第2話

文字数 1,625文字

「君、昨日、会った子だよね」
 振り返って言った。バスを降りて、駅ビルに沿って少し歩いたところだ。
 右手に眺めるバスターミナルには、学生の帰宅ラッシュであるこの時間、大型バスがひっきりなしに出入りしている。角張った長い車体は、柔軟性なんてないのに、するりするりと互いにかわし合い、よくもぶつからないものだ、と感心する。降りた学生は、次々と駅ビルに吸い込まれていった。
 彼女は、ストーキングの相手が急に振り返り、自分に声をかけてくるとは夢にも思わなかったらしい。とっさに逃げることも叶わず、その場でカチンと固まった。こちらにとっては、その反応は目論み通りと言っていい。
 この手の視線は、さっさと手を打ってしまうことが良策だ、と常々思っている。実際に、そうしてきた。自慢でも何でもなく、今までにもこういったことはよくあって、悩みの種だった。
 彼女はたちまち頬を真っ赤に染めて、まつ毛をふせる。口を開いた。
「……あ、あの道を、犬を散歩する人は初めて見て」
「他の人のことは知らないけど。犬のワガママに付き合わされてね」
「犬の……?」
 切り揃えられた前髪の下で、大きな瞳がこちらを窺う。
 マフラーに指を引っかけて少しずらし、口を出して簡単に説明した。
「一昨日は、雨が降っていたでしょう? 存分に散歩できなかったし、昨日は犬の誕生日でもあったから、行きたい方向へ好きに歩かせてあげたんだ。いつもだったら、あの道は通らないよ」

 中学時代、塾で隣り合った他校の女子。高校時代、バイト先でハンバーガーのオーダーを承った客。様々なケースで、図らずも女性の気を引いてきた自分ではあったが、たまたま道ですれ違っただけの、ショートパンツの似合う可愛らしい女の子に、まさかその翌日から付け狙われようとは。
 もう二度とついてこないで、とピシャリと言い放つつもりだった。余計なことは言わず、簡潔に、冷たく。それがいちばん効果的なのだ。

 だけど、できなかった。
 こちらが行動に出ると、相手はバツが悪くなって逃げるか、開き直って迫ってくるかのどちらかだ。
 彼女はどちらでもなかった。最初こそ隠れたものの、二度目は逃げもせず、そうかと言って、ヤケクソに連絡先の交換をねだってくることもない。
 ただ、立っていた。身体を置いて、心だけが、どこか遠くへ飛び立ってしまったかのように。自分を追いかけてきたはずなのに、その目は自分を見ていない気がした。
「……レポートを」
 そこまで言って、背負っていたリュックを下ろし、中を探る。やっと我を取り戻したように瞬きをする彼女に向かって、文庫本を突きつけた。
 彼女はポカンと口を開ける。表紙から目をそらさない。
「この小説をしっかり読んで、レポートを書いてきて」
「れ、レポート?」
 上げられた彼女の顔に、戸惑いが浮かんでいた。無理はない。
「その出来によって、友達になるかならないかを決めるよ」
 なぜ、そんなことを言ってしまったのか。
 自分の中の予定にない態度を取った彼女に、珍獣を目にした時に似た興味が湧いたのか。単純に、プライドが傷ついたせいかもしれない。
 彼女にとっても、その言葉はまったくの想定外だったようだ。せわしなく目をしばたたかせ、何か言おうと、何度も口を開きかけた。
 だけど、嬉しそうでもあった。興奮からか、頬がみるみるうちに上気する。そのうちにまつ毛をふせて、涙をこらえるような表情をした。
 視線が絡まなくなると、目は先程と同じ雰囲気を宿した。ここにはない何かを見ているような目。どこか悲しい色。
 珍しいわけでも、悔しいわけでもない、とその時にわかった。彼女の目に漂う、かすかな悲しみの理由。自分の向こうに、何を見ているのか。それを、知りたいと思ってしまったんだ。
 やがて、彼女は震えながら手を伸ばし、文庫本を掴んだ。
「……こ、心得ました!」
 リップで艶々とした唇がそう吐き出した時には、勢いよく鼻水を噴き出しそうになってしまった。
 なにそれ。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み