
 詩織は一瞬キョトンとして、すぐに懐かしい想い出を回想するかのように、表情をゆるませた。
「あぁ……うん。一緒に暮らしていた犬のケンタローが、同じ色のマフラーをしていて。犬はそんなの邪魔だよって言ったのに、ママが聞かなくて」
「犬」
「すごくおバカで可愛かったの。もう、天国に行っちゃったけど」
 頭の中を整理する。
 あの日、詩織の目を奪ったのは、このマフラー。可愛がっていた愛犬とお揃いだった。このマフラーに重ねていたのは、愛犬の面影。あの時、詩織が反応した言葉は、「夏」ではなく「ミカン」。てっきり夏に辛い別れがあったのかと思っていたけど、そうではなかった。
「はるか?」
 黙ってしまった友人が心配になったのか、詩織が心配そうに顔を覗き込んできた。その大きな目を見ながら、しばし考え込んだあとで、笑った。大笑い。藍色が混ざり始めた、空に向かって。
「はるか!?」
「いや、ごめん、そうか」
 笑いすぎて、目の端に滲んできた涙をぬぐう。こんなに思いきり笑ったのは、久しぶりだ。
 まさか、自分が嫉妬していた相手が、犬だったなんて。いや、今は亡き愛犬だって、詩織にとって大切な存在には違いない。笑うのは失礼だ。
 正面に立つ詩織は、まだ心配そうにこちらを窺っている。
 彼女の飛び抜けた発想力を、自分はまだ完全に掴み切れていない。だから、知りたい、と思う。彼女の突拍子のなさに振り回されて、やがて、やれやれまた始まった、と苦笑いするくらいになるまで、一緒にいたい。
 それにはやっぱり、本当の自分で向き合わないといけない。もし、これで詩織が離れていったとしても、きっと諦められる。
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